カテゴリー別アーカイブ: 行政機構

行政-行政機構

組織を考える視点・その1

会社にしろ、国家行政機構や地方自治体にしろ、組織の目的は与えられた課題をいかによく果たすかです。最小の経費で最大の利益をあげることであり、国民や住民が求めることを効率的に実行することです。評価の基準は、そのアウトプットでしょう。
それを達成するために、どのように組織を編成し、権限と資源(人や金)を分配するか。組織論、経営論、管理論、指導者論は、古くから関係者の大きな関心です。その切り口について、少し考えました。

(集中と分散)
その一つの切り口として、集中と分散があります。集権と分権、管理と自由、と言っても良いでしょう。
本社と支社、社長室と各事業部との間で、どこまで後者に仕事や権限を渡すかです。場合によっては、分社することもあります。すると、親会社と子会社との間にも、この問題は発生します。
軍隊にあっては、参謀本部と各部隊との間が、国家統治にあっては、中央政府と地方政府との間が、重要な課題になります。この問題は、組織が大きくなればなるほど、重要になります。官僚制は、仕事を分割することですから、その統合が必ず問題になります。
また、このような組織の間だけでなく、社長と部長の間、課長と部下との間というように、職員の間の集中と分散があります。ワンマンか、部下に任せる上司かです。こちらのほうは、分担をどう設計するかという問題もありますが、人間関係論に近くなります。

私は、仕事をする中で、長くこの問題を考えていました(例えば「システム思考、分割と統合」2010年3月18日、「部分と全体」2010年5月10日の記述)。
課長や部長としては、部下との分担をどうするか。どう振る舞うべきか。総務部長としては、県庁内での分担をどうするか。この場合は、知事と部下の関係と、県庁内の組織間の関係の二つがあります。省庁改革本部では、内閣と各府省との組織間の分担を勉強しました。官邸では、事案の分担(総理、官房長官、各大臣との間など)を勉強させてもらいました。そして、地方分権は、中央政府と地方政府との分担です。

このように、ここには、制度をどう仕組むかという組織・制度問題と、個別の事案にどう役割分担するかという運用・人の問題があります。なかなか考えはまとまらないのですが、いずれ考えを整理したいと考えています(いつのことになるやら)。(この項続く)

省庁再編10年

2001年1月6日に新府省が発足して、10年になりました。早いものですね。私は当時、省庁改革本部でこの仕事に携わっていて、5年か10年のうちには、もう一度省庁再編(大規模なものでなく、見直し)が行われるだろうと、予測していました。

国家行政機能をどう大括りにするかは、「家の間取り」の問題であり、時代の変化に応じて、また運用してみて都合が悪ければ変えるだけのことです(拙著「省庁改革の現場から」p192)。民間企業でも、地方自治体でも、しょっちゅう改変を行っています。国にあっては、この10年間を振り返ると、大きな再編は行われませんでした。主な変更は、次の通りです。
防衛庁が、防衛省になりました。公正取引委員会が、総務省から内閣府に移りました。内閣府に、食品安全委員会と、消費者庁ができました。総務省の郵政事業庁が、郵政公社を経て、民営化されました。厚生労働省の社会保険庁が、解体されました。農林水産省の食糧庁が、廃止されました。国土交通省に、観光庁と運輸安全委員会が設置されました。
これだけ見ても、社会の変化がわかりますね。このほか内閣府にいくつかの委員会が作られ、各省での局や部の改変もあります(一覧表があればよいのですが、見つけることができませんでした。現在の組織図)。
省庁改革の内容は、省庁再編だけでなく、内閣官房や内閣府の強化(政治主導の強化)、行政機能と組織の減量、独立行政法人制度の創設、政策評価と情報公開でした。いずれも、かたちとしては達成しました。しかし、省庁改革が目指したものは、「この国のかたち」の再構築でした。省庁改革を設計した行政改革会議の「最終報告」(1997年12月)は、次のようなことを掲げています。
日本国民のエネルギーが白熱し、眩いばかりの光彩を放った半世紀が過ぎ、それに適合的であった戦後型行政システムを改める必要がある。それは、行政の改革であると同時に、国民が統治の客体という立場に慣れ、行政に依存しがちであった「この国の在り方」の改革である。
このような目標は、省庁再編だけでは達成できません。最終報告が述べているように、「この国のかたち」の再構築は、行政改革のみによって成し遂げられるものではなく、経済構造改革、財政・社会保障改革、教育改革など、社会・経済システムの全面的転換が必要なのです。
その後、地方分権改革、規制改革、司法改革などいくつかの改革が進み、進みつつありますが、なお道半ばです。この文章の最初で、省庁組織が部分的に改変されていることも紹介しました(私が考える日本の構造改革の体系図は「行政改革の分類」のページの「構造改革体系図」を、近年の行政改革の鳥瞰図は、同じページの「行政改革の分類」をご覧下さい)。
このような、部分的改革を積み重ねることも必要ですが、あらためて、次なる改革の全体像を示す必要があるでしょう。それは、統一された哲学と、いくつかの改革の優先順位と工程表です。もちろん、これには大きなエネルギーが必要です。

行政の失敗の検証・口蹄疫

12月7日の日経新聞夕刊「ニュースのわけ」は、樫原弘志編集委員の「口蹄疫検証委、県・国を批判。感染防止へ備え不十分」でした。この春、宮崎県で口蹄疫が発生し、牛や豚が約29万頭犠牲になりました。それへの対応を調査していた農林水産省の口蹄疫対策検証委員会が、11月に出した報告書についてです。報告書では、お粗末な宮崎県の防疫の実態や、政府の判断ミスを厳しく批判したと、書かれています。詳しくは、記事と報告書を読んでください。
行政の失敗は批判されるべきですが、このような外部委員を入れた検証が行われるようになったことは、進歩だと思います。農林水産省では、かつて、BSE問題に関する調査検討委員会(2002年)
ありました。その報告書では、生産者優先・消費者保護軽視の行政、不透明な政策決定過程、危機意識の欠如と危機管理体制の欠落が、厳しく批判されました。
行政の失敗、それは間違ったことをした場合とともに、やるべきことをしなかった場合があります。しかし、後者は事件が起きないと、明らかになりません。行政の不作為による失敗です。これまでに指弾された大きなものとして、公害裁判(水俣病など)、エイズ薬害訴訟(非加熱血液製剤事件)、ハンセン病訴訟、1990年代の金融行政などがあります(拙稿「行政構造改革」2008年7月号)

見込み違い

9日の朝日新聞環境欄が、ごみの管路収集を取り上げていました。管路収集とは、地下に張り巡らせたパイプを使い、街中のごみを真空ポンプで集める仕組みです。例えば、東京のお台場では、内径60センチ、延長15キロの管の中を、ごみが時速90キロで飛び交うのだそうです。
こうすることで、朝のゴミ出しが不要になり、収集車も要らなくなる、きれいで便利になると、期待されました。「未来都市」の「夢のごみ収集」と呼ばれたのです。
ところが現在は、お台場では、一日300トンを集める能力がありながら、使われているのは11トンです。その他の地域でも、同じようです。順次、廃止されているようです。
なぜ、こうなったか。資源ごみの分別回収が普及して、捨てられるごみの量が減ったのです。また、この仕組みだと、ごみが目に見えなくなり、分別が進まなかったとの批判もあります。よかれと思って企画したのですが、失敗に終わりました。
人間の知恵とは、この程度のもの。担当者は、悪気があって事業を進めたのではないのでしょう。負の影響や時代の進展を予測するのは、難しいということです。「税金の無駄遣い」と批判されそうですが、新しい技術の導入には、失敗もあります。

アメリカ、公共施設の民営化と売却

25日の読売新聞が、提携しているアメリカのウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事(8月23日付け)を紹介していました。「公共施設 For Sale 」です。アメリカの州や地方自治体が、空港から動物園まで、あらゆる公共資産の売却を進めている、という内容です。庁舎、水道事業、公営駐車場などです。原文はこちら
このホームページでも書きましたが(「国家観の違い」2010年6月29日)、ここには、アメリカ流の社会観が背景にあります。すなわち、社会のあらゆる組織機構と同じく、国家機構もまた、社会(一般国民)が自らの必要のためにつくったものです。官と民の間に、垣根がありません。これに対し、近代ドイツ国家学では、社会は弱肉強食、カオスの世界であり、中立公正な国家が弱者を救済し、秩序を保たなければならないと考えます。官(国家)と民(社会)が峻別されます。日本もこれまで、このような考え方でした。
しかし、日本が後進国から成熟国家になることによって、官が民間を主導して先進国に追いつくという構図は終わりました。また、公共施設や公共サービスは、それ自体は、公平かつ滞りなく供給されるように、官が監視する必要がありますが、供給行為自体は官がする必要はありません。象徴的な例が、国鉄の民営化であり、介護保険サービスの民間事業者との契約制です。