宇野重規先生の『民主主義のつくり方』その2。
本の中では、次のようなことも紹介されています。近代社会が想定したのは、自立した個人です。それに対する、意外な角度からの異議申し立てがあったこと。それは「ケア」です。
子どもと高齢者を思い浮かべれば、人は必ず他者の支援が必要です。しかし、近代の政治思想は、自立した市民を想定し、市民が「公」である政治に参加する。それ以外のこと、例えばケアの問題は「私」の領域に封印され、政治の世界から排除されたのです。それを論じた研究として、岡野八代著『フェミニズムの政治学』(2012年、みすず書房)を紹介しておられます(p88)。
これに関して、フランシス・オルセン著『法の性別ー近代法公私二元論を超えて』(2009年、東京大学出版会)を、思い出しました。そこで取り上げられている「公私二元論」です。著者は、国家と市民社会を対置させる公私二元論と、その市民社会の中で市場と家庭を対置させる公私二元論を、主張します。2つの公私二元論を区別するのです。そして、この公私二元論が、国家が市場経済に介入しない論理的基礎となり、また家庭に介入しない論理的基礎になったと主張するのです(2010年5月2日)。
さらに脱線すると、この1世紀の政治と行政の歴史は、自立した市民という理想像や公私二元論の哲学によって忘れられていた「弱者を発見する」歴史でもあったと、私は考えています。それは、労働者、消費者、障害者、女性という「弱者」であり、介護や家庭内暴力や引きこもりといった家庭内の「私事」です。これらが「発見」され、行政による支援とそれを位置づける法律ができたのです。