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経済

非正規労働者の安心を確保する手法

1月30日の日経新聞オピニオン欄、村山恵一さんの「進化系ギグワークの知恵」が参考になります。

・・・登録者が160万人に達した単発アルバイトのマッチング会社タイミー(東京・豊島)。2017年設立で、都合のいい時間に働くギグワークを日本に広めてきた。ネットで迅速に労働力を確保したい企業1万3000社が使う・・・一方でギグワーカーは保護されにくく、「職の安全」が揺らぐとの懸念がついてまわる・・・
・・・特色である機敏性・柔軟性を生かしつつ、職の安全を守れないか。タイミーは「雇用型ギグワーク」を提唱し、注力し出した。
ギグワークは業務委託契約が一般的で、雇用に関する保護がおよばない。タイミーは企業と働き手が雇用契約を結び、最低賃金や割増賃金、労災保険などの対象となるよう切り替えた。契約はアプリで完結し、勤怠管理や給与の計算、振り込みまで自動で進む。いま案件の95%が雇用型だ。
指揮命令できる雇用型の方がギグ化しやすいと企業が考える仕事は多い。倉庫や飲食店での作業などだ。万が一、ケガをした場合も雇い主といて責任をとれる体制なら企業の評判を傷つけない・・・

非正規雇用は、労働者保護の仕組みが少なく、多くの場合劣悪な状況におかれます。企業が経費削減のために非正規雇用を増やした結果、既に労働者の4割が非正規雇用です。
その人たちと家族の生活が引き下げられるだけでなく、社会全体が不安になります。これを「保護」するのは、政府の責任です。労働組合は、あまり機能していないようです。

他方で低賃金の非正規雇用が増えると、経済も活性化しません。企業が自社の経営を優先することが、経済を悪化させるのです。また、非正規労働者の労働条件を悪いままにしておくと、その企業の評価も下がります。経済の仕組みとして、非正規労働者であっても安心が確保できるようになると、政府が介入しなくてもよくなります。

合理的バブルが終わるとき

1月22日の日経新聞「エコノミスト360°視点」、中空麻奈・BNPパリバ証券グローバルマーケット統括本部副会長の「合理的バブルが終わるとき」から。

・・・足元で起きている資産価格と実体経済がかけ離れる「バブル」は、世界の中央銀行による金融緩和で生じたため「合理的」らしい。1990年代の米国が「根拠なき熱狂」に沸いたのとは異なるということだ。合理的に生じたものは合理的に終わると期待され、妙な安堵感も広がる。

しかし、合理的か非合理的かにかかわらず、バブルはいつかはじける。
良く引き合いに出されることだが、電気自動車世界最大手、米テスラ株の時価総額が日本車メーカー9社合計を上回った事実一つをとっても、資産価格の上昇はすでに説明がつかない。警戒感を持ってバブルの波から早く降りれば崩壊に備えられる。とはいえ、まだ株価が上昇するとすれば、指をくわえて見ていられないのが投資家の宿命だ。

問題は合理的か非合理的かではなく、①このバブルは何をトリガーにして②いつ終わるのか――という2点だ。
効率的市場仮説に基づいて価格が決まっているのだとすれば、そこから生じたバブルの限界は、「その価格では転売できなくなった時」か、現実世界の資源の有限性がネックになって「その価格が成立しなくなった時」である。

しかし、前者については、中央銀行が最後の買い手となると市場は理解している。中央銀行の出口戦略がきっかけになるとの声は多いが、極端な政策を取るとは思えない。そうなると、今回のバブルは現実世界の「崩れ」が原因で終わる公算が大きいのではないか。トリガーとなり得るポイントを3つ指摘する・・・
原文をお読みください。

怪しい言説「日本製造業衰退論」

1月7日の日経新聞経済教室、藤本隆宏・東京大学教授の「山積課題の全体最適解探れ 危機克服への道筋」から。

・・・だが一方でネット上では短い魅力的なフレーズが急速に拡散し、支持率や株価にさえ影響する。よって産業リーダーや言論界の側には、ややこしい連立方程式を一本一本にバラし、不都合な制約条件は無視して、シンプルなキャッチコピー的言説を多数発信したいとの誘惑が存在する。一つ間違えば、重大な見落としを伴う個別解の乱発となる。
こうした根拠の怪しい言説は、例えば後述する日本製造業衰退論や電気自動車(EV)礼賛論、インダストリー4.0周回遅れ論(ドイツ側の20年代予測を10年代の現実と混同した誤解)など、かなりの数にのぼる。

日本製造業衰退論はこの30年間、浮かんでは消えを繰り返した。だが結局、平成末の日本製造業の付加価値総額は100兆円強で、平成初頭に比べほとんど減っていない。約1千万人の就業者で割った付加価値生産性も約1100万円だ。仮に非製造業もこの生産性を達成すれば日本の国内総生産(GDP)は700兆円を超える。これが中国との賃金差が当初約20倍という強烈なハンディを、物的生産性を5年で5倍にするような生産革新で跳ね返してきた日本製造業の「30年戦争」の成果だ。衰退論の多くは、統計的分析も現場観察も理論的考察も欠落している。

EV礼賛論も地球温暖化防止という大目的に対し目的と手段を混同している。現世代リチウムイオン電池のエネルギー密度の限界、発火・劣化・充電時間などの弱点、材料調達・コスト問題、各国政府の政治的思惑などをすべて勘案しないと全体解は見えない。現在のEVは発電・製造段階で二酸化炭素(CO2)を出すことも無視できない。中国政府は、EVなら技術キャッチアップが容易との産業政策的判断もありEV化を推進するが、石炭火力発電の多い現体制では温暖化対策として限界がある。
加えて内燃機関のない純粋なEVの世界シェアは、新車市場の約2%(18年)、保有車両や総走行距離ベースなら1%以下だ。期待される次世代全固体電池の本格的普及が30年前後と予想される中で、30年時点のEV普及率は10~20%と専門家の多くは予想する。各国政府は普及政策の強化を企図するが、補助金をやめるとスタートアップ企業の倒産が相次ぎ、慌てて再開しようにも財政的に維持困難という問題に直面し、全体解は簡単に見つからない・・・

同一労働同一賃金、司法より当事者間の交渉で

11月12日の日経新聞経済教室、大内伸哉・神戸大学教授の「同一労働同一賃金 司法より当事者間の交渉で」から。
・・・10月13日と15日に最高裁で、労働契約法20条を巡る5つの判決が出された。同条は、同一の使用者に雇用される非正社員(有期労働者)と正社員(無期労働者)の間での労働条件の不合理な格差を禁止する規定だ。2018年の働き方改革関連法を機に、パート・有期雇用労働法8条に吸収された・・・
その判決については、マスコミが伝えているとおりです。ここで紹介したいのは、大内教授の次のような主張です。

・・・だが最高裁が既存の格差を是認したとみるのは適切でない。均衡待遇の実現は司法でなく、当事者が交渉で決めていくべきだというのが最高裁のメッセージであり、これは筆者の上記の見解に近い。
そもそも労働契約法20条やパート・有期雇用労働法8条は、格差が不合理とされても、非正社員に正社員と同一の労働条件を保障するものではなく、格差により生じた過去の損害の賠償請求が認められるにすぎない。将来に向けて待遇を改善するには、当事者間の交渉によるしかないのだ。

法は企業に、不合理な格差を設けることを禁じているが、具体的にどうすれば法を守ったことになるかを明確に示していない。上述のように、裁判では不合理性は個別事案の判断しかなされず、どんなに判例が蓄積されても、その判断基準の明確化には限界がある。
こうした状況下では不合理性を軸としている限り、スムーズな労使間交渉は期待できない。この問題の解決に必要なのは、企業が非正社員に対し納得できるような労働条件を提示したうえで、非正社員の同意を得ている場合には、その結果を尊重する(不合理とは評価しない)という解釈を確立することだ。
これは、法が企業に待遇の格差について説明義務を課したこととも整合する。これにより企業には、非正社員に労働条件の内容を丁寧に説明するインセンティブを与えるし、非正社員が納得した労働条件で就労できれば労働意欲は高まり、生産性向上にもつながる・・・

百貨店の未来は

11月14日の朝日新聞オピニオン欄「百貨店の未来は」から。
奥田務さん(Jフロントリテイリング特別顧問)の発言
・・・誤解を恐れずに言えば、百貨店は日本でも欧米でも、1980年代にはもう「終わっていた」。私は、そう思っています。
かつての百貨店では、自ら目利きした品を売り、多くの消費者が「間違いのない品」だと信頼して買っていた。まさに日本の小売業の長でした。
しかし時代の変化は速かった。総合スーパーが登場し、ITの普及で消費者の情報量が増えるとニーズも多様化。ネット販売も広がった。百貨店は「何でもあるけど欲しいものは何もない」と言われるようになってしまいました・・・

・・・大丸の社長に就任した私が手がけたのは、ビジネスモデルを「小売業」から「テナント業」へ転換させることでした。百貨店の財産は、「お客様の信頼」と「一等地」という立地です。百貨店が生き残る術を突き詰めると、新しい業態の開発が不可欠だったのです。
「テナント業」という意味ではショッピングセンター(SC)と同じでも、「百貨店」として商品・テナント・情報・サービスの新しい組み合わせや、テナント間をまたぐ販売対応、外商、配送などの質の高いサービスを徹底していけば、百貨店の財産である「信頼感」は守れる。私はそう考えます。同時に高級SCと割り切った「GINZA SIX(ギンザシックス)」のような業態も進めていく必要があります・・・

谷口功一さん(法哲学者)の発言
・・・ 百貨店は、近代的都市に必須の構成要素でした。都会的なにぎわいを演出する、豪華で優雅な「舞台」に、客は普段よりいい服を着て出かけ、「演者」として振る舞う。客側に「気構え」や「背伸び」を要求する空間でした。
大分県出身の私にとって、県都の中心部にあるトキハ百貨店はパルコと並び、いわば文明の最前線にある「前哨点」でした。インターネットもなかった当時、すさまじい文化的飢餓感の中で、「そこに行けば、いま流行しているものが分かる場所」でした。
百貨店が果たしてきた役割の一つが、こうした文化や消費の「共通体験」です。
ちょっと背伸びをして百貨店に出かけて高級品を買う、という光景は、一昔前にはよくあったでしょう。館内には自分には手が届かない高価な品々も並んでいて、それらを買う人の姿や装いも自然に目に入ってきたものです。

買い物は人々の「選好」が最もよく表れる部分です。ですが、ネット通販の普及で、他人の購買行動は格段に見えづらくなりました。どんな人がどんな商品を好み、選ぶのか。何が流行しているのか。百貨店のような場所で得られた、こうした共通体験を得る場所は、今はありません。
共通体験を得る場所が失われた結果、自分や自分と似た境遇の人たちの行動しか見えない、壮大な「たこつぼ」世界に陥っています。社会の分断化が進み、お互いが見えないなかでの階層化も進んでいくだろうと思います・・・