カテゴリーアーカイブ:政治の役割

政権交代のために、長期ビジョン提示が必要

2021年12月9日   岡本全勝

11月30日の朝日新聞オピニオン欄「立憲民主、立て直せるか」、松井孝治・慶応大学教授の発言「批判の前に長期ビジョン」から。

・・・1998年にできた民主党は「与党批判だけでは政権は取れない」と考えていた旧社会党の議員、「自民党では改革できない」と自民党を飛び出した議員らで結党されました。その精神は、既得権益に縛られた自民党に代わり、官僚主導の政治を変えるというものでした。しかし今は、もっぱら与党のスキャンダルを追及する野党というイメージが定着しています。
この変質は2000年代後半、小泉内閣のときに起こり始めていた、と私はみています。当時の小泉純一郎首相の「改革」の演出が巧みだったため、むしろ自民党の方が改革を進めている、という印象を国民に与えました。そんな自民党に対抗し、選挙で勝つために、民主党は与党の新自由主義などを批判する「批判政党」へと次第に変質し、今に至っているのです。

しかし、こうした政治手法では「どんな日本社会を作りたいのか」という政党としてのビジョンを国民に示すことはできません。
かつて民主党は、子ども手当を創設するチルドレン・ファースト(子ども第一)、高校無償化なども含む「コンクリートから人へ」、それに「新しい公共」といった自民党が掲げないような政策理念を掲げました。今後の立憲民主党も、若い世代のために何をするのかということを軸に、長期的な将来ビジョンを示すべきです・・・

アパルトヘイトの廃止

2021年11月23日   岡本全勝

デクラーク・元南アフリカ大統領が11月11日に亡くなったと、各紙が伝えています。11月12日の朝日新聞
・・・南アフリカのフレデリク・デクラーク元大統領が11日、西部ケープタウンの自宅で死去した。85歳だった・・・白人政権の最後の大統領として、アパルトヘイト(人種隔離)政策廃止へと導いた。民主化や改革路線の功績が認められ、故ネルソン・マンデラ氏とともに1993年にノーベル平和賞を受賞した・・・在任中は、27年に及ぶ獄中生活を続けていたマンデラ氏を釈放した。アパルトヘイト政策の廃止や、人種間の融和に努めた。朝日新聞の取材に「(アパルトヘイトを廃止しなければ)南アはさらに孤立を深め、武力対立で多くの人が命をなくし、経済は崩壊していただろう」と語っていた。さらに、南アが極秘に開発していた核兵器の廃棄も決めた。「共産主義の脅威が去り、南アが国際的地位を築くために(核兵器)保有は足手まといになった」と理由を述べた。
南アフリカでは94年に初の全人種参加選挙が実施され、マンデラ政権が誕生。デクラーク氏も副大統領に就いた・・・

13日付の松本仁一さんによる評伝には、次のように書かれています。
・・・4世紀にわたる少数白人支配をやめ、黒人勢力に権力を渡す決断をしたフレデリック・デクラークは、たまたま大統領の座についた政治家だっ・・・1989年、ボタが病で倒れ、大統領の座が回ってきた。「閣僚中の最古参だから」というだけの理由だった。
しかしそこから、歴史に残る大決断をする。アフリカ民族会議(ANC)の合法化、ネルソン・マンデラの釈放、アパルトヘイト廃止――。それまでだれもできなかったことを、2年の間に成し遂げたのである。
決断の契機になったのはマンデラとの極秘会談だった。政権についた直後の89年10月、終身刑で服役中のマンデラを大統領官邸に呼ぶ。その時の様子を、デクラークは私にこう語った。
「マンデラは、刑務所長が運転するBMWの後部座席で毛布をかぶって身を隠し、官邸の地下ガレージに乗り入れました。そこから大統領専用エレベーターで執務室に入ってきました。ずいぶん背の高い男だという印象でした」話を始めて、マンデラが頭のいい人間であることがすぐ分かった。この男だったら信頼できると感じたという。
80年代後半、黒人の暴動が各地で起きていた。南アは国際的な制裁の中で孤立し、社会は荒れた。国の将来を考えたら、権力の平和的移行しか道は残されていないと思っていた。
「アパルトヘイトは廃止しなければならない。それも小出しにではなく、ひとっ飛びにやらなければいけないと考えました」大統領である今ならそれができる。デクラークは、たまたま巡ってきたチャンスにすべてをかけた。
最大の懸念は、政権を渡した後、白人に対する暴力的報復が始まること、そして黒人政権が共産主義化することだった。マンデラに何度も念を押す。ANCの中には反対もあったが、マンデラが抑え込んだ。マンデラを信頼するしかないと腹を決めた。
決断が間違っていたらどうするか。国民への責任を考えると胃が痛くなり、眠れない夜もあったという。「結局、判断は正しかった。あの決断をしたのが自分であることを、私は誇りに思っています」・・・

平和裏に革命を起こしたのです。権力を持っている人たちが、歴史の流れを読んで、その権力を譲り渡す。なかなかできることではありません。

メルケル首相の評価

2021年11月20日   岡本全勝

11月11日の朝日新聞オピニオン欄「さよならメルケル」、岩間陽子・政策研究大学院大学教授の「長すぎた16年、広がったEU内格差」から。

――長すぎたとは?
「16年間という在任期間にもかかわらず、ドイツにとっても欧州にとっても新しいビジョンを打ち出せなかった。欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)という欧州の安定に欠かせない機関の改革もしなかった。欧州の自立ということを繰り返し語っても、具体策はありませんでした」
「外交で顕著だったのが中国依存です。在任期間は、中国の存在が大きくなり、米国の地位が下がっていく時期と重なります。メルケル氏が選んだのは、中国市場の拡大を利用し、自動車を中心とする既存の産業を発展させる道でした。対ロシア関係とともに、人権問題での批判があっても『対中関係は経済問題』というスタンスをとり、欧州を相対的に軽視したように思います」

――欧州で「ドイツ1強」と言われるほどになりました。
「EUではドイツが目立ってはだめなのです。経済力の強さは以前からです。西欧中心だったEUは東に加盟国を増やし、EU内の格差が広がりました。新たに加盟した東欧諸国には欧州の二級市民だという意識があります。財政危機で南北格差も拡大しました。こうした格差を埋めるEU改革に着手しないといけなかった」
「例えばユーロ危機はメルケル氏の手腕で乗り越えたと言われます。確かにギリシャの財政問題に端を発した危機で、ギリシャ救済策をドイツ国民がのめない結果になっていたらユーロはつぶれていた。その意味では『救った』と言える。一方でその後、ユーロ圏の債務共通化など機構改革を進める必要があった。豊かな北部欧州から南部への財政移転を後押ししないと同様の危機は回避できないし、加盟国の国民間の格差意識はなくならない。でもメルケル氏は欧州ではなく中ロを重視し続けました」

――どういう弊害があったのでしょうか。
「『ブリュッセル(EU)が悪い』という議論の広がりに歯止めをかけられませんでした。英国のEU離脱をめぐる国民投票(ブレグジット)が典型例です。EUからの分配金でのメリットが実際は大きくても、市民レベルではそう思えない。メルケル氏は欧州市民としての肯定的なアイデンティティーを打ち出し、機構改革の主導権を握る必要があった。EUの中核である独仏のうちマクロン仏大統領の方が積極的でした。メルケル氏は一緒に改革を進めようとしなかった」

――なぜでしょう。
「理念がないからでしょう。同じくドイツで16年間首相だったコールは欧州統合を大事にしました。ドイツ統一の父ですがドイツ第一主義ではない。EUとNATOをきちんと機能させることを優先し、対米関係も大事にしました」

――2011年の東日本大震災後のドイツの脱原発、難民危機の際の「受け入れ」表明に理念はなかったのですか。
「むしろ風見鶏的だったと私は思います。一般人の感覚には敏感でした。『難民の受け入れ』は、その後人数の抑制という変更を余儀なくされました。脱原発も、中期エネルギー計画などに基づいた判断ではありません。メルケル氏が率いるキリスト教民主同盟(CDU)は長年、産業・科学立国を掲げ、原発推進派でした。路線を転換するなら相応の計画と見通しを示す必要があったと思います」

――メルケル後にはどういう課題が残っていますか。
「21世紀の欧州の未来像を描くことだと思います。EU市民の共感を得続けるには、皆がわくわくするような夢が必要です。80~90年代の欧州は統一市場、統一通貨という考えの下、実験的な試みが次々となされました。冷戦終結からすでに30年。ドイツにも欧州にも、新しいビジョンが必要です」

参考「メルケル首相評伝

日本政治、改革の時代と改革疲れ

2021年11月13日   岡本全勝

11月2日の朝日新聞オピニオン欄「選挙戦が示したもの」、境家史郎・東大教授の「ネオ55年体制 立憲は変われるか」から。

・・・衆院選は「政権選択選挙」とされます。特に今回は、与野党一騎打ちの構図となった小選挙区が多くなったため、自民党と民主党の2大政党が張り合っていた頃の政治状況に戻ったとの高揚感が、野党陣営にみなぎっていたようです。
しかし有権者が今回示した民意は、政権与党の「勝ちすぎ」を嫌ったものではあっても、政権交代を求めるものではなかったと言えます。歴史的には、2大政党がしのぎを削る状態に進んでいるのではなく、「ネオ55年体制」と呼ぶべき政治状況が続いていると見ています・・・

・・・1990年代から2000年代にかけて、日本政治は「改革の時代」でした。国際環境の変化や、経済の悪化、災害の発生といった社会不安の高まりから、様々な面で旧体制の変革が模索された時代です。そうした時代や風潮の波に乗ったのが民主党で、改革路線を打ち出した小泉政権の後、旧態依然たるイメージの短命政権が続いたこともあり、09年に民主党政権が誕生しました。
ところが、小泉政権期の「改革疲れ」と民主党政権の挫折によって、改革競争は政治の焦点から外れていきました。代わりに浮上したのは、防衛政策や憲法改正といったイデオロギー的争点です。この対立軸上で自民党と社会党が対峙したのが55年体制期で、その意味からも、日本政治は「改革の時代」を経て、「ネオ55年体制」とも言うべき局面に入ったと言えると思います・・・

国政選挙で議論することと、個別政策の実行と

2021年11月5日   岡本全勝

10月27日の朝日新聞オピニオン欄「「選べ」といわれても」、成田悠輔・エール大学助教授の「「1票」、くめぬ複雑な民意」から。

・・・そして、国政選挙で議論すべきことと、個別政策に民意を反映していくことを区別すべきです。
例えば、党首討論で考えてみましょう。「コロナ禍で現金給付するなら、10万円なのか5万円なのか」などについて議論が白熱しました。あまりに細かい議論です。それは財源や手続き上の制約を踏まえて政治家と官僚が決めればいい。国政選挙では、各論の詳細な数字をめぐってやりとりする前に、日本社会の未来像を議論すべきでしょう。

日本は危機に直面しています。太平洋戦争中と同じくらいの速度で人口が減少し、無成長状態で海外との賃金・物価格差は広がるばかりで置いてけぼり。いわば「1億総貧困社会」に向かっている。
少子高齢化の解決は無理になったように見える今、ありえる方向性は限られます。機械化・自動化を通じて人間に頼らず生産性を高める、教育やデジタル化を通じて個人の生産性を高める、移民の受け入れを進めていく、あるいは貧しくても幸せでいられるよう人生観を変える。どの選択を重視するかで、リソースの配分は違うし、日本社会の雰囲気も異なります。

こうした議論は、今後50年くらいを見据えた大きな話で雲をつかむようだと思うかもしれません。しかし国政選挙は、そういう社会の全体像にこそ取り組んでほしい。
そして個別政策の設計や実行は、当事者性や専門性のある有志の個人を中心に、情報技術を活用したネットでの情報共有や議論で、素早くきめ細かに進めていく。台湾やフィンランドなどはそうした仕組みを取り入れています・・・