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社会

人生相談に見える社会

1月30日の朝日新聞オピニオン欄「人生相談に見える社会」から。

加藤諦三・早稲田大学名誉教授の発言。
・・・悩みというのは「変装」が上手なんです。多くの場合、相談者の真の問題は、本人が考える悩みの背後に隠されています。先日、女性から「子ども夫婦の仲が悪くて心配です」と相談がありました。これを申告通り受け取ってはいけません。「なぜそれを悩みだと言うのか」と問いを立てて話を聞いていくと、実は相談者の心を本当に悩ます問題は「老後への不安」でした。私との会話の中で本人も気づき、納得してくれました・・・
・・・電話相談でもっとも無意味なのは良識を持ち出すことです。「当事者でよく話し合いましょう」。それができれば電話はかけてきません。「親を憎んではいけない」は正論で良識ですが、親を憎み切ることでしか解決しない問題もあります。良識は真の悩みの存在を隠したり、解決を妨害したりするのです・・・
・・・半世紀前も今も、この電話相談にかけてくる悩みの原型は変わりません。人間関係の不満や嫉妬、ねたみなどで、はるか昔、旧約聖書やギリシャ神話の時代にすべて出ている問題なのです。
昔からの悩みが変わらないのは、人間の「内」の問題は社会の進歩と関係ないからです。例えば医療の進歩で、昔は「不治の病」と言われたがんが今は治療可能ですが、こうした「外」の問題と違い、内面は変化しようがありません。目に見える「生存の問題」より、目に見えない「実存の問題」は難しいのです・・・

真梨幸子さん(作家)の発言。
・・・明治、大正時代の人生相談も参考に読みましたが、人の悩みは時代が変われど同じだと思いました。いつの世も人は下世話な悩みを抱えて生きています。「恋愛問題」と言っても突き詰めれば、性生活や浮気や不倫などの話です。
誰かが自分の身に起きた不幸で悩んでいる。それを本人が投稿すれば悩み相談になるし、周囲が陰でそれを話題にすれば噂(うわさ)話になります。だから人生相談を好きな読者が多いのは、人間が他人の噂話が好きなのと同じ・・・
・・・ただ、最近のネット社会がスタイルをだいぶ変化させていると思っています。
多くの一般読者が匿名で投稿をいくらでも書けるタイプの相談、例えばyahoo!知恵袋や、意見交換系の掲示板などを見ると、誰かの相談に対し意見、感想が驚くほどたくさん連なっています。自分の経験を長々と詳細に書いて答える人もいます。
新聞や雑誌の昔ながらの人生相談は回答者が1人。一般の読者が納得せず、「この回答は変じゃない?」と不満を抱いても、それを表明する方法はなかった。きっと「突っ込みを入れたい」けどできないという不満が蓄積されており、ネット社会になって、その「回答欲」が解放されてしまったのでしょうか。
今は「相談したい」よりも「回答したい」人のほうが多い時代なのかもしれないですね・・・

遅い新幹線

今日、福島から東京への新幹線、車窓には雪で真っ白な山野が広がっていました。昨日の福島は、最低気温マイナス7度でした。

ところで、福島から新幹線で東京に帰って来るときに、感じていました。大宮を過ぎると、あまり早くないのです。並行して走っている在来線と、さほど変わらない早さです。
「前の列車が詰まっているのかな」とくらいにしか、思っていませんでした。でも、定刻通りに東京駅に到着します。時刻表で調べたら、東京から大宮まで新幹線だと25分、在来線で早いものだと31分です。
理由を教えてもらいました。東北新幹線は、建設時の経緯で、東京と大宮の間を時速110キロで走っているのです。
どおりで遅いのですね。

日本の大学の特殊性「家元制度」

1月15日の日経新聞、黒川清・政策研究大学院大学名誉教授の「独立した研究者、育成を」から。日本の科学技術研究が凋落する理由について。
・・・欧米やアジアの有力大学は、そうした変化に対応して魅力ある研究の場を整え、世界中から意欲ある教員、若者を引き付けている。他方、日本の大学は旧態依然、かつての“成功モデル”の維持にきゅうきゅうとするのみである。凋落は日本の大学が持つ構造的、歴史的な要因に起因するといわざるをえない。

明治政府は、ドイツの大学の講座制を採用して日本の高等教育の構築を図った。教育と研究を一体的に進める講座制によって、新国家の学術レベルは飛躍的に向上した。
だが、この制度は講座の主である教授を頂点とする権威主義的なヒエラルキーを形成し、自由闊達な研究の足かせとなる問題をはらんでいた。そこでドイツは同じ大学・講座の助教授は、そこの教授になれない制度を取り入れていた。大学でのキャリアを求めるならば独立した研究者として新天地で羽ばたくという哲学を持っていたからだ。
ところが、日本はドイツの大学の「形」は取り入れたものの、独立した個人としての研究者を目指すという「精神」の方は置き去りにした。

その結果、日本の大学現場には旧態依然とした“家元制度”が大手を振ってまかり通ることになった。教授という権威の下で、学生や若手研究者らは全員がその徒弟であり、教授の手足となって研究し教授の共著者として論文を書く。研究は教授の下請けの域を出ず、多くは教授の業績となる。大学には東大を頂点としたヒエラルキーが存在し、大学院重点化で狭いタコツボがさらに狭く窮屈になった。徹底したタテ社会の論理である。
タテ社会の頂点に立つ教授の下では、ポスドクで海外留学に出ても、それは教授のツテであり、2~3年で帰国するひも付き留学にすぎない。弟子たちは独立した研究者として独創的な研究を競うのではなく、教授の跡目争いに没頭する。官庁や企業と同様に大学の世界でも、今いる組織を飛び出して活躍することは社会的リスクが極めて高い。これでは斬新な研究が生まれるはずがない。

西洋に咲いた近代の科学研究には、次世代の独立した研究者を育てるのは教授の責任という哲学がある。教授の役割は自分の後継者、内弟子の育成ではない。次世代を切り開く独立した研究者を育てることなのだ。指導者は育成したPhDで評価されるといっても間違いではない。ここが日本と欧米の一流大学の基本的な違いだ・・・

日本語は縦書き

1月18日の朝日新聞文化欄、石川九楊さんの「縦書きを失えば文化の危機」から。
・・・パソコンの普及で憂慮するのは、縦書きが廃れていくことです。縦書きの連続筆記体として誕生した「ひらがな」は本来、一文字ずつ切り離して書くようにはできていません。「あ め が ふ る」と「あめ が ふる」を比べてください。前者が生硬なのは一目瞭然でしょう。
英文の筆記体を縦に書くことができないように、ひらがなや漢字かな交じり文を横に書くことは無理がある。縦書きを失うと、日本人の思考にもぎこちなさが生じます。
文化は言葉や文字と共にあります。漢字を中心とした縦書きの東アジアと横書きの西洋の言葉は根本が違う。日本の近代化の過程で、それらを同じと勘違いしたことが今の文化的危機を招きました。
声の西欧語は音楽を、文学の東アジア語は書を発達させた。書は東アジアの基幹芸術なのです・・・

と、このページでは横書きで引用していますが、原文は縦書きです。
これに関連して、日本語ワープロソフトを思い出しました。私は「一太郎」を使っています。「ワード」より使いやすいのです。ところが、ワードとの競争に負けて、多くの人や職場が「ワード」を使っています。「一太郎」で原稿を送ると、「開けないので、送り直してください」と返事が来ることがあります。
かつて、文筆を生業にしている人の多くが、一太郎を使っていると、聞いたことがあります。日本語を書いていると、一太郎の方が使いやすいのです。その後、なぜなのかを考えていました。結論は、一太郎は縦書き仕様で、ワードは横書き仕様だということです。
例えば、次のページに移る際に、一太郎は画面を右から左へ開いていきます。ワードは、下へ開いていきます。縦書きで、1ページ目の最後の行と、2ページ目の最初の行を見るときに、ワードだと1ページごと画面が移るので、続けて見ることができないのです。
他方、一太郎は、横書きの場合はページを下へと開いてくれるので、続けて見ることができます。
日本の会社が日本語向けに作った一太郎と、アメリカの会社が作ったワードとの違いだと思います。

ネットゲーム依存は病気

1月4日の朝日新聞、1面トップは、「ネットゲーム依存は「病気」」でした。
詳しくは記事を読んでもらうとして、具体的な症状として、次のようなものを上げています。
・ゲームをする衝動が止められない
・ゲームを最優先する
・問題が起きてもゲームを続ける
・個人や家族、社会、学習、仕事などに重大な問題が生じる

ギャンブルと同じで、いえそれ以上に「接近しやすい」ことで、より危険です。特に子どもは心配です。
かつて、「ハイテク企業のトップは、子どもにスマホを使わせない」(2014年10月13日)を書いたことがあります。インターネットやスマートフォンは、職場での時間泥棒だと、連載「明るい公務員講座」でも指摘しました(第37回 職場の無駄(5)パソコン)。
便利さが生む新たな危険。それにどのように対処するか。個人や家庭の責任にするわけにはいきません。社会として、国家として対策が必要です。