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社会

薬物、アルコール依存

朝日新聞別刷りGLOBEの12月号が、麻薬を特集していました。そこに、世界と日本の比較が載っています。
大麻の生涯経験率は、諸外国では3割や4割くらいです。それに対し、日本では5%未満です。覚醒剤もアメリカが5%、イギリスが10%に対して、日本は0.5%です。桁違いに、日本は低いのです。ぜひ、この低さを保ちたいですね。

記事では、あわせてアルコールについても書かれています。アルコール障害は世界では5%、その半数(2.6%)が深刻な依存症とみられています。ハンガリーやロシアが9%、アメリカが8%です。日本は1%です。
興味深いのは、飲酒に寛容と言われる日本が、世界の半分なのです。アルコール依存や薬物依存は、規制すれば減らせるというものではないでしょう。

国民の意識が、それを支えていると思われます。
一つには、お酒には寛容でも、過度の飲酒はいけないという世間の意識です。もう一つは、薬物やアルコールに頼らざるを得ない(日本は頼らなくても良い)社会環境です。失業や将来に希望が持てなくなると、依存症になると思われます。
違法薬物は、取り締まりも重要ですが。
このような、社会の意識、文化資本を大切にしたいです。参考「社会の財産

デザインと設計

11月13日の日経新聞「やさしい経済教室」、鷲田祐一・一橋大学教授の「経営とデザイン」第2回

・・・英語の「design」は直訳すると「設計」になります。しかし近代以降の日本では、主に機械工業や建築業の分野で図面を描いたり機構を考案したりする行為を「設計」と呼び、「design」に含まれるそれ以外の要素は「図案」「意匠」あるいは「デザイン」と呼ぶようになりました・・・

納得しました。私は、新しい仕事を計画する際に、「設計」という言葉を使っています。その前段として、「構想」とも(夢と構想)。
ところが、この文脈で、「デザイン」というカタカナ英語は、使いにくいのです。英語にすれば、designだと思うのですが。日本語でデザインというと、服装や宝飾品の図案であり、言葉での説明でなく、スケッチを想像するのです。

鷲田先生の説明で、腑に落ちました。designを翻訳する際に、設計とデザインと、2つに翻訳したのですね。
Strikeを、ストライク(野球)とストライキ(労働争議)に分けた例もあります。

連帯責任の負の効果

10月31日の朝日新聞オピニオン欄「連帯責任を考える」から。

為末大さん(元陸上選手)
・・・個人の時間に個人が起こした問題も集団の問題だというなら、個人の時間にも組織が介入してくる構造になります。「チームや組織が大きくなれば、いろんなひとがいて問題も起きるよね」と一歩引いて考えてみるべきではないでしょうか。
実際、スポーツ界もそういう方向に変わりつつあるとは感じています。変化の理由のひとつは、選手がスポーツの外の世界に触れ、海外スポーツの状況を知ったこと。ソーシャルメディアの存在も大きい。当たり前だと思っていたことが、そうではないと気づいたのです。
ひとつの組織に帰属していた時代に連帯責任は機能しました。しかし、これから肩書が複数になったり、利益相反の関係が複雑になったり、組織の連帯も弱くなっていく時代です。そういう意味では今後、連帯責任を問うことは難しくなっていくと思います・・・

菊澤研宗さん(慶応義塾大学教授)
・・・企業経営の現場、働く現場も連帯責任と無縁ではありません。それがどんな効果を生むのか。制度論的に考えると問題が起こる前と後とで、がらりと様相が変わる点が特徴的です。
うまくいっている時は、各自が他人に迷惑をかけないように努力します。相互に点検し、協力し合って失敗を減らすので、効率はよくなる。そうした点は、この制度のプラス面と言えるでしょう。
でも、もしだれかがミスをすれば、全員が罰を受ける。失敗していない仲間にも被害が及び、組織は危機に陥ります。それを回避するため、組織的な隠蔽が発生します。そうなると、連帯責任はあしき制度になりさがる。
なぜそうなるのか。メンバーが機械のように損得を計算するからです。ミスを公表して全員が罰せられるよりも、隠蔽した方が計算上は得だからです。自分を取り巻く外部の状況を考慮し、損得に基づく行動は自分以外に原因があるので他律的と呼ばれます。こんな集団に、みなで責任を負う仕組みを持ち込むと、危険だということです・・・

・・・連帯責任は日本的な仕組みかもしれないですね。個人主義的な欧米から見れば、異質に映るでしょう。政治学的視点に立てば、連帯責任は個人を否定し、全体主義的なので「悪」に見えるかもしれません。でも悪い面ばかりではないからこそ淘汰されずに残っているのだと思います・・・

個人商店の消滅、コンビニの氾濫

津波被災地では、まちの復興が進んでいます。視察をして、気になることがあります。
町中の商店が、コンビニばかり目立つのです。八百屋や肉屋、荒物屋といった個人商店や専門店は、見当たりません。
関係者に聞くと、コンビニだと、店主は品揃えや仕入れに悩まなくてもすむのです。何万種類にも上る商品が、バーコードを使ってコンピュータで管理され、品薄になると配送センターから補充されます。次々と新商品が棚に並べられ、売れない商品は撤去されます。

極論すると、店主はその仕組みの管理人であり、アルバイト店員の管理人です。もちろん、いろんなノウハウや悩みはあるのでしょうが。
個人営業の店だと、どのような品物をどれだけ仕入れるかを、悩まなければならないのに比べ、その違いは大きいです。個人商店が、コンビニのように新鮮なおにぎりやサンドイッチを、欠品なく並べることは難しいでしょう。また、その背景には、問屋さんの機能の縮小もあるのでしょう。
消費者にとっては、品揃えの多いコンビニやスーパーマーケットが便利です。

個人商店が減り、コンビニやスーパーマーケットに代わられる。この傾向は、被災地だけでなく、日本全国で進んでいるのでしょうね。
私は道路を走っている車の窓から見ているので、道路脇に立っている目立つ3種類(セブンイレブン、ローソン、ファミリーマート)の看板を見ているから、なおさらそう思うのかも知れません。

なお、10月31日の朝日新聞夕刊「あのときそれから」は、1974年の「大店法施行」でした。中心市街地の商店街衰退を解説しています。当初は大型店対中小小売業だったのですが、その後は郊外の大型店と中心市街地の構図になりました。
そして、町の中心が空洞化し、車を持っていない人には買い物が不便な町になりました。さらに、困るのは飲食店です。飲んだら運転してはいけないのですから。
この点では、日本の多くの都市は、街づくりに失敗しました。