「政治の役割」カテゴリーアーカイブ

行政-政治の役割

「暴君ーシェイクスピアの政治学」

「暴君ーシェイクスピアの政治学」(2020年、岩波新書)を読みました。これは勉強になります。お勧めです。

著者は、シェイクスピア研究家です。「ヘンリー六世」「リチャード三世」「マクベス」「リア王」「コリオレイナス」等の作品を基に、暴君がいかにして暴君になるのか、権力簒奪者がどのようにして権力の座に着くのかを描き出します。シェイクスピアをこのように読むのかと、感激しました。

指導者になろうとする人の話が嘘とわかっていながら、大勢の人々が信じます。地位も理性もある人が、その者に従います。そして、誰もがそんなことはないと思っていた「ふさわしくな人物」が、指導者に選ばれます。
このような観点からシェイクスピアの戯曲を読むと、出てくるわ出てくるわ。「同工異曲」とも思えるくらいです。
一つの救いは、そのような成り上がりの指導者が、長く地位を保つことなく、自滅することです。

著者は、本書の執筆のきっかけを、「今回の選挙を見て」といった趣旨としています。明言していませんが、トランプ大統領を念頭に置いて書かれたことは明白です。シェイクスピアと著者の警告は、どの時代にも通用するのでしょうが、現在のアメリカだけでなく、その他の国、日本にも当てはまる問題です。

公共政治空間の日米の違い

アメリカでは、ジョー・バイデン前副大統領が、大統領選挙で勝利を確実にして、7日に演説をしました。各紙が、その概要と全文を伝えています。例えば、朝日新聞。副大統領に就任予定の、カマラ・ハリス上院議員の演説も。朝日新聞
日本では10月26日に、菅総理大臣が、就任後初の所信表明演説を行いました。

大統領選挙の勝利宣言と総理の所信表明演説を並べることは、からなずしも適当ではありません。大統領の就任演説と比べる方が、適切でしょう。しかし、ひとまずこの二つを並べてみます。
そこに、二つの国の国政の課題、そして二人の指導者の意識の違いを読み取ることができます。それ以上に、二つの国の政治に関する考え方、政治への期待の違いを見ることができます。民主主義国家、先進国といっても、これだけ「政治」は異なるのです。
参考「曽我記者、「政局」はもういいかもしれない

曽我記者、「政局」はもういいかもしれない

朝日新聞ウエッブ「論座」に、曽我豪・編集委員が、「「政局」はもういいかもしれない」を書いておられます(11月11日掲載)。

・・・「政局」という言葉の意味、みなさんはわかりますか? 自分には謎だった・・・思えば、この数カ月間、政界は「政局」ばかりだった・・・世間に向けて発信する論戦よりも、身内の多数派工作が優先される様は、与野党に共通する。あっちもこっちも「政局」なのである・・・

・・・ただ、それらはいずれも表の論争に依らぬ、水面下の隠微な「多数派工作」に過ぎない。自民党と立憲民主党という二大政党が、明快な政権公約と連立政権構想を有権者に掲げ、政権選択を仰ぐという本来の政党政治のあり方からは、なんとも程遠い「政局」である。
そもそも、自分が投じる一票が、結果としてどのような政権を生むのか、それが十分に可視化されないままでは、安心して投票所に向かうことなどできないのではあるまいか・・・

・・・それにしても、都構想の住民投票にせよ、米大統領選にせよ、事前の予想のいかに空しいことか。
何が争点であり、勝敗によって何が起きるのか、投票に向けてそうした基礎情報を十分に提供するのがメディアの本務であるはずなのに、勝敗の事前予想ばかりが世間を賑わせる。論議が生煮えのまま投票自体がポピュリズムに流れ、なおかつ結果が僅差で終われば、残るのは分断されたという感覚だけ。主権者たる有権者が直接、重要政策や政権を決めることができる民主主義の方策が、かえって対決の火種を残す皮肉な結果となる。

しかも現在は、新型コロナウイルスという未体験の危機の真っ只中である。感染の再拡大が続く諸外国の状況を見ても、拡大防止と経済活動維持の二つの課題を同時に解決する処方箋は簡単には明示できておらず、だからこそ、局面ごとにその都度「最適解」を探り当てる繊細な政策遂行の技術と、国民からの信用が必要となろう・・・政治家も政治記者も、「政局」ばかりを模索し、書いている場合ではない・・・
原文をお読みください。

政治家の資質を語る

10月29日の朝日新聞オピニオン欄、曽我部真裕・京都大学教授の「政治家の資質を語ろう」から。
・・・アメリカ大統領選挙が佳境を迎えている。先月から今月にかけて、大統領候補者同士のほか、副大統領候補者同士のディベートも行われた。その様子は日本でも大きく報じられ、様々にコメントされた。この機会に限らず、大統領候補者は、予備選挙の段階から長期間にわたり、実に多くの機会に国民の視線にさらされ、自らの資質を明らかにすることが求められる。

翻って日本ではどうか。先ごろ行われた自民党総裁選挙で圧勝し、その後首相に就任した菅義偉氏は、就任早々、日本学術会議会員任命問題が生じても記者会見を開かず、その代わりに開かれたと思しき異例の「グループインタビュー」では、下を向いて原稿を読むことに終始する様子が批判された。そもそも首相になってから「たたき上げ」かどうかが論議される有り様であり、要するに新首相は、国民がその来歴や人物像、政治観などをたいして知らないまま最高権力者の座に就いたのである。
直接選挙による選出ではないとはいえ、民主主義国家において、これは戦慄すべきことではないだろうか。

考えてみれば、新聞やテレビ報道で、政治家の資質に関わる情報が伝達されることは少ない。広く視聴される番組で取り上げられるのは、アイドル的人気を博して興味が寄せられる場合のほか、耳目を引く過激な発言をしたり、不祥事を起こしたりした政治家のことなどである。他方、しっかりした討論番組も確かに存在するが、視聴者層に広がりを欠く。
また、新聞ではそもそも政治家、とりわけ今後のリーダーと目される人物にフォーカスした記事が掲載されること自体が稀であるようである。

企業経営者に関しては、ビジネス雑誌等が盛んにインタビューを行い、その来歴、経営哲学、愛読書等々が数多く記事化されるのとは対照的である。もっとも、インタビューは難しい。熟練の聞き手がしっかり準備した上でないと、単なる宣伝の場と化してしまうからだ。
メディア以外に目を向けると、もちろん政党は、人材の発掘・育成、リーダーの選抜に大きな責任を負っている。メディアを含め、外部の目にはどうしても行き届かないところがあり、政党内部の同僚議員からの評価は非常に重要である。多角的で公正、かつ長い目で政治家を育てる姿勢が政党には求められる・・・

参考「最高裁判事の任命

政策の階層

9月25日の朝日新聞、佐伯啓思先生の「この7年8カ月の意味」の続きになります。「安倍政権の位置づけ、激変した世界の中で。その2」で、次の文章を引用しました。
・・・最高の地位にある政治家は、また行政のトップでもある。最高の行政官は、国民の要求に応えなければならず、また国家の直面する目前の問題に対して現実に対処しなければならない。まさに身を粉にして「仕事」をしなければならない。「仕事」をすれば支持率はあがる。だが、政治家とは、世界状況を読み、その中で国家の長期的な方向を示すべき存在でもある。「旗」をたて、その旗のもとに結集すべく人々を説得する「指揮官」でもある・・・

各人が精一杯努力してそれぞれに成果が出ているのに、全体としてはうまく行っていない。小は職場や企業から、大は日本の政治と社会まで、しばしば見られる現象です。理由の一つは、求められる成果に対して、違ったことに頑張っているからです。極端な例は、企画案(粗々な原案でよいから)を求められているときに、文章のてにをはを直すことに時間をかけている場合です。暗闇で鍵を落としたのに、そこから離れた街灯の下で鍵を探すとか・・。

では、日本政治ではどう考えたらよいか。私は、次のように考えています。
その1 評価の基準
日本の政治は、いま何をしなければならないか。たくさんある課題から、どれを優先するか。これは難しい判断です。しかし、簡単に言えば、「10年後から振り返って、あの時(2020年)は正しいことをした」と評価できるかどうかです。「毎年、いろいろ頑張ったのに、なぜこんなことになったのだろう」では失敗です。
10年後から振り返るとしても、経済、財政、社会保障、安全などいろんな分野で測ることができます。これまた簡単に言えば、「国力で世界何位にいるか、国民一人あたり国内総生産で世界何位か」が、最もわかりやすいです。もちろん、経済力だけで、国民の幸せを測ることはできません。しかし、平成以来の日本社会停滞の大きな原因は、経済の停滞です。このまま放置すると、中国、アメリカなどに引き離され、韓国や台湾の後塵を拝するでしょう。

その2 政策の階層
では、総理をはじめ責任者は、何をすればよいのか。それを考える際に必要なことが、政策の階層です。内閣も課長も、さまざまな課題に取り組みます。その際に、優先順位をつけることが必要なのです。
それも、一列に並べることではありません。内閣で言えば、取り組まなければならない課題や政策を「総理が取り組むこと」「大臣が取り組むこと」「局長が取り組むこと」の3層に分けることです。
すると、政策の体系・ピラミッドができます。総理がするべきこと、大臣が取り組むべきこと、局長に任せること。これを判断するのが、総理と総理を補佐する人たちの一番重要な任務です。
「明るい公務員講座」56ページでは、ゾウを捕るのかネズミを捕るのかのたとえで話しました。「講座」では一人の職員の任務として話しましたが、組織の場合は課題をゾウとネズミに分類し、誰にどれを分担させるかです。

マックス・ウェーバーが、心情倫理(信条倫理)と責任倫理を分けました。政治にしろ企業にしろ、「頑張りました」だけではだめで、「これだけの結果を出しました」が判断基準です。この項続く