カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

平成の歴史、介護保険制度

1月12日の日経新聞連載「平成の30年 高齢化先進国」は「介護の担い手 家族から社会全体に」でした。

介護保険制度が始まったのは、2000年、平成12年でした。もうすっかり定着したので、若い人は、これが昔からあるものだと思っているでしょう。
介護サービスを充実するために、1990年代に「ゴールドプラン」という政策が策定され、施設や職員を急速に増やしました。当時、私は自治省交付税課の課長補佐をしていて、「こんなにも金がかかるのか」と驚いたことを覚えています。
それまでは、家族が、といっても多くは、娘か嫁が父や母、祖父母の世話をすることが「常識」だったのです。サービス開始直後は、「ケアマネジャーを、家の中、寝室まで入れるなんて、恥ずかしい」という声もあったのです。

身近に、介護サービスを利用している例を見ていますが、この制度がなくては、家族は大変な負担だったでしょう。
発足当初、218万人だった要介護認定者は644万人に増え、介護総費用額は3.6兆円から11.1兆円に膨らみました。これも、制度が活用されている結果なのでしょう。

介護保険制度は大成功でした。この記事の副題にあるように、介護作業を家族から社会で引き受けるようになったのです。
このサービスのおかげで、どれだけの家族・女性が、自由時間を持てたか、社会に出ることができるようになったか。日本社会を変えた、行政制度だと思います。
介護保険制度10年

『正義とは何か』

神島裕子著『正義とは何か 現代政治哲学の6つの視点』(2018年、中公新書)を読みました。
9月に出版されてすぐに読んだのですが、感想がまとまらず、放ってありました。いつか書こうと、机に載せてあったのです。そのような本がたまってしまったので、片付けることにしました。読んだことを忘れないために、書いておきます。本格的に読まれた方は、軽蔑しないでください。

マイケル・サンデルさんの授業や著作が一世を風靡したのは、10年近く前のことでしょうか。読まれた方も多いと思います。私も、なるほどと思いました。
現代の哲学を再生したのは、ジョン・ロールズです。主著である『正義論』(新訳2010年、紀伊國屋書店)は700ページを越える大著なので、読み通した人は少ないでしょう(買って読んでません。反省)。

『正義とは何か』は、読みやすい本です。現在の政治哲学を、一通り学べるようです。
ところが私にとって、やはり「正義って何か、わからないなあ」です。これが、感想文が書けなかった理由です。まあ、そんな簡単に、正義や正義論がわかるものではないのでしょう。
今後も、頭の片隅に起きながら、勉強を続けましょう。ところで、そんな主題が多いのです。「制度」「秩序」「政治」などなど。最近このホームページに「ものの見方」という分類を作って、書きためるようにしています。

ところで、本論から離れて、次のようなことを考えました。
・哲学には、社会の哲学と、個人の哲学がある(Pⅱ)。正しい社会や正義と、個人が生きる際の拠り所、正しい生き方の2つです。
・哲人が考える正しいことと、民主主義が決める正しいことがある。2つをともに「正しいこと」として並べてはいけないのでしょうが。昨今のポピュリズムを見ていると、大衆が支持する「正しいこと」は、識者が考える正しいこととは異なるようです。

・何が善き生き方か。近代自由主義国家では、それは各人の判断に委ねています。社会に迷惑になることについては、法律で禁止、規制しますが。法律で規制、誘導するほかに、道徳やマナーによる誘導もあります。しかし、法律や道徳が守られるのは、それを守るべきだという規範意識が、国民に植え付けられるからです。社会秩序の基礎には、規範意識があります。
日本社会の強靱さは、ここに基礎を持っています。宗教心とともに、そのような習慣や規範意識は、重要な社会インフラです。社会関係資本や文化資本です。
善き社会とは何か。犯罪や事故が少ないといった話でなく、このソフトなインフラは、政治や行政ではあまり取り上げられません。
戦後日本の政治と行政は、善き生き方、善き社会といった話には触らないこととしてきました。善(good)や正(right)の価値判断であり、宗教や家庭での教育です。
豊かさや経済成長が課題だった時代は、この問題は隠れていました。しかし、成熟社会になった日本において、私は再考すべきだと考えています。

それぞれの国のかたち

12月7日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「道徳観と切り離された報酬額 「常識」あっての市場競争」に次のような発言が載っています。

・・・倫理観や道徳観念は国や地域によって少しずつ異なっている。一般論としていえば、米国では、自由競争、自己責任、法の尊重(逆にいえば法に触れなければよい)、能力主義、数値主義などが大きな価値を持って受け入れられる。しかし、日本ではそうではない。協調性やある程度の平等性、相互的な信頼性などが価値になる。

だが米国流の価値をグローバル・スタンダードとみなした時、グローバル競争は、日本の価値観や道徳観とは必ずしも合致しなくなる。しかしそれでよいではないか。もともとグローバル・スタンダードなどという確かなものはないのだ。あるのは、それぞれの国の社会に堆積(たいせき)された価値観、つまり「常識」であり、そこには明示はされないものの、緩やかな道徳観念がある。企業も市場経済も、この「われわれの常識」に基づいているはずなのである・・・

そうですね。アメリカは、先住民を追い出して、新しく町をつくりました。その際に、自己責任、自由競争、契約などが、共通認識になりました。自治体も、企業をつくる時と同様に、住民たちが規則を定めてつくったのです。連邦政府もそうです。大統領と訳しますが、原語はPresidentで、社長や会長と同じです。参考「契約社会と帰属社会2」

私は、このような各国の社会を支える国民の共通認識を「この国のかたち」と呼んでいます。この言葉は、司馬遼太郎さんの言葉ですが、なかなかに奥深い言葉です。憲法にも法律にも書かれていないのですが、それぞれの国(国民の多く)が持っている共通観念です。国柄とも呼んで良いでしょう。
かつては、文化人類学などで、各国の社会の特色が比較されました。「タテ社会の人間関係」もその代表です。特に西欧と比べた際の日本の特殊性が取り上げられました。日本文化論です。ムラ社会論や日本軍の特殊性もその列にいます。

道徳のほかに、宗教や習俗なども、この国のかたちを支えています。公共政策を考える際に、これは大きな要素だと考えています。社会的共通資本、関係資本であり、文化資本です。
この国のかたちも、時代とともに変わります。そして、自然体に放置するのではなく、良い方向に持って行くことも、私たちの責任です。
国と同様に、会社には社風があり、地域や家庭にもそれぞれに気質があります。

グローバル化とグローバリズムの違い

12月7日の日経新聞オピニオン欄に、クラウス・シュワブ世界経済フォーラム会長の「グローバル化、関与と想像力を」が載っていました。

「第2次世界大戦後、国際社会は一丸となって共通の将来の構築を目指した。現在、再び同様のことが必要になっている。
2008年の金融危機後の景気回復はもたつき、まだら模様だった。社会のかなりの人々が政治や政治家に対してだけでなく、グローバル化と経済システム全体に不満を抱き、怒りを募らせる。不安といら立ちが広がる時代には、ポピュリズム(大衆迎合主義)が人々を引きつける」
として、その次の段落で次のような趣旨を述べておられます。

すなわち、グローバル化とグローバリズムは、異なる概念である。
グローバル化は、技術や思考、人々、製品の移動が進む「現象」であること。
他方、グローバリズムは、国益よりも、ネオリベラリズム(新自由主義)的な世界秩序を優先する「イデオロギー」であること。

原文をお読みください。

単身高齢者世帯、全体の1割

11月26日の日経新聞1面は、「単身高齢者、三大都市圏で1割超え」でした。

・・・一人暮らしの高齢者が大都市で急増している。日本経済新聞が国勢調査を分析したところ、三大都市圏(1都2府5県)は2000年以降の15年間で2.1倍の289万人に達し、15年に初めて世帯全体の1割を突破した。単身高齢者は介護や生活保護が必要な状態に陥りやすい。社会保障の財政運営が厳しくなる懸念が強まり、在宅を軸に自立した生活を支える「地域包括ケアシステム」の構築が急務となる・・・

詳しくは本文を読んでいただくとして。単身高齢者世帯が、急速に増えています。全国で1割ですが、過疎地域とともに都市部での増加が大きな問題になっています。
元気なうちは良いのですが、いずれ体力や知力が衰えます。家族と同居していると、世話をしてもらえるとともに、何かあったときは助けを呼んでもらえます。一人住まいでは、それができないのです。
これからの地域行政の大きな課題です。