「社会と政治」カテゴリーアーカイブ

社会と政治

コロナ対策、専門家に任せることと任せられないこと

4月9日の朝日新聞オピニオン欄、松尾陽・名古屋大学教授の「コロナ対応、最適解どこに 専門知の力と限界、認識を」から。松尾教授は、コロナウィルス対応が財源や時間という限られた資源を浮き彫りにしたことを指摘した後、法的資源について述べます。
・・・しかし、日本は法治国家であり、「命令」などの強制処分は法律の根拠に基づかなければならない。現行の法制度では、少なくとも強制権限の発動の機会と手段は限られている・・・現時点で利用可能な法的な手段は何かを正確に把握することが大切であり、これ自体も専門知なのだ。海外の状況や政策を参照する際も、日本に導入可能なのかを検討する必要がある。法律改正には、憲法上の限界も存在する。
限られた資源の中で多様な専門知を活用して、最適な解を探求しなければならない・・・

・・・ところで、立憲主義は、人びとの自由を守るべく、公権力の恣意的な行使を抑制しようとする理念である。これを基盤とする日本国憲法は、基本的には、最適な解を探求する積極的な装置というよりも、最悪の解を避ける消極的な装置としてデザインされたといわれる。
しかし、日本国憲法の文言は抽象的であり、すべての事項について規定しつくしているわけではない。感染症対策で社会的な距離が求められる状況下での、国会や閣議のあり方も規定されているわけではない。そのような未規定の領域のあり方は、人びとがどのように統治システムを運用していくのか、また、どのようなシステムを期待し評価していくのかにかかっている。これは、統治システムにおける専門家の活用のあり方においても同様である。

専門家は万能ではない。にもかかわらず、人びとが専門家に万能さを求めてしまえば、専門外のことにも簡単に答えてくれる「万能な」専門家が、統治システムや社会の中で重用されることになってしまうだろう。
専門家を適切に尊重するというのは、専門家の領分を適切に認識し、その専門家にも答えられない領域があることをわきまえることだ。自分で考えなければならない領域に向き合うことには不安が伴うが、それが自律や民主政への第一歩である・・・

コロナウィルスが明らかにすること2

コロナウィルスは、各国のお国柄の違いや政府の対応の違いをも、見せてくれます。医療体制の充実度の違い、政府による国民の行動制限措置の違い、国民の遵守の違いなどなど。
政府と国民との関係も見えてきます。国民に厳しいことを言える国と、言えない国との違いも。罰則をもって、外出を規制する国もあります。国民の生活や経営困難に対して、どのような金銭的支援をするか。マスクを配るかなどにも、違いが出ます。

4月9日の日経新聞オピニオン欄、村山恵一・コメンテーターの「コロナと戦えるIT社会 問われるプライバシーの感度」は、各国のコロナ対応にIT(情報通信技術)を用いる違いと、個人情報保護について書いていました。主旨はITの活用ですが、ここでは次の部分を紹介します。
・・・そしていま避けられないのが、個人データの活用を巡る議論だ。
世界を見渡すと個人の移動や居場所、体調などのデータをさまざまな方法で集め、感染の抑えこみに使う動きがアジア、欧州に広がる。強力な武器だが、懸念もある。中国のシステムは国家監視の色彩が濃い。韓国では無関係な個人情報まで漏れ問題化した・・・

病気を押さえ込むために、ITを使って各人の行動を監視することと、個人情報保護とをどのように両立させるか。議論が続くでしょう。

村山さんの記事の主旨に戻れば、戦争中に関連する技術が大きく進歩します。勝つために、お金や技術者を動員するからです。今回の病気との闘いも同様でしょう。お金と技術者がつぎ込まれます。そして、新しい技術とその実装が進みます。
そこに、新しい技術と社会生活をどのように折り合いをつけるかが、問題になります。これは科学技術の問題でなく、政治社会の問題です。そこに、各国のお国柄の違いが出てきます。

コロナウィルスが明らかにすること1

コロナウィルスが収まりません。この病気の特性から、しばらく続くと予想されます。早く収まってくれるとよいのですが。マスコミ、識者、いえ1億人が関心を持って、意見を述べています。私も、いろいろ考えるところがあるのですが、おいおい書きましょう。

今日取り上げるのは、この病気、そして取られている営業自粛、学校や保育園などの閉鎖が、社会的弱者に大きく被害をもたらすことと、それが明るみに出ることです。
例えば、4月8日の日経新聞オピニオン欄、小竹洋之・上級論説委員の「コロナが照らす世界の暗部 弱者の痛み深刻に」。

日本でも、いろんな報告がされています。
母子家庭のお母さんが働けなくなって困っていること、給食がなくなり貧困家庭の子どもが困っていること(貧しくて学校給食だけがまっとうな食事という子どももいるそうです)、学校が休校で困っている家庭(幼稚園や小学校、学童保育がなくなると、小さな子どもを預かってくれる場所がありません)、外出できず家庭内暴力がひどくなること、ネットカフェで寝泊まりしている人が行くところがないこと、雇い止めにあった人が宿舎も追い出され困っていることなどなど。

災害、特にこのように長期に社会活動が制限される疫病の場合は、ふだん隠れている社会的弱者が見えることになります。
大震災などの時もそうなのですが、大震災と疫病とは大きく違います。大震災の場合は被害自体は瞬間的に起き、課題は被害が起きてから被災者特に弱者をどう支援するかなのに対し、疫病は災害自体が長期間にわたって続くことです。

政治が取るべきことは、
1これら困っている人に、助けの手を差し出すこと
2今回の災害で明らかになった「社会的弱者」を、平時にも支援する制度と組織を作ることでしょう。
このようなときに、政府の力量が試されます。

個人消費拡大のために

3月20日の日経新聞オピニオン欄、門間一夫・みずほ総合研究所エグゼクティブエコノミストの「個人消費の弱さをどう見るか」から。
・・・個人消費が弱い。最近の消費税率引き上げや新型コロナウイルスの影響のことだけを言っているのではない。アベノミクスの7年間を通じて、個人消費は0.4%しか増えていない。同じ期間に設備投資は15.5%増加して景気の拡大を支えてきた。7年間の実質国内総生産(GDP)成長率が平均0.9%にとどまり、アベノミクスが目指す2%の半分にも満たなかったのは、ひとえに個人消費がゼロ成長だったためである・・・

・・・もう一つの考え方は、財政や社会保障の持続可能性のためにも、より高い成長を目指すというものだ。アベノミクスもこの考えでやってきたが、個人消費がゼロ成長ではどうにもならない。イノベーション(技術革新)の促進や規制改革も重要だが、もっと家計重視型の成長戦略を進める必要がある。個人の所得形成力を強化し、将来不安を軽減するため、大胆な財源の拡充や組み換えが求められる。
例えば介護、保育、教育などは、所得形成や暮らしの安心につながる重要な社会インフラだが、長年にわたり現場の疲弊が続いている。こうした外部効果の高いサービスは、公的支援の一段の増強なくして、社会的に望ましい量や質は確保できない。

また人生100年時代に向かい、人工知能(AI)などの技術革新も進む中、リカレント(学び直し)教育も社会インフラと位置づけるべきである。いかなる年齢、バックグラウンド、経済状況の人にも、第二、第三のキャリア形成への道が広く開かれているという安心感こそ、不確実な時代の家計行動を支える基盤となる。国も取り組みを進めてはいるが、熱量や財政的支援は足りているだろうか・・・

民主主義を支えた中間層の縮小

1月26日の朝日新聞文化欄、「民主主義は限界なのか」、吉田徹・北海道大教授の「絶頂期から30年、衰退の危機」から。

・・・吉田さんによると、歴史上、世界で民主化が進んだのは計3回。19~20世紀初めには市民革命に続いて議会制が整い、20世紀半ばには日本など敗戦国の民主化と旧植民地独立があり、20世紀後半の東西冷戦終結に帰結する動きが3回目だ・・・

・・・絶頂期からわずか30年で民主主義はなぜ揺らいでいるのか。吉田さんが指摘する先進国における最大の理由は、中間層の縮小だ。
「戦後の先進国の民主主義が安定していたのは、原理原則が支持されたからではない。全体主義や共産主義と競争する中で中間層を守り育てる形で労働者への再分配、福祉国家化を進めることで、実質的な平等が実現したから。ところがいま、中間層が縮小し、解体の憂き目にあっている」

中間層の減退が始まったのは、国家による再分配の役割を減らした新自由主義的政策を掲げる指導者が登場した1980年代以降のことだ。その後、経済のグローバル化が進み、国際競争が激化するなかで08年には金融危機が起きた。再分配は低下して不平等化が進み、福祉国家を維持することも困難になり、中間層の縮小は加速した・・・