「社会と政治」カテゴリーアーカイブ

社会と政治

ギャンブル依存症対策

5月19日の朝日新聞別刷り「フロントランナー」、ギャンブル依存症問題を考える会代表理事の田中紀子さんの発言から。

「日本はギャンブル大国と言われます」について
・・・たとえば、全国どこへ行ってもパチンコ店があります。かつては30兆円産業といわれていました。売り上げは落ちてきているとはいえ、いまも20兆円前後あるとみられています。
出玉は直接、現金には換えられません。「娯楽施設」の位置づけですが、「特殊景品」と呼ばれるものが別の場所で現金化されています。法律に抵触しないようにするためのレトリックに過ぎず、事実上のギャンブルです・・・

「厚労省は昨年9月、ギャンブル依存症の疑いがある人は全国に約70万人いると推計を発表しました」について
・・・過去1年間で発症した疑いがある人の数です。それ以前を含めるともっと多くなり、罹患者は320万人いると推計されています。
怖いのは、家族や友人など周りの人を巻き込んでしまうことです。家族を実態調査したことがあります。「借金を肩代わりしたことがある」と答えた人は8割以上に達しました。100万円以上から300万円未満が24・1%、300万円以上から500万円未満が22・9%でした。「1千万円以上」と答えた人は17・5%もいたのです・・・

「依存症に社会はどう向き合うべきでしょうか」
・・・精神論や道徳論で片付けられないことを理解すべきです。最初は好きでやっていたとしても、ある段階からは「やめたい」と思っていながらやめることができないのです。回復までには時間がかかります。医療機関や施設につなぐ社会の環境づくりが大切です・・・

詳しくは原文をお読みください。

移民政策、経済学と政治学

4月27日の日経新聞、経済教室、中島隆信 ・慶応義塾大学教授の「移民政策の現状と課題(下)」「 安易な外国人依存避けよ」から。詳しくは原文をお読みください。

・・・移民に関する経済学の実証研究はこれまで数多くなされてきた。だが筆者と明海大学の萩原里紗氏による「人口減少下における望ましい移民政策」(経済産業研究所)やベンジャミン・パウエル米テキサス工科大教授による「移民の経済学」などのサーベイをみても、研究成果が政策に役立つかどうかは定かでない。
明確なのは、生産性の低い場所から高い場所への労働移動が社会全体の所得を増やすということだけだ。国境を越えて移動する人たちはおおむねこの原則に従って行動すると思われるため、世界全体の生活水準向上という観点に立てば移民は是とされる。

ところが移民の受け入れ国に与える影響となると話は違ってくる。この点に関する国民の関心事は、(1)成長に寄与するか(2)国内の職を奪わないか(3)財政を悪化させないか(4)治安が悪くならないか――の4点にほぼ絞られる。このうち経済学の対象外となる(4)を除けば、いずれも前提条件の置き方次第でプラス・マイナス両面の結果が出ており、しかもその経済全体に与える影響は比較的軽微だ。要するに移民を入れても入れなくても経済的には大差はない。

だとすると、移民政策は貿易政策と似た政治色を帯びることになる。つまり移民に仕事を奪われそうな人は受け入れに反対し、移民と補完的な仕事をする人は賛成するという図式だ。そして全体最適の議論は脇に追いやられ、結論が先送りされるかポピュリズム(大衆迎合)的風潮が生起するかのいずれかになる・・・

公文書館の将来

公文書館に行って、考えました。多くの人は、公文書や文書と聞くと、紙の書類を思い浮かべるでしょう。ハンムラビ法典やロゼッタストーンのように、石に刻まれた文書もありますが。

公文書の電子化が進んでいます。まずは、紙の文書を電子化しています。次に来るのは、文書そのものが、電子媒体でつくられる時代です。すると、紙はありません。
利用者が「公文書館に行って、お目当ての書類を申請して、書類を出してもらう」という風景はなくなり、自宅でパソコンで検索し、お目当ての書類をダウンロードすることになるのでしょう。
公文書館も、古い書類が棚に並んでいるという風景でなく、コンピュータが静かに動いている風景になるのでしょうね。

伊藤聖伸著『ライシテから読む現代フランス』

伊藤聖伸著『ライシテから読む現代フランス』(2018年、岩波新書)を読みました。ライシテとは、日本では耳慣れない言葉です。「フランスでの政教分離」と訳すとわかりやすいです。「ウィキペディア」。しかし、フランスでは大革命以来、日本では理解できないほどの、厳しい歴史があります。かつて、谷川稔著『十字架と三色旗―近代フランスにおける政教分離』を紹介したことがあります。

政教分離と言っても、各国の歴史的背景、社会での変化によって、状況が異なります。時代によっても変わります。
西欧では、キリスト教が広まる際に、ローマ帝国(皇帝)との戦いがあり、その後、国教となります。中世は、「カエサルのものはカエサルに」と、共存・相互分担でした。王様が、教皇から破門されることもありましたが。フランス革命で、キリスト教は国教の地位を追われます。しかし、教育は実質的に教会が担っていました。国民の多数も、教会に行くのです。その後、教育が世俗化する過程も、興味深い物があります。フランス革命は、身分を取り払うとともに、その支えであった宗教やギルドなど「中間集団」を認めず、国家が国民を直接支配することを目指します。
さて、「カエサルのものはカエサルに」と共存していた政治と宗教が、再度、緊張関係に立ちます。イスラム教徒の増加です。イスラムそれも原理主義は、政教分離でなく、一体です。
またスカーフをかぶることを、政教分離として認めるのか、逆に政教分離だから認めないか。難しい問題が生じます。

日本では、「八百万神」という考えが主流で、どのような宗教も許容します。しかし、スカーフをかぶるイスラム教徒が増加した場合、どのようになるでしょうか。輸血や手術を認めない宗教の信徒が、けがをして病院に運ばれた場合、医師はどのように対処したら良いのでしょうか。「政教分離」では解決しない問題が出て来ます。
「ほかの宗教も認める」という立場だから、複数の宗教が並存できます。「我が神が絶対第一だ。ほかの神は認めない」という宗教だと、政教分離は成り立ちません。

社会の分断や亀裂を、どのようにまとめ、統合するか。そこに、政治の役割があります。宗教は、統合の仕組みでもあり、他者との排除の仕組みでもあります。
ここには書き切れないほど、難しい問題です。新書ですが、深く考えさせる本です。お読みください。

情報保護政策のあり方、各国の文化の違い

3月28日の日経新聞経済教室、山本龍彦・慶応義塾大学教授の「EUの厳格な情報保護 米中と憲法文化の違い背景」が興味深かったです。
情報化の急速な進展によって、個人情報保護のあり方が議論されています。その内容は記事を読んでいただくとして、私が興味を持ったのは、EU、アメリカ、中国が異なった方針をとっていて、それがそれぞれの憲法文化を反映しているという指摘です。

・・・こうしたEUの先進的な取り組みには批判もある。自己情報の主体的コントロールを重視するEUのプライバシーアプローチは、AI社会化を背景に重要性を増すデータの自由な流通や利活用を妨げる可能性があるからだ。確かにEUのように情報に対する個人の「自己決定」の機会を実質化することは、データ流通に摩擦を生じさせかねない。
この点、米国や中国はプライバシーとデータ利活用のバランスについてEUとは異なるアプローチをとっており、世界の情報経済圏は三つどもえの様相を呈しつつある。注目すべきはこうしたプライバシーアプローチがそれぞれの地域の憲法文化と密接に関連していることだ。
ジェームズ・ホイットマン米エール大教授(比較法学)は、EUは「尊厳(dignity)」ベースで、米国は「自由(liberty)」ベースでプライバシーを思考すると指摘する。
もともと貴族の誇りやプライドに由来する「尊厳」は、個人が誇り高く自らの情報を主体的にコントロールできなければならないとの発想に結び付く。「尊厳=個人の主体性=情報自己決定権」という連関は、前述のGDPRの権利概念の中にも垣間見える。
これに対して貴族的伝統を持たず、政府に対する住居の不可侵性を源流に持つ「自由」は、私生活に対する政府の干渉には警戒的になる。一方、民間企業間ないし市場での情報・データ流通には、表現の自由という観点からも肯定的な発想に結び付くとされる。
また中国では、近年財産的な性格も持ち始めた情報を公(政府)が管理・統制し、財産の社会的共有を目指す共産主義的な情報保護政策を進めようとしているかのようにみえる。中国の「デジタル・レーニン主義」は、中国の憲法体制と深く結び付いたこうした情報政策を意味する言葉として理解すべきだろう。
以上のように考えると、EU、米国、中国のプライバシーアプローチの違いは、それぞれの憲法文化ないし憲法体制に関連している。情報経済圏の対立は「立憲」の型を巡るかなり深いレベルでの思想的対立(「尊厳」対「自由」対「共産」)のようにも思える。実際に筆者は海外のシンポジウムなどで、何度かこうした根本的対立の場面に出くわすことがあった・・・

図では、次のように整理されています。
EU=「尊厳」基底的アプローチ、情報自己決定権
アメリカ=「自由」基底的アプローチ、情報・データの自由な流通
中国=共産主義的アプローチ、デジタル・レーニン主義

中国は、「共産主義的」というより「政府管理的」「共産党管理型」と言う方がわかりやすいと思いますが。