先月、消防大学校の上級幹部研修で、人間関係論を3時間講義しました。その時の、研修生による講師の評価が届きました。結構良い点をもらっていたので、ほっとしました。研修生の皆さんが、「紳士」だったということかもしれませんが。
消防大学校でも自治大学校でも、講義や講話をすると、校長も研修生による評価の対象になります。数字で出てくるので、成績表をもらう生徒の緊張感を味わうことができます(苦笑)。これは、かなり緊張します。
幹部や幹部候補生への講義は、難しいのです。大学生を相手にするなら、知らないことを教えることになります。幹部職員の研修も、部下職員と違った、幹部職員に必要な知識と技術を、新たに教えることになります。しかし、勤めて20年にもなる職員は、たいがいのことを知っています。いえ、知っていてないと、困るのです。
すると、最新の知識を確認してもらう、最近の動向とこれからの課題や見通しを知ってもらう、知っていることを全体と関連づけて整理し直すことが、主になります。日頃断片的に得た知識を、もう一度整理し直し、抜けていることを埋めてもらうのです。
私は、このほかに、「知っていることで安心することも重要である」とお話ししています。「日本で最高の講師陣から話を聞いて、既に知っていることであるなら、それは、あなたが最高水準であるということです。自信を持って、仕事をし、後輩に話して下さい。そして自分なら、後輩の前でどう話すか、その技術を盗んで下さい」と。
とはいえ、厳しい研修生から良い評価をもらうためには、内容と話し方に工夫が必要です。毎回、準備にも、大きなエネルギーが必要なのです。
月別アーカイブ: 2011年2月
2月なのに春の陽気
今日の東京は、15度を超え、4月のような暖かさでした。久しぶりに散歩した善福寺川公園も、紅梅白梅が真っ盛りでした。ミモザの花の黄色もきれいです。我が家の椿も、たくさんのつぼみが膨らんでいます。
梅にしろ桜にしろ、葉も出ない時期に、良くあれだけの花を咲かせます。枯れたように見える幹と枝の中に、それだけの材料とエネルギーを蓄えているのですね。自然の仕組みは、素晴らしいものです。
しかし、明日からは再び寒くなるとのことです。春は、まだですね。
自信のない日本の若者
日米中韓の4か国の高校生を対象とした調査結果が、報道されていました。25日の読売新聞、26日の日経新聞など。調査は、心と体の健康についてですが、興味深いのは、自己評価についてです。
「私は価値のある人間だと思う」は、日本7.5%、米国57.2%、中国42.2%、韓国20.2%です。
「自分を肯定的に評価するほう」は、日本6.2%、米国41.2%、中国38.0%、韓国18.9%。
「私は自分に満足している」は、日本3.9%、米国41.6%、中国21.9%、韓国14.9%。
「自分が優秀だと思う」は、日本4.3%、米国58.3%、中国25.7%、韓国10.3%。
いずれも、日本が飛び抜けて低いです。本心から思っているのでしょうか、内心は別だけど謙虚に振る舞っているのでしょうか。心配になります。
親との関係においても、日本の高校生は、自分の優秀さを親が評価していることへの肯定率が低いとのことです。米国91.3%、中国76.6%、韓国64.4%に対し、日本は32.6%です。
このような傾向は、本人が一人で考えて身につけたものというより、社会の風潮を学んだ、影響を受けたことの方が大きいと思います。私たち親の言動、マスコミの言動が、このような傾向をつくっているとしたら、私たちの責任ですね。
やらせてみて、責任政党を育てる
昨日の続きです。朝日新聞2月22日オピニオン欄、「1票の格差の話をしよう」から。井上達夫先生は、日本政治の現状について、次のように述べておられます。
・・政権が交代しても何も変わらないという、しらけと失望が現在、国民に広がっているようで気がかりですが、政権交代を繰り返す中から変革の可能性は開けてくると思います。しっかりしないと政権を失う、しっかりしないと政権を奪還できない、という政治的競争圧力が、政策的、組織的な統合力を高める方向への自己改革のインセンティブを政党に与えます。参院の強すぎる権限の問題を克服する政治的慣行も、その過程で形成されると期待します。
大事なのは国民とメディアの態度。政治家をたたいて快哉を叫ぶ態度から、本当に改革力のある責任政党を育てる姿勢に転換すべきです。
有権者は政党や政治家に「やらせてみる」。政党や政治家は「やってみせる」。失敗すれば「潔く責任をとる」。拒否権勢力が牽制しあい足を引っ張りあう政治から、責任ある政治的指導力を鍛え上げる民主政治に変わってほしいと思います・・
協調・責任の分散か、競争・責任の明確化か
朝日新聞2月22日オピニオン欄、井上達夫東大教授のインタビュー「1票の格差の話をしよう」から。
教授は、議会制民主主義を2つのモデルに区別します。一つは、多様な政治勢力が権力を共有してコンセンサスで決めるという「コンセンサス型」。もう一つは、選挙で比較第1党になった政党に単独で政権を担当させ、政権交代を活性化させる「ウェストミンスター型」です。そして、政治的な答責性の面からは、コンセンサス型は問題が多いと主張されます。
・・アカウンタビリティーは説明責任と訳されますが、単に説明すればいいのではなくて、責任者に腹を切ってもらうことまで含む概念。私はそれを答責性と呼んでいます。政治的な答責性は2種類。一つは「誰が間違っていたのか」という主体的答責性。もう一つは「何が間違っていたのか」という主題的答責性です・・
・・コンセンサス型の場合、相互に拒否権をふるう多様な政治勢力の妥協で政策形成をするから、みんな自分が譲歩を強いられたという被害者意識を持つ。うまくいかなければ互いに責任を転嫁しあうので、誰が間違ったのか主体的答責性が曖昧になります。また、政策がつぎはぎになるため、何が間違っていたのか主題的答責性も不明確になる。答責性の観点からは、理念的、機能的な整合性をもつ政策体系を追求する単一の勢力に政権を運営させるウェストミンスター型が好ましい・・