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ケインズ予測の的中と外れ2

ケインズ予測の的中と外れ」(5月12日)の続きです。詳しくは原文をお読みいただくとして。私は、ここから次のようなことを考えました。なぜ、ケインズは誤ったか。

1つは、人間の欲望には限りが無いことです。ここには、2つの無限があります。
その1つは、各人の欲望に限りが無いことです。お金はいくらあっても、まだほしい。もっとも、これには限界効用逓減の法則が働き、有り余るほどお金を持つと、うれしさもしぼんでくるでしょう。
ところが、人の欲望をさらにかき立てるものがあります。それは、新しい欲望の対象が生まれることです。科学技術の進歩によって、新しいモノやサービスが生まれます。新しい車、新しいスマホです。また、機能はさほど変わらないとしても、他人が持っているものより「よりよいもの」が生み出されます。こうして、欲望を刺激し、新しいものがほしくなります。

2つめは、人は他人との差を求めることです。
平等は社会の目標です。しかし、完全な平等はあり得ません。共産主義は失敗に終わりました。一定の制約をつけつつ、各人の自由に委ねないと、満足は得られないことが実証されました。すると、持って生まれた能力の差、努力の差、そして運によって、結果に差がつきます。
いえ、差をつけようと、各人は努力するのです。努力しても結果が同じなら、人は努力しません。学級の中、会社の中でも、差がつくのです。人には、他人より抜きんでたいという願望があるのです。
ケインズは、この2つのことを忘れていたのです。

ケインズ予測の的中と外れ

4月23日の読売新聞に、吉川洋・立正大学教授が「豊かな21世紀 ケインズ予測現実と落差」を書いておられました。

・・・1930年、経済学者ジョン・メイナード・ケインズは100年後の世界がどんな社会になるか予測した。大不況の最中、多くの人は世界経済の将来に悲観的だったが、ケインズは「われわれの孫たちの経済的可能性」と題するエッセーで、21世紀前半の世界に楽観的な見通しを述べた。
予測のうち、一つは当たり、一つは外れた。
当時、最も豊かな国だったイギリスでも、100年後には生活水準がさらに4倍ないし8倍まで上昇するだろう。21世紀、人々は信じられないほど豊かになっているに違いない―。この見通しは当たった・・・

では、外れたのは何か。
・・・100年後には、人々の暮らしは想像もつかないほど豊かになっているから、およそ「経済」の問題はすべて解消してしまうだろう。人々は週5日、1日3時間働けば十分になっている。作り出すモノはあり余っているから、人々は豊かさの中で倦怠に悩まなければならない。何かを手にしたいという欲望を基にした経済の問題は消え去っている。
二つ目の予想完全に外れた・・・
この項続く。

ゲーム依存症という病気

5月5日の朝日新聞に、「学校行かずゲーム16時間」(1面)、「ゲーム依存症は病気」(2面)という、衝撃的な記事が載っていました。詳しくは本文を読んでいただくとして。
健康な日常生活や家族関係が壊れています。中高生の52万人が依存症の疑いがあります。小中高生の7割以上がネットゲームをしています。
ゲーム以外の利用も含めて、ネットの利用時間は159分です。平日に3時間以上利用している子供が、37%もいます。勉強が進まないだけでなく、睡眠不足になります。

依存症の問題として、昼夜逆転、欠席・欠勤、ものを壊す、食事をしない、家族への暴力、お金を盗むなどが上げられています。
お酒やたばこ、ギャンブルと同様に、未熟な子供が依存症になり、身を崩します。いえ、スマホの方が子供は手にしやすいので、こちらの方がより危険です。子供にこれらの機器を与えるのは、大きな問題です。

加藤秀俊著『社会学』

加藤秀俊先生が『社会学 わたしと世間』(2018年、中公新書)を出されました。先生は1930年のお生まれ。88歳になられるのですね。この本は、先生の社会学の集大成、そのエッセンスでしょう。  表題の「わたし」には、普通名詞の「私」と、加藤先生の「私」の、二つの意味があるようです。

「社会を世間と言い換えれば、よくわかる。社会学とは世間を対象とした学問、世間話の延長である」と主張されます。しかし、学問としては、それは都合が悪いのでしょうね。専門用語で、素人がわからない話をしないと、ありがたみが薄れるのです。そして、欧米から輸入したという権威付けも。多くの学問はそれで良いのでしょうが。私たちが生きて行くには、社会学・世間学を知っている方が、苦労をしません。そこが、ほかの学問との違いです。すると、平易な言葉で書かれている方がよいのです。

私は学生時代、授業の社会学が、今ひとつ理解できませんでした。清水幾太郎さんの本で、社会学とはこんなものかと理解しました。そして、加藤秀俊先生の本を読んで、社会とはこんなものだと理解しました。また、京都大学人文研究所の先生方の本を読みました。これらは、すごくわかりやすかったです。
大学の先生の本=西欧の輸入に対し、これらの本は、日本社会を日本語で分析していたのです。だから、加藤先生や人文研の本を「社会学」とは思わなかったのです。加藤先生が書かれているように、難しい専門用語で(西欧の社会を)語ることが、大学の社会学だったのです。
その傾向は、未だに続いているようです。「思想」というと、ソクラテスから現代フランス哲学まで、西欧の思想が解説されています。日本人、それも庶民の思想は出てきません。困ったものです。ここは、歴史学において、政治史や経済史から、庶民を含めた社会史や文化史に転換したことが思い浮かびます。エリートたちの思想とともに、庶民の思想を含めて、国民の思想と言うべきでしょう。これについては、別途書こうと思っています。

この本は入門書ですが、社会学の基本が整理されています。集団、コミュニケーション、組織、行動、自我、方法です。それぞれが、私たちの日常生活、現代の生活に即して解説されています。わかりやすいし面白いです。このうち、コミュニケーションだけがカタカナです。何かよい大和言葉はないのでしょうか。

ところで、加藤先生の本になじみのない人は、先生の文章に違和感を感じるところがあるでしょう。形容詞がひらがななのです。

まだ外国人には不親切な日本

先日の夜のことです。地下鉄新宿3丁目駅で乗り換えた時、プラットフォームでまごついている白人女性2人がいました。英語で声をかけると、柱に表示された丸ノ内線の駅の一覧を示しながら、「中野新橋駅に行く方法がわからない」とのこと。

中野新橋駅は、丸ノ内線の支線にある駅です。ほとんどの列車は、本線の荻窪駅行きなので、途中の中野坂上駅で乗り換えます。
確かに、案内表示を見ても、直ちには理解できません。本線の駅が順に並んだ後、支線の駅が並んでいるのです。乗り換えることは、日本語表示でした。彼女たちは、英語の路線図も持っているのですが、小さくてよくわかりません。
と言うか、知っている私には理解できるのですが、初めての人には難しいでしょうね。駅のアナウンスは、「方南町方面は中野坂上駅で乗り換えです」と繰り返していますが、日本語でした。英語でこれですから、ほかの言語だと、もっと苦労するのでしょうね。

英語で説明したのですが、私の英語が通じているか不安だったので、「中野坂上駅まで一緒に行くから」と一緒に乗り込み、中野坂上駅では列車から降りて誘導しました。
オーストレイリア(オーストラリア)から休暇で来た、ご婦人と娘さんでした。聾唖者の学校の先生でした。
さび付いた私の英語では、説明は苦労しながらもできるのですが、聞き取るのは難しいです。