カテゴリーアーカイブ:行政機構

省庁再編10年

2011年1月9日   岡本全勝

2001年1月6日に新府省が発足して、10年になりました。早いものですね。私は当時、省庁改革本部でこの仕事に携わっていて、5年か10年のうちには、もう一度省庁再編(大規模なものでなく、見直し)が行われるだろうと、予測していました。

国家行政機能をどう大括りにするかは、「家の間取り」の問題であり、時代の変化に応じて、また運用してみて都合が悪ければ変えるだけのことです(拙著「省庁改革の現場から」p192)。民間企業でも、地方自治体でも、しょっちゅう改変を行っています。国にあっては、この10年間を振り返ると、大きな再編は行われませんでした。主な変更は、次の通りです。
防衛庁が、防衛省になりました。公正取引委員会が、総務省から内閣府に移りました。内閣府に、食品安全委員会と、消費者庁ができました。総務省の郵政事業庁が、郵政公社を経て、民営化されました。厚生労働省の社会保険庁が、解体されました。農林水産省の食糧庁が、廃止されました。国土交通省に、観光庁と運輸安全委員会が設置されました。
これだけ見ても、社会の変化がわかりますね。このほか内閣府にいくつかの委員会が作られ、各省での局や部の改変もあります(一覧表があればよいのですが、見つけることができませんでした。現在の組織図)。
省庁改革の内容は、省庁再編だけでなく、内閣官房や内閣府の強化(政治主導の強化)、行政機能と組織の減量、独立行政法人制度の創設、政策評価と情報公開でした。いずれも、かたちとしては達成しました。しかし、省庁改革が目指したものは、「この国のかたち」の再構築でした。省庁改革を設計した行政改革会議の「最終報告」(1997年12月)は、次のようなことを掲げています。
日本国民のエネルギーが白熱し、眩いばかりの光彩を放った半世紀が過ぎ、それに適合的であった戦後型行政システムを改める必要がある。それは、行政の改革であると同時に、国民が統治の客体という立場に慣れ、行政に依存しがちであった「この国の在り方」の改革である。
このような目標は、省庁再編だけでは達成できません。最終報告が述べているように、「この国のかたち」の再構築は、行政改革のみによって成し遂げられるものではなく、経済構造改革、財政・社会保障改革、教育改革など、社会・経済システムの全面的転換が必要なのです。
その後、地方分権改革、規制改革、司法改革などいくつかの改革が進み、進みつつありますが、なお道半ばです。この文章の最初で、省庁組織が部分的に改変されていることも紹介しました(私が考える日本の構造改革の体系図は「行政改革の分類」のページの「構造改革体系図」を、近年の行政改革の鳥瞰図は、同じページの「行政改革の分類」をご覧下さい)。
このような、部分的改革を積み重ねることも必要ですが、あらためて、次なる改革の全体像を示す必要があるでしょう。それは、統一された哲学と、いくつかの改革の優先順位と工程表です。もちろん、これには大きなエネルギーが必要です。

行政の失敗の検証・口蹄疫

2010年12月7日   岡本全勝

12月7日の日経新聞夕刊「ニュースのわけ」は、樫原弘志編集委員の「口蹄疫検証委、県・国を批判。感染防止へ備え不十分」でした。この春、宮崎県で口蹄疫が発生し、牛や豚が約29万頭犠牲になりました。それへの対応を調査していた農林水産省の口蹄疫対策検証委員会が、11月に出した報告書についてです。報告書では、お粗末な宮崎県の防疫の実態や、政府の判断ミスを厳しく批判したと、書かれています。詳しくは、記事と報告書を読んでください。
行政の失敗は批判されるべきですが、このような外部委員を入れた検証が行われるようになったことは、進歩だと思います。農林水産省では、かつて、BSE問題に関する調査検討委員会(2002年)
ありました。その報告書では、生産者優先・消費者保護軽視の行政、不透明な政策決定過程、危機意識の欠如と危機管理体制の欠落が、厳しく批判されました。
行政の失敗、それは間違ったことをした場合とともに、やるべきことをしなかった場合があります。しかし、後者は事件が起きないと、明らかになりません。行政の不作為による失敗です。これまでに指弾された大きなものとして、公害裁判(水俣病など)、エイズ薬害訴訟(非加熱血液製剤事件)、ハンセン病訴訟、1990年代の金融行政などがあります(拙稿「行政構造改革」2008年7月号)

見込み違い

2010年9月10日   岡本全勝

9日の朝日新聞環境欄が、ごみの管路収集を取り上げていました。管路収集とは、地下に張り巡らせたパイプを使い、街中のごみを真空ポンプで集める仕組みです。例えば、東京のお台場では、内径60センチ、延長15キロの管の中を、ごみが時速90キロで飛び交うのだそうです。
こうすることで、朝のゴミ出しが不要になり、収集車も要らなくなる、きれいで便利になると、期待されました。「未来都市」の「夢のごみ収集」と呼ばれたのです。
ところが現在は、お台場では、一日300トンを集める能力がありながら、使われているのは11トンです。その他の地域でも、同じようです。順次、廃止されているようです。
なぜ、こうなったか。資源ごみの分別回収が普及して、捨てられるごみの量が減ったのです。また、この仕組みだと、ごみが目に見えなくなり、分別が進まなかったとの批判もあります。よかれと思って企画したのですが、失敗に終わりました。
人間の知恵とは、この程度のもの。担当者は、悪気があって事業を進めたのではないのでしょう。負の影響や時代の進展を予測するのは、難しいということです。「税金の無駄遣い」と批判されそうですが、新しい技術の導入には、失敗もあります。

アメリカ、公共施設の民営化と売却

2010年8月25日   岡本全勝

25日の読売新聞が、提携しているアメリカのウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事(8月23日付け)を紹介していました。「公共施設 For Sale 」です。アメリカの州や地方自治体が、空港から動物園まで、あらゆる公共資産の売却を進めている、という内容です。庁舎、水道事業、公営駐車場などです。原文はこちら
このホームページでも書きましたが(「国家観の違い」2010年6月29日)、ここには、アメリカ流の社会観が背景にあります。すなわち、社会のあらゆる組織機構と同じく、国家機構もまた、社会(一般国民)が自らの必要のためにつくったものです。官と民の間に、垣根がありません。これに対し、近代ドイツ国家学では、社会は弱肉強食、カオスの世界であり、中立公正な国家が弱者を救済し、秩序を保たなければならないと考えます。官(国家)と民(社会)が峻別されます。日本もこれまで、このような考え方でした。
しかし、日本が後進国から成熟国家になることによって、官が民間を主導して先進国に追いつくという構図は終わりました。また、公共施設や公共サービスは、それ自体は、公平かつ滞りなく供給されるように、官が監視する必要がありますが、供給行為自体は官がする必要はありません。象徴的な例が、国鉄の民営化であり、介護保険サービスの民間事業者との契約制です。

行政の決断と責任

2010年6月23日   岡本全勝

手塚洋輔著『戦後行政の構造とディレンマ -予防接種行政の変遷』(2010年、藤原書店)を読みました。今、勉強している「社会のリスクと行政の対応」の一環です。この本は若手研究者の著作ですが、戦後の予防接種行政を丹念に追うとともに、行政の決断について鋭い分析をしています。
予防接種をした場合に、一定の「副作用」が避けられません。しかし、伝染病が広がっているのに予防接種を行わないと、さらに伝染病が広がります。これをを「不作為過誤」(しないことによる問題)と名付けます。他方、副作用があるのに予防接種を強行すると、副作用被害が出ます。これを「作為過誤」(することによる問題)と名付けます。あちらを立てればこちらが立たない、ジレンマにあるのです。
戦後の早い時期は、副作用を考えずに、予防接種を強制しました。その後、副作用被害が社会問題になると、救済制度をつくりました。そして、現在では、本人や保護者の同意を得る、任意の接種に変わっています。ここに、行政の責任範囲の縮小、行政の責任回避を見るのです。もちろんそこには、天然痘や日本脳炎が、かつてのように猛威をふるわなくなったという状況変化もあります。
この本には、リスクと行政の対応、個人の意識の高まりと行政手法の変化、社会の課題(伝染病予防)の変化と行政の変化、その時間のズレ、個人の責任と行政の責任、国の責任・市役所の責任・医師の責任など、たくさんの論点が含まれています。

ただし、ここでは、リスクという言葉を分別して使わないと、混乱します。すなわち、伝染病が広がることや副作用被害者がたくさん出るというのは、社会のリスクです。一方、行政が不作為過誤や作為過誤をおかすという、判断誤りによって国民から批判を受ける(訴えられる)ことは、組織のリスクです。さらに、国民にとっては、予防接種を受けないと伝染病にかかる恐れがあり、受けると副作用被害に遭うかもしれないというのは、個人のリスクです。
社会のリスクと個人のリスクは、被害に遭う危険性です。他方、組織のリスクは、自らの判断が被害者や国民から批判を受けるという危険性です。その場合、社会や個人から見ると、行政は加害者になります。