カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

法治国家、日本の形

東大出版会宣伝誌「UP」2021年5月号、内田貴さんの「書かれざる法について」が興味深いです。民法のうち契約に関する部分の改正についてです。明治初期に制定して以来、121年ぶりに改正されました。これも驚きですが。
日本がお手本にしたドイツやフランスでは、21世紀に入って次々と現代化しているのに、日本では反対が強かったのです。法曹界だけでなく、経済界からの抵抗が大きかったそうです。

焦点の一つが、事情変更の原則です。第一次世界大戦後、ドイツではハイパーインフレに襲われ、貨幣価値が1兆分の1まで下落しました。債権が額面では無価値になり、裁判所は「合意は守らなければならない」という原則を変更し、増額を認めました。これが事情変更の原則です。
日本でも、学説上も判例も確立しています。そこで、法務省が民法現代化の一つとして、この法理を明文化しようとしたのです。ところが、最後まで経団連の反対を超えることができず、条文化は断念されました。
既にできあがっている原則を明文化することに反対する???
法文より、裁判官を信頼してるようです。しかし法律は、裁判官が恣意的な判決をしないように縛るためのものでもあります。

内田先生も指摘しているように、日本の民法をはじめ法律は、条文だけで完結しておらず、背後に書かれていない規範があります。法治国家といっても、欧米(たぶん国ごとにも違うのでしょうが)と、日本では効果が違うようです。
新型コロナウイルス感染拡大防止についても、象徴的なことがあります。
各国が、法律で国民の行動を制限しているのに、日本は要請ですませています。法律で制限しているのは、事業者の営業についてです。
日本には、欧米流の「法治国家」と伝統的な「世間の目」という、二つの社会があります。「戦後民主主義の罪、3

企業による表現の自主規制

5月12日の日経新聞オピニオン欄、ファイナンシャルタイムズのジョン・ソーンヒルさんの「SNS無規制が招く危険 表現の自由、企業に任せるな」から。

・・・米フェイスブックの監督委員会が同社SNS(交流サイト)からトランプ前大統領を「追放」した会社側の対応を支持したことについて、トランプ氏の支持者は恥ずべきことだと語る。トランプ氏反対派の多くは、同氏が選挙後に首都ワシントンの暴動をあおったことに対する適切な処罰だと言う。
だが、それ以上に大きく重要な問題は、フェイスブックが構築し、委員を任命し、運営資金を出している監督委員会が果たして、そうした判断を下すのに適した団体なのかどうかだ。表現の自由の境界線を引くために、フェイスブックの「最高裁判所」と呼ばれる疑似公的機関の創設が民間企業に委ねられたのは、一体なぜなのか・・・
・・・かつて、認知科学者のジョージ・レイコフ博士はかつて、問題を特定の枠組みにはめることで都合よく政治・社会的な課題の結論を導き出せると説明したことがある。「どういう枠組みを設定するかによって問題が定義され、問題をどこまで話せるかも決まる」と同氏は述べている。
独自の監督委員会を創設することで、フェイスブックは表現の自由という問題の枠組みを巧妙に規定した。そうすることで、自社の業務慣行とビジネスモデルを暗に是認し、原因ではなく結果を重視する仕組みにしたのだ。だが、監督委自体が先日論じたように、これはフェイスブックが責任を回避できるということではない・・・

・・・これだけの質問をみても、フェイスブックが今、社会システム全体にとって重要な情報機関となったことが分かる。かつてラジオとテレビが規制されてきたように、現代におけるコミュニケーションインフラとして、厳しい監視の目を向ける必要があると考える根拠にもなる。
フェイスブックを擁護すると、監督委は確かに、以前と比べるとさらなる透明性とアカウンタビリティー(説明責任)を提供している。
フェイスブックのグローバル問題を担当するニック・クレッグ副社長は先日、本紙フィナンシャル・タイムズのイベント「グローバル・ボードルーム」に参加し、合意に基づく規制がないせいでフェイスブックは自ら空白を埋めるしか手がないと言った。また、監督委を立ち上げるために1億3000万ドル(約140億円)の予算を割り振ったと述べた。
さらに、クレッグ氏は監督委が設立からまだ日が浅いことを認め、フェイスブックとともに絶えず進化を遂げ、外部のパートナーをさらに呼び込んでいくと語った・・・

・・・だが、国連や市民社会が業界全体に対して監視体制を築こうとしている可能性を奪いつつあるとも危惧している。「(監督委は)興味深い仕組みで革新的だが、他の重要な体制づくりの可能性を潰してしまっている」とケイ氏は言う。
フェイスブックほどの巨大なSNSを運営・管理することは気が遠くなるような難題だ。フェイスブックの監督委や3万5000人のコンテンツモデレーター(管理人)、さらには最も優秀なアルゴリズムを駆使しても力が及ばないのは明白だ・・・
・・・オンライン上での表現の自由をめぐる問題には、単純な答えは存在しない。だが、より複雑な答えを探す試みは不毛だというわけではない。ただ、表現の自由というすべての人にかかわる問題について、フェイスブックという一企業が自社に有利になるように枠組みを規定することは許してはいけない・・・

詳しくは原文をお読みください。

商売と人権

5月1日の朝日新聞夕刊、佐藤暁子さん(弁護士・国際NGO幹部)の「人権とビジネス、企業のあり方は」から。
・・・中国の新疆ウイグル自治区や香港、ミャンマーなどをめぐる人権状況が問題視されるなか、ビジネスのあり方が注目されている。日本企業はどう向き合うべきか。弁護士で、人権NGOでも活動する佐藤暁子さんに聞いた・・・

・・・中国の新疆ウイグル自治区のウイグル人の強制労働に取引先が関わっているとして、豪州の研究機関ASPIが、日本企業の名前を挙げていた。自治区を離れてウイグル人が働く工場が対象だ。佐藤さんらは、名前が挙がった日本の衣料品や電機メーカーなど14社に聞き取り調査し、結果を公表した。
答えなかった1社を除く全13社が指摘に反論した。それでも「強制労働の事実が明確に否定できない限り、即時に取引関係を断ち切るべきだ」と訴えた・・・
・・・中国当局は「人権弾圧」を否定している。一党独裁の国で「異論」は御法度。経営者の発言しだいで巨大市場から締め出されかねない。逆に、中国を支持すれば中国以外の消費者から批判を浴びる可能性がある。
話すだけ損だと考え、沈黙を続ける日本企業は少なくない。「政治的な質問にはノーコメント」「人権問題というより政治的な問題だ」。正面からの回答を避ける経営者が目立つ。

佐藤さんは批判する。
「全く的外れ。がっかりしました。強制労働は国際的な人権上の問題であって、『政治的』だから何も言わない、という話ではない。説明しないことは特定の民族への人権侵害の現状追認になってしまう」
米国のパタゴニア、欧州のH&Mなどは、サプライチェーン(供給網)において新疆ウイグル自治区から綿花など素材の調達をやめると表明している。「疑わしきは使わず」だ。
「企業は社会の重要な構成員として、力を持つ。材料の調達から生産、販売など一連の過程で人権の尊重を徹底すれば、多くの人権侵害を避け、また救済もできます」
「経営者は、市民社会に対して自らの価値観や哲学を含めて説明責任を果たしてほしい。そうしなければ、世界の投資家や消費者から批判を浴びることにつながるでしょう」・・・
この項続く

土地の管理、国家と私人の権利義務のあいまいさ

4月21日の日経新聞オピニオン欄、斉藤徹弥・論説委員の「「土地は公共財」原点に戻れ 国家が担う所有不明の対処」が、参考になります。所有者不明の土地が増えていることに対処する法案についてです。

・・・所有者不明の土地は海外ではあまりみられない日本特有の問題で、その根底には日本の土地制度に起因する土地の細分化と所有権の分散化がある――。3月の衆院法務委員会では、司法書士総合研究所の石田光広・主任研究員がこんな問題提起をした。
日本は小規模な土地を多くの人が所有しているという特徴がある。明治の地租改正で1筆の土地に所有者は1人の一地一主とした。当時の総筆数はおおむね1億筆だ。
その後、経済成長と人口増で土地の資産価値が高まり、相続税対策も重なって土地の分割や共有が進んだ。日本の土地は今、2億筆を超える。国土が本州ほどの英国は1500万筆、日本とほぼ同じドイツが6000万筆、1・5倍のフランスは1億筆とされ、日本の土地は細分化が著しい。

石田氏によると、日本のように土地の分割や所有権の共有が簡単にできる国は少ない。世界では土地の分割は景観や農地の保全を妨げ、土地の価値を変えてしまうとして許可制が主流だ。同様の理由で安易な所有権の共有も制限する国が多い。
ドイツでは自治体が域内の土地利用を都市計画で厳しく規制している。緩い規制で開発を広げて空き家を生み、コンパクト化もままならない日本の自治体とは対照的だ。都市国家だった歴史的経緯もあるが、底流には「土地は公共財」という公地思想がある・・・

・・・その理由を慶応大学の松尾弘教授は「国家としての土地管理が行われてこなかったことが最大の原因だろう。土地に対して国家がもつ権限・責務と私人がもつ権利・義務の関係は曖昧だ」と東京財団政策研究所の論考で指摘する。
人口減少時代に引き取り手のない土地は公的に管理するのが妥当だ。欧州の例をみても公共財としての土地に責任を持つべきは自治体だろう。知恵を絞り土地の価値を高めて税収増を探るのは自治体の本来業務と言ってよい・・・

戦後民主主義の罪、2」で、私権の制限が進まないことを述べました。

変えなければ変わらない

「東日本大震災は日本を変えたか」という問いがあります。私は、拙著「復興が日本を変える」(2016年)の「はじめに」で、次のように述べました。
・・・「東日本大震災が大きな被害をもたらしたのに、日本社会は変わっていない」という人もいます。しかし、私は、この言い方について、次の2つの面から疑問があります。
まず、大災害が起きたら、社会は変わるものでしょうか。確かに、大震災は日本社会に大きな衝撃を与えました。大津波はたくさんの街並みを飲み込み、多くの人命を奪いました。原子力発電所の事故は、原発の安全神話を吹き飛ばすとともに、科学技術への信頼も揺るがしました。自然の脅威や科学技術への信頼について、国民の意識を変えたことは、間違いありません。しかし、社会に大きな衝撃を与え、国民の意識を変えたとしても、それだけでは社会は変わりません。無常観や不信感が広がるだけです。その衝撃をきっかけに、国民が行動を起こし仕組みを変えなければ、日本社会は変わりません。
第2次世界大戦の敗戦は、日本社会を大きく変えました。それは、戦後改革が行われ、民主化や自由化が進んだからです。阪神・淡路大震災で、ボランティア活動が社会に認識されました。それは、多くの若者が支援活動に駆けつけたからです。社会が変わるには、私たち日本人が変えようとしなければならないのです。
次に、東日本大震災によって、日本社会は実際に変わったのかどうか。私は、日本社会は変わったし、変わりつつあると考えています。その中で、私たちには今、何をどのように変えようとしているのかが、問われているのです。「大災害が起きたら社会は変わる」というだけでは、何がどう変わるかがわかりません・・・

3月27日の読売新聞夕刊「東日本大震災10年 変わらぬ日本 考える人作り」では次のように書かれています。
・・・東日本大震災から10年を機に、多くの報道があふれた。批評家の東浩紀さんに、この10年の日本を振り返り、課題を挙げてもらった。
「震災で日本は変わるのかなと思っていた。脱原発社会やライフスタイルの変化などが盛んに吹聴され、デモも行われるようになった。だが、ほとんど何の結果も出せず、社会は何も変わらなかった」・・・

3月29日の朝日新聞社説「若者の力と社会課題 大震災後の潮流を育みたい」は、次のように述べています。
・・・その東日本大震災は、もう一つ、いまに連なる変化が顕著になった節目でもある。日々の生活で抱える様々な問題は、災害など非常時に深刻さを増す。課題に直面する人たちへの支援を行政任せにせず、自らかかわりたい。そんな思いを持ち、実際に動く人が目立ち始めた。
特に注目されるのが、若い世代の意識と行動だ・・・