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行政

企業の外の複線化と内での複線化

27日の朝日新聞生活欄「働く」に、興味深い記事が載っていました。「降格されても再挑戦」という題で、営業成績が低いと、店長から平社員に降格される会社の話です。ただし、半年過ぎると、いくらでも再チャレンジできるのです。私がこの記事を読んで興味深いと言ったのは、次のようなことを考えたからです。
私は、再チャレンジというと、一度会社を辞めても、もう一度勤めることができる場合を、典型例と考えていました。それはそれで、正しいと思います。しかし、このように会社を移るような複線型社会と同様に、会社内でも「複線型人事昇進」が必要なのではないか、ということです。一度課長になったら補佐には戻らないといった仕組みだと、期待されただけの仕事ができない人は、本人も困るし、会社の方も困ります。閑職で「処遇」するか、辞めてもらうかです。皆さんの職場にも、そのような例があるのではありませんか。
相撲では、成績によって地位が上下します。横綱になったら、辞めるしかありませんが。学校では、教頭・校長の降格制度ができています。職場でも、そういうことが珍しくなくならないと、社会全体の複線化は実現しないのかもしれません。

政府の企画部

先日、経済財政諮問会議が果たしている、政府の「企画部」としての役割に触れました(魅力ある国を作る)。それについて、少し解説します。
日本政府(霞ヶ関)には、人事部と企画部がありません。この二つは、企業であれ地方団体であれ、少し大きい組織なら必ずあるものです。各省にはあるのですが、政府全体の人事部と企画部がないのです。その企画部不在を埋めたのが、経済財政諮問会議です。

まず第1に、各省間の政策の調整、優先順位付けがあります。これまでも、各省間で、あるいは内閣官房が各省の政策を調整することはありました。しかし、それは優先順位付けまで行かず、「寄せ集め」に近いとの批判があります。かつての総理所信表明演説・施政方針演説も、各省から出された「短冊」=パーツを寄せ集めただけとの批判もありました。
省庁改革の際に、省庁間政策調整システム(「省庁改革の現場から」p39)が定められましたが、十分機能していないようです。また、財務省の予算編成も、この点では十分な機能をしていないようです。
すべての省の意見を盛り込むだけなら、楽です。右肩上がりの時代なら、伸び率に差がつくことはあっても、すべてを飲み込むことができます。しかし、削減しなければならない場合、優先順位をつけなければならない場合は、どれかに泣いてもらう必要があるのです(参照、拙稿「予算編成の変化」月刊『地方財務』2003年12月号)。
県庁や市役所では、知事や市長がそれを判断します。しかし霞ヶ関システムでは、それはできないのです。小泉首相は、国債発行上限を30兆円とし、それに収めるために、公共事業や地方交付税を削減しました。その際に、諮問会議が機能を発揮したのです。

第2に、これに関連しますが、他省の政策にくちばしを挟む、しかも批判することが始まりました。これまでは、それぞれの省が縄張りを持ち、他省はそれには口を挟まないという不文律がありました。もちろん、各省は「分担管理事務」を持ち、それぞれが仕事の範囲を決められています。
しかし、というか、だから、政府全体の立場に立って、ある省の仕事に文句を言う仕組みがなかったのです。諮問会議は、有識者ペーパーという仕組みを使って、他省の政策にくちばしを挟むことを可能にしました。
内閣・閣議は、全会一致が原則です。省間で対立すると、「次官会議で反対するぞ」という脅しで、止めることができたのです。これでは、改革などは進みません。

第3に、政府全体の政策を、明示するようになりました。「骨太の方針」で、政府がどのような政府を目指しているかが、分かるようになったのです。県や市町村は「総合計画」を作っています。それで、その団体の政策の全体像が分かります(もちろん、総花だとの批判もありますが)。日本政府の場合は、それがありませんでした。各省は、それぞれ政策パンフレットを作っていますが、政府全体のパンフレットはありません。もちろん、諮問会議は経済財政が守備範囲なので、安全保障などは含まれてはいません。

第4に、政府全体から見た政策で、各省が取り組まない政策を、取り上げるようになりました。各省は自分に都合のよい政策には取り組みますが、都合が悪い政策・面倒な政策には取り組みません。各省にまたがっても、メリットのある政策なら取り組みます。例えば、ITでは、総務省と経産省が功を競います。しかし、日本を魅力ある投資先にする、FTAのために関税引き下げに取り組むなどは、どこも取り組まない、あるいは進まないのです。各省の分担管理事務・問題関心事項から漏れ落ちた政策課題は、取り上げられることがなかったのです。

今回も、大胆な単純化ですが、私はこのように考えています。今日は、行政組織論からの議論を書きました。このほかに、諮問会議の議論の過程で、霞ヶ関内の「利害の対立」を見える形にしたといった功績もあります。また、今の諮問会議が問題ないのかということにも触れる必要がありますが、これらについては日を改めて書きましょう。

審議会の機能不全

20日の日経新聞「雇用ルールを問う」は、「時代遅れ、労政審議会の疲弊」を取り上げていました。労働政策審議会は、厚生労働大臣の諮問機関で、雇用法制を決める際に審議会に諮問する(意見を聞く)ことが通例です。労働行政は、厚労大臣が責任者ですから、大臣が決めて法律案をつくり、内閣で決定して国会に提出すればすむ話です。しかし、「関係者の理解を得る」という理屈で、このような審議会の意見を聞く、あるいは原案を審議会がつくることが、これまでの日本の行政では多用されてきました。
特に、労働関係は、使用者代表と労働者代表という対立する利害の代表が意見をぶつけ、第三者である有識者(学者など)が間に入るという構成になります。医療(医者対支払い側)なども、同じ構図です。もっとも、記事が指摘しているように、原案は官僚が準備し、上手に結論(落としどころ)に持って行くのです。
今回浮き彫りになったのは、このメンバー構成です。労働組合代表が、労働者の代表として入っているのですが、労働組合の組織率は2割を切っています。パート労働者・フリーター・外国人労働者などは、そこから漏れ落ちます。パート労働者の処遇の低さに対し、これでは機能しません。審議会は、一部の者の既得権益保護になってしまうのです。
これまでは、審議会で労使が手を結べば結論が出、国会も通るという構図でしたが、それでは機能しないのです。そもそも、国民の間の利害対立を解決するのは、国会の仕事です。それを、審議会に委ねてきたのが、間違いです。
審議会の問題点については、拙稿「中央省庁改革における審議会の整理」月刊『自治研究』(良書普及会、2001年2月号、7月号)をご覧ください。

公務員制度改革と政治の責任

佐々木毅教授「新人材バンク論争は空砲か?」(雑誌「公研」2007年4月号)から。
・・各省庁の押しつけ的斡旋を廃止することに反対する国民は少ないと思われるが、一元化すれば何が解決され、何が解決されずに残るのであろうか・・・このように、どこか焦点がずれるようなことになるのは、霞ヶ関の使用者がはっきりしないことにその淵源がある。公務員であるから国民が雇い主であるが、実際に誰が国民を代表して使用者としての責任を負うのかがはっきりしない。究極的には政府を代表する内閣がその任を負うはずであるが、内閣が省庁の上に載っているだけの存在である限り、内閣が使用者としての責任意識を持つことは期待できない。
・・使用者としての最終責任を負うのは、与党とそれが組織する内閣である。ところがこの使用者は見るべき人事政策を提唱し、それに従って被用者の人事管理を自ら行ったことはほとんどなかった。正確に言えば、それでもやってこられた・・
しかも、使用者と被用者が協力して国民に対して責任を果たすどころか、時には相手を批判することが仕事のような印象さえ与えている。国民に対して説明責任を果たすことを通して、被用者を政治的に弁護すべき立場にある使用者が、被用者を批判することで責任を果たしたかのように思いこんでいるとすれば、事態は深刻である。
誰も政治的に擁護しようとしない公的組織が衰弱し、見放され、相手にされなくなるのは、理の当然である。その意味では、霞ヶ関は政治的な危機にさらされ続けている。これで人材が集まったり、日本政府の国際競争力が高まるとすれば、奇跡であろう・・

キッズルーム

官邸のHPキッズルームに「再チャレンジ」が載りました。小学生・中学生に分かるように、工夫されています。「やさしくわかる編」と「くわしくわかる編」に分かれていて、クイズもついています。なかなかの優れものです。結構楽しめますよ。ぜひご覧ください。
また、今日は、二地域居住研究会を開催しました。詳細は、追って載せます。(4月18日)
第1回「暮らしの複線化研究会」の資料を載せました。二地域居住について、各省が取り組んでいる資料が、ほぼ網羅されています。ご覧ください。