「歴史遺産」カテゴリーアーカイブ

三位一体改革22

26日の読売新聞社説は「補助金削減 地方の裁量増やす基本忘れずに」でした。「補助金は思い切って減らし、税源移譲により地方の裁量を増やす方向で議論を深め、最終方針をまとめるべきだ」。
また「財務省は、公共事業関連については、補助金を削減しても税源移譲できないとしている。・・だが、建設国債にしてもいずれは税金で償還されることを考えれば、ほかの補助金と区別する理由にはならない。スリム化を図りながらも、補助金削減分の一定割合は、地方に移譲するのが筋だ」とも。こういう主張がついに新聞でも出てきました。
27日の日本経済新聞社説は「補助金削減反対一点張りでは通らない」でした。
「何とも奇妙な光景である。補助負担金をもらっていた地方はもう要らないといい、配分する側の各省はぜひもらってほしいと頼み込む。時にはもらわないと大変なことになるぞと脅す。役回りが逆である」
「関係各省はこの削減案に反対の大合唱である。これらの補助負担金を廃止すれば、税源移譲しても、事業が縮小しかねないし、財政力の弱い自治体では事業の実施が困難になり、地域間格差が広がってしまうという主張はほぼ共通している」
「しかし、社会人になった息子が仕送りは要らないというのに、無理に押し付ける親と同じで、説明はつけにくい。教育をないがしろにし、老人福祉施設などの整備を怠る自治体なら、住民が放っておくはずがない。まともな行政サービスをしない首長や議会があれば、選んだ住民の責任という当たり前の自治が機能する形にするのがなぜいけないのか」
「小泉首相は地方に削減案の取りまとめを要請した以上、尊重する責任がある。各省も反対だけでは責任を果たせない。もっと地方の裁量が広がるいい対案があるなら示せばいい。関係閣僚は地方案に対して、省益の代弁に終始してきたが、間もなく内閣改造がある。省益を超えて、指導力を発揮できる閣僚をそろえなければ、改革は進まない」(9月27日)
27日夜、内閣改造後の記者会見で小泉総理は、内政問題の大半を、三位一体改革と郵政民営化に費やしました。そして、「三位一体改革は、年末にかけて大きな課題であります」と述べました。
10月4日から毎日新聞が、「三位一体改革の現場:地方はどう変わるのか」の連載を始めました。野倉記者は、次のように解説しています。
「厚生省出身の浅野史郎宮城県知事は、・・『省庁は「我々が補助金でミニマムを保障している」と考えているが、政治という場で納税者が鍛えられる過程を経なければ、日本はいい国にならない』と話した。補助金による全国一律の行政を選ぶか、格差拡大のリスクを抱えつつも住民自治のプロセスを重視するかー。問題は国の在り方そのものにかかわっている」
産経新聞では、藤原正彦お茶の水女子大教授が「義務教育は地方分権になじまず」を書いておられました。でも、このような主張をなさる方の通例として、義務教育のどの部分が地方分権になじまないのか、分別して述べておられません。今も、小中学校は市町村立で、先生は地方公務員です。これを、国立にするという主張でもないでしょうし・・。また、先生の給料=教育の水準と、話をすり替えられるのです。(10月4日)
5日の読売新聞は「どうなる懸案-小泉新体制」連載の2で、三位一体改革を取り上げていました。「根強い省庁、閣僚の抵抗」です。「先行きを懸念する麻生総務相は、首相によるトップダウンでの決着が不可避と見る。『地方への3兆円の税源移譲を決めたのも、税源移譲に見合う補助金を地方に考えさせたのも首相。最終的には首相の決断だ』」
日本経済新聞5日のコラム「春秋」は、イチローとシアトルから、アメリカの伝統を取り上げています。「政府が口出ししない結果、個人が自分自身で何でもやる習慣がつく。他からの助けを求めず、自分で考え対処する」というトクヴィルの言葉を引いています。そして、三位一体改革の必要性を述べています。
三位一体改革は分権の一部であり、日本の政治と文化を変えようとするものなのです。(10月5日)
6日の朝日新聞朝刊は、大きかったですね。1面トップで、紙面の半分を使って「地方へ補助金維持したい」「官庁圧力」でした。2面ではその解説「首相の指導力かぎ」がされていました。板垣記者ありがとうございます。署名入り記事は重みが違いますよね。
これまでの中でも、この記事は地方財政関係では「史上最高」の扱いだったと思います。大きさだけでなく、内容もインパクトがあります。西日本新聞も2面で大きく取り上げていました。
5日には、地方団体代表が官房長官に申し入れをしました。要点は「前回の関係大臣の発言に失望した。これでは、三位一体改革、地方に行政を任せるという基本方針にもとるんじゃないか。同じことを閣僚が言い続けて、それに反論すのでは意味がない」ということです。
三位一体改革をめぐる「せめぎ合い」「抵抗」については、追って解説する予定です。
一方、6日の毎日新聞朝刊は、「国債発行抑制、三位一体改革に期待」を大きく伝えていました。財務大臣が総理に、来年度の国債発行額を抑制する方針を伝えたとのことです。それ自体はいいことです。でもその要素は、景気回復による税収の増と、三位一体改革による歳出の削減だそうです。
財務省から見ると、三位一体改革は「歳出削減」なのです。もう一つ、国は、それ以外の歳出削減努力はないのでしょうか。(10月6日)
10月4日に「新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)」が、「小泉内閣改造後の政党政治のあり方に関する提言を発表しました。文章は日本の政治の在り方に関するものですが、その中で第2番目の項目として、三位一体改革の進め方が取り上げられています。概要は次のとおりです。
「小泉内閣は三位一体改革で責任ある対応を」「三位一体改革は、小泉改造内閣の真価が問われるきわめて重要な『試金石』。各省大臣は『政権公約を小泉首相とともに共有する内閣の一員』として行動を。各省の個別的抵抗を統制するのは小泉首相の責任。各省は、仮に地方の提案に反論があるのであれば対案の提示を。」
詳しくは、本文を見てください。(10月5日)

2004.09.30

月刊『地方財務』(ぎょうせい)10月号に、関西社会経済研究所「三位一体改革のシミュレーション分析」の概要が載っています。また、新たに淵上俊則氏の「公務員制度改革の動向を読む」の連載が始まりました。公務員制度については、法令解説はありますが、制度全体の概要解説書は見あたりません。不思議なことですが。今後の執筆に期待します。長谷川彰一氏の「年金問題を考える」は最終回です。

財政論2

パネルディスカッション「都市対地方:財政、公共事業、一極集中の是非をめぐって」発言骨子(続)
財政論1から続く
3 財政から見ると
(1)都市から地方への財政移転
代表は、補助金(公共事業、農業など)と地方交付税。
地域間格差と財政問題を議論するときには、一人当たり所得やGDPが比較される。一方、税金がどのように配分されているか、補助金と交付税で分析するのが主な手法。
しかし、補助金と交付税のすべてが、地域間格差を埋めるためのものではない。
財政移転を二つに分けて考えるべき
①対人サービス
ナショナルミニマムといわれる支出は、地域でなく個人に着目して配分される。教育、医療、介護など。
これらは、1人当たりほぼ同額の支出。全国一律のサービス水準である。一方で、地方団体に事務を担当させているので、税収格差がある。それを埋めるための手法が、補助金と交付税。
②公共事業や産業支援
これは、国民1人あたりで支出していない。これを、どう評価するか
通常、都市対地方を比較する際に、公共事業費を住民1人当たりで比べるが、面積当たりで比べると東京が圧倒的に大きい。
また、公共事業支出が、地域の人たちに帰属しているとは限らない。地域外の大手企業が受注することを考えればわかる。
(2)経済論と政治論
このように、地域間再配分と国民間再配分を、分けて議論しなければならない。
そして、国民間の再配分は、まさに財政の仕事。
地域間の再配分は、この国をどうつくるか政治の仕事。
いずれにしても、この国のかたちをどうするかの問題。
補助金交付税の地域間帰属分析は、さらに三位一体改革議論も、行政分野だけの「狭い議論」でしかない。
4 国際比較
中国財務省幹部から、質問を受けたことがある。
「日本では、経済発展による地域間格差、人口移動にどう対処したか」「人口移動を法律で禁止したのか」
私の答は、「日本は、(最初に述べたように)いくつかの組み合わせで処理をした。人口移動は禁止しなかった。」
中国では、経済発展格差による人口移動は、人口増加問題に次ぐ、重大問題。
一方、先進諸国では、この問題はどのように設定されているか。
社会文化的背景が違う。ドイツ、フランス、アメリカ。
それによって、問題意識も、用いる政策も違う。
純粋経済学のみで議論したり、解決する問題ではない。
5 林正義先生(財務省研究所)からのコメントに対する発言
林先生が指摘されるように、現在の日本では、都会と地方とどちらが果たして豊か。
いつまで、一人当たり所得(お金)で、豊かさを測るのか。
西ヨーロッパ各国に比べ、一人当たりGDPでは1.5倍になっている。でも、幸せを感じない。
豊かさと平等を達成した日本。キャッチアップの終了は、戦後型政治の終了でもある。

財政論1

パネルディスカッション「都市対地方:財政、公共事業、一極集中の是非をめぐって」発言骨子
日本経済学会2004年度秋季大会(9月25日岡山大学)
司会 東京大学井堀利宏
国際基督教大学八田達夫、京都大学藤田昌久、関西学院大学小西砂千夫、慶応義塾大学土居丈朗、総務省岡本全
私の発言骨子
「なぜ今、都市対地方が問題になるのか」から、問題を整理したい。
1 歴史的、社会的背景(かつての問題)
まず歴史的な経緯から見ておく。
(1)高度経済成長期
経済発展が、地域間の経済力格差を生む。
生産性の高い工業対農業=都市対地方という構図。
しかし日本では、それが政治的対立につながらなかった。
その理由は、次の3つと考えられる。
①人口移動:社会的解決
地方から都市(太平洋ベルト地帯)へ、大移動があった。
農家の二男、三男を都市が吸収
②工業分散:経済的解決
新産業都市建設をはじめ、農村部へ工業が立地。
兼業農家を可能にした。
③農業と農村の保護:政治的解決
米価政策、輸入制限
公共事業を中心とした補助金の配分
「自民党形政治」と呼ばれるもの。
こうして、世界一の経済成長と平等を達成
(2)東京一極集中
このように、高度成長期は、日本全体では「地方対太平洋ベルト地帯」、地方でも「中心都市対農村」という構図。
しかし、その後(1980年代以降)の東京一極集中は、それとは違う。
これについては、八田先生が説明してくださったとおり。
東京一極集中に対し、政治的、経済的に有効な対策を打てなかった。
以上が、日本の都市対地方問題の歴史である。
2 今なぜ問題になるのか
象徴的なのが、「骨太の方針2001」策定時の議論。
「均衡ある国土の発展」という国是を、「地域間競争」という言葉に転換しようとした。そこには、次のような背景がある。
(1)経済発展の終了
財源がないのに、都市から地方への財政移転を続けていることへの疑問。
赤字国債を大量発行しながら、まだ補助金と交付税を配るのか、という批判。
(2)補助金と公共事業の手法への疑問
米価政策は終了。
これまでの農業補助金は、農家を育てたか。疑問。
公共事業は農民と農村を豊かにしているか。疑問。
このまま補助金と公共事業を続けて、地方はよくなるか。
(3)問題の変質
農民は、4%を切った。
農業対策が、地方対策か。
都市対地方は、有効な問題設定か。
有効な地方振興策は、何か。
経済成長の終了=もはや、経済発展が生む地域間格差の問題ではない。
均衡ある国土の達成=公共事業によるインフラ整備もほぼ完了した。
課題を達成したときに、手法は変わるべきであり、また問題の立て方も変わっているのではないか。

三位一体改革21

16日の読売新聞には、山出保全国市長会長の「分権推進は歴史の流れ」が載っていました。「いま、国と地方が一緒にシステムをを変えるという意識に転じるようになってほしい」「義務教育は国の仕事ではないのかという疑問の声も聞く。何でも地方に任せろといっているのではない。むしろ国は、学力の到達目標が達成されたかどうかの評価・検証に責任を負うべきだ。これに対して、カリキュラムや授業時数の編成など、目標を達成するための方法は、地域や子供の実態に応じて、市町村や学校現場に任せてほしい。」「・・市町村には、学校を建設する権限だけで、任命権もない・・。教職員システムには一貫性がない」「もちろん、我々の改革案は地方にとって甘いものではない。市長会でも補助金がなくなる不安が少なくなかった。だが、『志を高く持とう』としてまとまったものだ」
昨日紹介した文科大臣の「国庫負担の現ナマを、地方はなぜ捨てるのか」と比べてください。「志の高さ」の意味を、みなさんも考えてください。(9月17日)
【視座の違い】
三位一体改革の動きは、新聞各紙が大きく伝えているところです。が、会社によって「報道ぶり」が違いますね。今回の場合は、事実はほとんど公開されているので、「藪の中」といったものではありません。それでも、差がでるのはどうしてでしょうか。
もちろん、新聞記者の力量と趣味によるものもあります。同じひまわりの絵を描いても、画家によって違うように。また、記者が書いた記事にデスクが手を入れ、編集されます。そこで、上司の関心と趣味の差がでます。
しかし、新聞記者たちと議論すると、今回の場合はもっと深い背景があるとのことです。それは、三位一体改革を政治部が扱っているか、経済部が扱っているかの違いが出ているのだそうです。
ある記者曰く「政治部記者は全体の政治・政策形成過程の中で何が起きているか、何が変わっているか、その潮目はどこか、だれが何を言ったか、だれが変化したのか、といった「流れ」「全体図」を見る傾向にあります。というか、そう見るよう要求されます。一方の経済部記者は、過程よりも、政策の形、特に数字という「事実」へのこだわり、正確さが要求されているようです。」
政治部は、この問題を中央集権から地方分権への大きな一歩と見ます。さらに、地方が案を作って中央政府に異議申し立てすることを、国の政治過程の構造的変革と位置付けます。また、小泉改革の一環として、〈族議員+各省〉対〈小泉+麻生〉と見て、〈自民党主導:旧来の政治過程〉対〈内閣主導:新しい政治過程〉とも位置付けます。
一方、経済部は、この問題をお金の取り合いと位置付けます。そして、大蔵省支配に対する異議申し立て見ます。政治部が「構造的変革」「新しい時代への幕開け」と見るのに対し、経済部は「いつもあるようなお金の取り合い」その一形態の「地方の反乱」としか見ないのです。
構造的分析に位置付けるか、事件の羅列としか見ないかの違いです。岡義達先生は、前者を「構成的視座」と、後者を「羅列的視座」と分類されました(岩波新書「政治」1971年。残念ながら絶版です。先生の名前は18日の日経「私の履歴書」(金森久雄さん)に出ていました)。すると、記事や解説に差がでます。当然、前者の方が深みがあって、かつ読者にはわかりやすいです。
もう一つ、経済部だと違いが出るという説もあります。それは、いくつかの社では、経済部の記事は多くの場合、財務省記者クラブ(「財研」と呼ばれます)の記者のチェックを受けるのだそうです。ある人曰く、「財研は、財務省より財務省らしい」。
そこで、記事は「財務省寄り」に手が入り、削除されるのだそうです。そのうえ、本社の経済部の上司は財研経験者がほとんどなので、さらに手が入り、場合によっては記事そのものが載らないのだそうです。
なるほど。それぞれの記者は中立であり、記事も中立的です。が、結果として、政治部が扱うと改革の構図を読者に見せてくれるので、改革派に近くなります。経済部が扱うと、読者にはいつものこととして読まれ、現状維持、守旧派に近くなります。
どの社が政治部で扱っていて、どの社が経済部で扱っているのか。当ててみてください。(9月17日)
21日の日本経済新聞は、「三位一体改革、予断許さず」を解説していました。
「政府は地方団体がまとめた補助金削減案を軸に11月半ばまでに改革の全体像をまとめる予定だ。省庁や族議員の抵抗は強いだけに先行きは予断を許さない」「地方団体に残り2年分の補助金削減案を作成するように要請した。補助金をもらう側である地方が『もう要らない』と言えば、抵抗勢力を押し切れるという読みがある」
「小泉首相が最終的にどう決断するかに改革の行方はかかっている」(9月21日)
新聞記者さんが何人か訪ねてきて、「静かですねえ、三位一体も動きはありませんか」と尋ねられます。
全「各省はどうしてますか」
記「補助金は必要と、頑張っていますよ。補助率を下げるとか、代案を検討しているようですが・・」
全「それは、去年12月に総理がダメと言ったし、地方団体が絶対飲みませんよ」
記「そうなんですがね」「内閣改造がすむまで、しばらく動きはないですね」(9月24日)