カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

消費の飽和状態。変化への遅れ

日経新聞22日鈴木敏文さん(コンビニの「セブンイレブン」・スパーマーケットの「イトーヨーカ堂」元社長といった方がわかりやすいですね)の「私の履歴書」から。
・・1992年、世の中はバブル崩壊後の低迷期に突入していた。総合スーパーは成長が鈍化した。「ものが売れないのは不景気のせいだ」と、誰もが考えた。しかし本当はそうではなく、80年代を通して進行した消費構造の変化、売り手市場から買い手市場への変化が本格化したと、私は思った。
お金がないから買わないのではなく、欲しいと思う商品がないから買わない。実際、世帯の月平均可処分所得は90年代も伸び続け、一番高かったのは96~97年ごろだ。デフレも進行し、「安くなければ売れない」と誰もが言ったが、安くても既にある同じようなものはいらない、と考えるのが消費の飽和状態だ。
通常1着3万円以上するスーツを海外で大量生産し、8,200円の常識破りの価格で売り出したことがある。5日間で11万着売れたが、第2弾は不発に終わる。顧客は「新しい仕掛け」に価値を認め、第2弾の同じ企画にはもう価値を認めなかった。
・・90年代後半から、ヨーカ堂では衣料品部門の業績は下降するが、その要因は消費マーケットが変化しているのに、過去の成功体験で対応しようとしたところにあった。人間は、環境が厳しくなるほど、過去の経験に縛られてしまう。意識を変え、行動につなげることは、本当に難しい。

日本でのミクロの希望とマクロの希望

17日の東京新聞「即興政治論」は、宇野重規准教授が、「今の日本、希望を持てますか?」に答えていました。
・・2千人を対象に行ったアンケートでは、8割の人が何らかの希望を持っていると答え、さらに6割は漠然とした希望ではなく、将来実現の可能性のある具体的な希望を持っていると解答しました。私たちは希望額プロジェクトを始めた時点で、「今は希望がない」という大前提で議論を始めましたから、これは意外でした。
今、若い人には希望がないという議論がされていますが、調査をすると、若い人の方が希望があり、お年寄りほどありません。
5年以内に自動車を買いたいといった、個人レベルの「ミクロの希望」と、より大きい例えば日本社会がどうなるのかといった、「マクロの希望」を区別して考える必要があります。日本が経済復興を果たし、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたころから、日本社会に希望があるかないかというマクロの希望はあまり議論されなくなり、もっぱら個人としてのミクロの希望が語られるようになりました。マクロの希望が再び議論されるようになったのは、バブル経済崩壊に伴って、ミクロの希望が頭打ちになったころからです。ただ、個人の不満が高まっているところで、国策としてマクロの希望の回復が語られるのは、健全ではありません。
・・個人にミクロの希望がない時代には、ヒトラーのように、大きなビジョンとして偽りの希望を示し、人々を引っ張っていこうとすることは、往々にしてあることです。ミクロの希望の行き詰まりを、マクロの希望で解決しようとするのは、ナショナリズムも同様です。
健全な希望を回復するためには・・・悪条件を一つ一つ取り除き、個人の希望が社会的につながっていくのを助けることが、政治の役割ではないでしょうか。政治が能動的に大きな希望を提示するのは、ちょっと違うのかなと思います。

豊かな社会の不満と政治

7日の朝日新聞異見新言は、宇野重規准教授の「選挙の争点、政治は格差を語れるか」でした。
日々、格差問題が語られているにもかかわらず、これが本当に政治問題化するかは、今のところはっきりしない。
格差の問題を痛切に感じ、格差の広がりに対して不満を持つ人の数は少なくないはずであり、不満を持つ人々が結集すれば、一つの政治的な力となるだろう。しかしながら、不満を持っているという点では、一致団結できるとしても、何に不満を抱いているのか、どこにその原因があるのかを論じ始めると、たちまち団結は崩れてしまうのが現状である。
というのも、かつての不満が階級意識とも結びつき、社会のなかで一定の数を有し、はっきりとした輪郭を持つ社会集団とのかかわりを持っていたのに対し、現代の不満の特徴は、一人ひとり多様で、ますます個別化する傾向を持っているからである・・・
この説には、納得します。豊かな社会での格差や不満が、かつてのような政治集団や政治的主張にならないのは、こういうことなのですね。豊かな社会での不安・不満と行政の関係は、「新地方自治入門」p180以下に書いておきました。

貿易量と情報量

3月27日の経済財政諮問会議「アジアゲートウェイ」の審議の中で、菅総務大臣が世界貿易の流通量と情報の流通量を比較して、次のように述べておられます。
資料1ページ目の右上に「世界の貿易流通」がある。5,830億ドルが北米と欧州である。北米とアジアが7,820 億ドル、アジアと欧州が7,250 億ドルであり、大体均衡がとれている。しかし、情報の流通では、欧州と北米が669Gbps、北米とアジアがその半分であり、アジアと欧州はその28 分の1である・・・
アジア・北米・欧州間の貿易量が、ほぼ同じということも驚きました。アジアは、そこまで大きくなったのですね。それに比べ、情報の流通量が28分の1とは、これまた驚きです。これから、モノやカネ以上に、情報が価値を持つ時代になるでしょう。すると、この差は大きいですね。

会社社会から地域社会へ

24日読売新聞談論「統一地方選、何を問う」、樋口恵子さんの主張から。
「人生50年型社会」だった時代からわずか半世紀。「人生90年社会」になった。人生にも、百年の計がいる。人間が長寿になった21世紀には、人々にとって、地域の再生がどうしても欠かせない。
・・・高度成長の時代、就業人口の8割がサラリーマンとなって、職住分離が進んだ。長時間労働や遠距離通勤を強いられたサラリーマンにとって、地域は文字通り、寝に帰るだけのベッドタウンだった。この時代は、「会社の時代」でもあった。冠婚葬祭は会社が取り仕切った。・・・社会保障ならぬ「会社保障」と呼ばれたものだ。
時代は一変した。終身雇用は崩れ、会社保障はもう人々のセーフティネットではない。不況や経済のグローバル化のせいだけでなく、会社で働き終えた時を意味する「定年」と、人生の時間を意味する「終身」の間に壮大な時差が生じたからである。定年後の時間は、ざっと30年に及ぶ。
21世紀は、地域が人生の受け皿として意味を増すことは疑いない・・。
先生の主たる意図とは、少し離れて引用しています。詳しくは、原文をお読みください。