カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

共通体験なき現代、蔓延する無関心

10月24日の朝日新聞オピニオン欄、真山仁さんによる、西田亮介・東京工業大学准教授へのインタビューから。

“今の世の中には、民主主義という言葉がはんらんしている。民主主義ということばならば、だれもが知っている。しかし、民主主義のほんとうの意味を知っている人がどれだけあるだろうか。その点になると、はなはだ心もとないと言わなければならない”
この一文は、1948(昭和23)年から53(同28)年まで、中学・高校の社会科の教科書として用いられていた『民主主義』(文部省著)を、読みやすくまとめて復刻した新書(2016年刊行)の序章にある。

会ってまず聞いたのは、同書に注目した理由だ。
「民主主義というのは、それぞれの国によって誕生の経緯も認識も違います。必要なのは、民主主義を実感できる固有の共通体験です。『民主主義』が刊行された当時、日本では、敗戦と新憲法公布という共通体験があり、民主主義とは何なのかということに、真剣に向き合わなければならない時期でした。だからこそ、教科書として意味があったのではないでしょうか」と、西田は考える。
同書は5年間で、教科書としての配布を終える。民主主義が、日本人に浸透したからではないだろう。高度経済成長に向かう中で、もはやそんな「きれい事に関わっている余裕がなくなった」からなのかも知れない。
「同書には執筆陣の主観や強い思いがにじんでいます。それが中立的ではないという批判もあったようです」

では、現代の若者が民主主義を学ぶ教科書として、同書は役立つのだろうか。
そう問うと、西田は「難しい気がします。授業で利用したことはありますが、学生からの反響があった記憶はありません」と答えた。さらに「現代の学生に、敗戦の共通体験はありません。それどころか、社会がどんどん分断されていて同世代であっても、共通体験をした実感がないのでは」と分析した。

アメリカ社会の分断

10月23日の朝日新聞オピニオン欄、フランシス・フクヤマさんのインタビュー「米国、分断克服の道は」から。

――それでも多くの国民がトランプ氏を熱烈に支持しているのはなぜでしょう。
「米国政治の変容を理解する必要があります。党派の対立軸が(成長重視の)右か(分配重視の)左か、という経済政策によるものだったのが、21世紀はアイデンティティー(帰属意識)に取って代わられました。自身の尊厳や価値観を認められたいという欲求の受け皿になるかどうかが重視される時代になったのです」
「端的に言えば、共和党は社会で徐々に存在感が薄れゆく白人層の政党。民主党は女性、人種などをめぐる様々なマイノリティー(少数者)、高度専門職に従事する白人が支持層に混在する政党になりました」

 ――その中でトランプ氏が果たした役割は何でしょうか。
「多くの白人労働者層や低学歴の有権者は、トランプ氏を自分たちの価値観や尊厳を大事にしてくれる英雄だと見なすからこそ忠誠を誓うのです。トランプ氏の政治的な本能が、自分たちのアイデンティティーの承認を求める彼らを見事に結集させたと言えます」

――米国は社会の分断を克服できますか。
「大統領が交代すればすぐに分断が解消されるわけではありません。克服には長い時間がかかります。優れたリーダーシップも必要です。バイデン氏でうまくいく確証はありません。まずは地道に『良い統治』に専念することが肝要です。たとえばパンデミックを抑制する策を講じること。『リーダーが問題解決に機能している』と国民が実感できるかどうかが鍵なのです」

 ――分断の根っこにあるアイデンティティーをめぐる対立は続くのではないでしょうか。
「長い目で見れば社会は常に変化しています。たとえばポピュリズムの背景にある白人労働者層の不満には、グローバル化の受益者である大都市に対し、取り残された地方からの怒りの表明という面があります。しかし、地方の縮小を押しとどめるのは現実には難しい。今の対立構図は過渡的といえるかもしれません」

 ――未来に希望をつなぐことはできるでしょうか。
「歴史に後戻りはありません。多くの国々がいま起きている変化に対応しようとしています。なかでも民主主義がレジリエント(強靱)だと私が信じる理由は『抑制と均衡』で過ちを自己修正する機能にあります。米国はこの選挙を通じて、民主主義の強靱さを世界に示してほしいと願っています」

裏口からの外国人受け入れ

東京大学出版会の広報誌「UP」8月号に、宮島喬先生の「日本はどんな外国人労働者受入れ国になったか 改正入管法から三〇年」が載っていました。

日本は、移民政策は採らない=外国人労働者の受け入れは制限するとしています。しかし実態は、外国人労働者を受け入れる政策をとっているというのが、この論考の趣旨です。人口減少と高学歴化で、産業界から労働力不足を訴える声が高まり、さまざまな制度改正をして受け入れてきたのです。その際に、高技能や専門能力のある外国人だけに制限するといいながら、抜け道があったのです。

1989年の入管法改正では、単純労働者は受け入れないこと(受け入れはごく一部の職種)が維持されつつ、「定住者」という在留資格を新設し、日系三世に充てられました。その後2年足らずで、日系ブラジル人とペルー人の来日・滞在者数は、15万人も増えました。「マジックか、二重基準なのか」と、先生は書いておられます。
しかし、日本語教育や職業研修は行わなかったので、彼らは派遣業者に頼って来日し、非正規の雇用に就き、労働者の基本的権利がなくとも甘んじて働いた(働かされた)のです。留学生のアルバイトや技能実習生も、同様に抜け道として機能しました。

労働者の送り出し国との間に二国間協定を締結するかしないかも、取り上げられています。日本は、労働者の受け入れを表明していないので、二国間協定を結ぶことはありません。しかし、二国間協定では、労働者の受け入れ条件(待遇などの労働条件、労災・雇用保険の適用、住宅、医療、年金などの内国人労働者との平等扱い)を定め、雇用契約に盛り込み、労働者の権利を守るのです。
建前を守りつつ、実態では漸進的に変えていく。これは、しばしば行われる手法です。これが、軋轢を少なくし、そして実を取ることに有効な場合があります。しかし、このような裏口入学(先生はサイドドアと言っておられます)は、副作用を伴うことがあります。
外国人労働者受け入れでは、この労働者の権利を守らないというとんでもない行為が行われています。非正規、低賃金、保障のない雇用が行われているのです。これでは、国際社会から批判を受けるでしょう。
詳しくは原文をお読み下さい。
10月20日の日経新聞経済教室、斉藤善久神戸大学准教授「生活者としての環境整備を 外国人労働者政策の課題」も、この問題を取り上げていました。

国民の期待値の低下

安倍内閣の成長戦略評価」の続きです。

・・・それでも、多くの人がこの時代を「評価する」としているのは、長年にわたり一国のリーダーとして重責を担った首相が病で退任することへの同情があったのかもしれない。しかし、より本質的な理由は、バブル崩壊以来30年、数々の国難を経て、「日本人の経済・社会に対する期待値が下がってしまった」ということなのではないだろうか。
実際、賃金は上がらないと思っている若い人は多い。人口は減るし、日本はジリ貧だという感覚は、今や広く蔓延しているようだ。

こうした中で求められるのは、長期的な観点に立った経済政策である。コロナ対策も例外ではない。足元の対策だけでなく、長期を視野に入れねばならない。アベノミクスも、もともとは第3の矢「成長戦略」が本命だったはずなのに、矢は的に届かなかった。
規制改革がいかに社会を変えるかは、「ビザ要件の緩和」などにより外国人観光客が激増したことを見れば明らかだ。「働き方改革」「女性活躍」の旗もあるべき方向を示したが、残念ながら道半ばである・・・

前回引用した「成長戦略評価」は政府の業績評価であり、今回引用した「国民の期待値の低下」は国民の側の問題です。それぞれ大きな問題ですが、政府の業績は、担当者たちを代えれば改善できます。他方で、国民の意識の問題は、そう簡単に変えることができません。より困難な問題なのです。
私の連載「公共を創る」では、政府や行政の問題を議論する際に、このような国民の意識や社会の仕組みの側の変化と問題を取り上げています。

IT企業による全体主義

9月2日の朝日新聞、マルクス・ガブリエル、ドイツボン大学教授の「たな全体主義 精神のワクチンを」から。

・・・いま私たちは、新たな全体主義の危機のただ中にいる。この全体主義は独裁国家による専制ではなく、グーグルやツイッターなどに代表される巨大なテクノロジー企業による支配だ。国家すら翻弄されるデジタル権威主義体制と言えるだろう・・・

・・・私たちは最近まで、とんでもない間違いを信じていたことが明白になったと思います。具体的にいえば、テクノロジーの進歩そのものによって、世界がより良い場所に変わったり、私たちの社会が解放されたりしていく、といった考え方です。
むしろ技術の発展が私たちにもたらしているのは、『新しい全体主義』とでも呼べる状況です。デジタル権威主義体制と言ってもよいでしょう。ただし国家が全体主義的になったという話ではありません・・・

・・・私は全体主義の特徴の一つを、公的な領域と私的な領域の区別の喪失として考えています。20世紀の歴史を振り返れば、日本の過去もそうでしたが、全体主義化すると、国家が私的領域を破壊していった。私的領域とは、より分かりやすく言えば『個人の内心』ですね。国家は監視を通じてそれを探り、統制しようとしました。一方、現代は違います。監視・統制の主体は政府ではなく、グーグルやツイッターなどに代表されるテクノロジー企業です。
私たちはいま、SNSなどで私的な情報を自らオンラインに載せ、テクノロジー企業がその情報に基づいて支配を進めています。しかも自発的に私たちは情報を提供しています。一方、国家はこうした企業に対して規制をしようとしても手をこまねいている。言い換えれば、テクノロジーの発展が、道徳的進歩と切り離されてしまったままなのです。
民主的にも正統化(legitimate)されていない一部のテクノロジー企業が、社会・経済の大部分を左右する。しかも市民自らが自発的に従うことに慣れてしまっている。私がいう『全体主義』はこうした状況です・・・