カテゴリーアーカイブ:政治の役割

過疎問題にみる産業政策

2026年5月25日   岡本全勝

東日本大震災の復興に携わってわかったことの一つに、人は産業となりわいがないと暮らしていけないということです。それは、商業などのサービスの必要と、働く場の必要です。その観点から見ると、かつての過疎対策は、少し視点がずれていました。
都会並みの道路や上下水道などの整備に力を入れました。それらも必要だったのですが、働く場のない、買い物の場のない所には、人は住み続けることができません。兼業農家か、近くの働く場所に通うか、それがないと農山村では集落は維持できません。行政サービスの充実も、働く場所があり、住民が住み続けることがあってのことです。

産業構造の変化は、農山村での生活を終わらせました。では、対策はあったのでしょうか。私は、日本の国土政策(過疎過密対策)には、大まかに言って、次のような選択肢があったと思います。
1 東京一極集中(+政令指定都市が生き残る)。これは地方分散政策を行わない場合の道筋ですが、現在の状況はこれに近くなっています。
2 全国各地の集落が存在し続ける。これまでの地方振興政策はこれを目指したようですが、無理なようです。
3 1と2の中間。全国で、県庁所在都市や中核的都市を生き残らせ、そこから遠い集落はここに集約する。

過疎対策の次に取られたのが、地域活性化政策です。その走りは、一村一品運動でしょう。全国各地で、地域を活性化する取り組みです。自治省・総務省も地方制度を所管するだけではすまなくなり(住民がいなくなると自治制度自体が不要になります)、取り組むようになりました。安倍政権でも、地方創生に取り組むことになりました。
地域おこしでは、いくつかの成功事例があるのですが、全国展開にはなっていません。移住も成功している例があるのですが、残念ながら地方の人口を増やす、あるいは減少を止めるほどではありません。
1を止める、2では難しいとなると、3が選択肢だと思います。そして、その肝は産業政策です。

利上げ臆病な日本

2026年5月11日   岡本全勝

4月20日の朝日新聞オピニオン欄、原真人・編集委員の「長引く戦争と経済危機 利上げ臆病な日本、持続可能な財政を」から。詳しくは記事を読んでいただくとして。
・・・持続可能な財政の大前提として、世界では税や社会保険料などの「国民負担」と、年金や医療、介護や子育てへの「社会保障給付」の水準のバランスをとろうと努めている。例えばフランスのように「高福祉高負担」の国もあれば、米国のような「低福祉低負担」の国もある。
日本はと言えば、社会保障を一定レベルに保ちつつ国民負担を低く抑える「中福祉低負担」路線を続けてきた。そんな都合が良すぎる政策を永遠に続けられる「魔法の杖」は存在しない。迫り来る世界的な危機の嵐を、この無責任な財政のままで乗り切れるはずがないと肝に銘じるべきだろう・・・

・・・巨大地震や感染症のパンデミックなど重大危機はいつでも起きうる。「Xデー」が来れば想定外の巨大支出を迫られるかもしれない。もし財政余力が乏しいままでその時を迎えたら、政府は十分に機能を果たせず、最も弱い立場の人々の生命や生活を守ることさえできなくなる恐れもある。
何より深刻なのは、将来の危機が懸念されているのに政権や与野党が手をこまねいていることだ。財政再建は有権者に不人気なテーマだが、国政に携わる者なら必ず挑まねばならない課題である。

先日、政府の経済財政諮問会議が世界的に著名な米国の経済学者2人を招いた。会議は高市政権が掲げる「責任ある積極財政」を理論的に支える立場で、メンバーに積極財政と金融緩和を志向する「リフレ派」が陣取っている。会議事務局は当初、高市政権が描いている路線に著名学者たちのお墨付きを得ようともくろんでいたようだ。国債の追加発行も辞さず、危機管理投資を増やし、経済成長によって税収を増やす。そんな「お手盛り」構想である。
ところが2人の学者が発したのは甘い構想への苦い忠告だった。
ブランシャール・マサチューセッツ工科大名誉教授は「危機管理投資は重要だが明確な財政的収益が見込めない。成長を押し上げるかもしれないし、そうでないかもしれない。それだけを根拠に国債を財源とすることを正当化できない」とクギを刺した。
ロゴフ・ハーバード大教授は政権への注文を聞かれ、「制度面で一つだけ選ぶとすれば中央銀行の独立性が尊重されること」と述べた。日銀に超金融緩和を継続させようと圧力をかけてきたリフレ派にとっては耳が痛い指摘だ。
泰斗たちの提言を待つまでもなく、財政をまともな水準に回復させることは今の日本にとって最大の、そして最低限の課題である・・・
参考「消費税ゼロ、経営者「反対」66%

「憲法を守れ」が行き着く先

2026年5月3日   岡本全勝

今日は憲法記念日です。で、それに関することを。
憲法は、国の最高法規であり、それは尊重されなければなりません。
第九十九条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と規定しています。

それはそうなのですが、日本国憲法の現状と国民の一部にある意識を考えると、憲法尊重の行きすぎは問題を生んでいます。明治憲法が「不磨の大典」であったように、昭和憲法も「神格化」されています。改正されないので、日本国憲法は世界で一番古い憲法になっています。

「憲法を守れ」を主張する人には、憲法改正を認めない人もいるようです。ところが、時代とともに状況変化します。例えば、前文にある次の文章は有名です。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
この条文は理想的で、素晴らしいものだと思います。しかし、2026年の現在に憲法を制定するなら、このような内容を規定するでしょうか。突然戦争を始めるロシアやアメリカ、軍備を増強し周辺地域を脅かす中国や北朝鮮。そのような国際環境の中で、「各国を信頼して軍隊を持ちません」というのは、国民の多くは納得しないでしょう。

「日本国憲法は他国に比べ条文が少なく、改正しなくても運用できる」という考えもあります。それは実態を反映しているのですが、それがあるべき姿でしょうか。社会保障制度や新しい人権(プライバシー権、知る権利、自己決定権、環境権など)は、1946年当時に比べ大きく変化しました。解釈で切り抜けるというのは、「憲法はなくても同じ」ということになります。
憲法の神格化は、憲法を機能させず解釈に頼り、憲法自体は神棚に飾っておくことになります。「憲法を守れ」という考えは、かえって憲法の価値をおとしめている結果になっていないでしょうか。

電力会社の監視、逃げ続ける国会

2026年4月3日   岡本全勝

3月17日の朝日新聞、石橋哲・元国会事故調調査統括補佐の「電力会社の監視、逃げ続ける国会」から。
・・・東京電力福島第一原発事故の翌年、国会事故調査委員会が報告書を公表した。国会主導の電力会社の監視などを提言したが、実現していない。事故調の調査統括補佐を務め、その後も教訓を共有する活動に取り組む石橋哲さんに、提言の狙いや事故の教訓を聞いた・・・

―事故調提言とは。
「報告書では、原発事故を『人災』と断定しました。背景には不透明な組織と制度、それを許容する法的枠組みがあり、組織の利益を最優先とするマインドセットがありました。そうした根本原因を解決するための取り組みとして出したのが、七つの提言です」

―事故調は電力会社の監視などを提言し、実施計画の策定も求めましたが、今もありません。
「実施計画がなければ、何がどこまで進んだのか評価ができません」
「新聞も、電力会社の監視といった提言が実現していない点については、ほとんど指摘してこなかったと思います」

―再稼働に向けた安全対策の審査を報じることは多いですが、電力会社の監視といった提言への意識は弱かったです。
「技術の話はすごく大事です。しかし、それだけではダメだということが、中部電力の件で明らかになったと思います」

―浜岡原発(静岡県)の審査で中部電が都合のよいデータを選び、想定する地震の揺れ(基準地震動)を過小評価した疑いがある問題ですね。
「国会は、提言のうち電力会社の監視など手間のかかることからは逃げつつ、特別委員会や諮問機関の設置といった簡単なことには取り組むことで、『やってる感』を出した。中部電は都合のよいデータを選んで提出し、都合の悪いものは出さなかった。双方が自らの都合を優先し、『つまみ食い』をしています」
「どんな判断過程を経て、審査に対応したのか。事故調の提言通り、電力会社の対応プロセスを監視していたら、『提出書類が整っていれば途中で何をしても問われない』という判断はしにくい。不都合なデータを除外する行為を、合理的な選択肢として採りにくかったはずです」

―提言から逃げている限り、問題を繰り返すということですね。
「福島の事故の教訓は、日本のガバナンスの失敗だと思います。いまも提言が実現できていないことがそれを象徴しています」

―石橋さんが考えるガバナンスとはどういうものでしょうか。
「必要だと思うのは、説明責任の強化というより、問いと『応答責任』が循環し続ける状態としてのガバナンスの確立です。説明責任が事後に理由を説明することに重点を置くとすれば、応答責任は、不確実な判断の過程そのものを次の問いに開き続けること。結果が整っていればよい、という発想が広がると制度は白紙委任に傾きます。その循環が福島の事故では断ち切られていた。中部電力の件も、国会と電力会社がともに循環しない構造の中にあったことを示していると考えます」

―提言が十分に生かされていない現状を変えるには、どうしたらいいのでしょう。
「民主主義は、市民が問いを発し、国会と議員がその問いに応答し続ける回路が作動してこそ維持されます。問い続ける主体としての市民と同時に、その問いに応答し続ける国会と議員側の責任も問われています」

日本型福祉の前提が崩れ、新しい社会のリスクも

2026年3月30日   岡本全勝

3月8日の朝日新聞「田中拓道・一橋大教授に聞く」「福祉のかたち、政治が向き合う時」から

・・・第2次世界大戦の後、欧州の多くの国で福祉政策をめぐる政党間の競争が起きた。労働者側に立つ左派と、経営者側に立つ右派のせめぎ合いのなかで生まれたのが「ケインズ主義的福祉国家」だ。雇用を確保するとともに、病気や老齢などに備える。働く人たちの不安を軽減することで、経済成長を支えた。
それに対して日本では、福祉をめぐる政党間の競争が見られなかった。革新勢力といわれた社会党が、主に安全保障や憲法を対抗軸にしたからだ。むしろ政権にある自民党が、国民を統合するために、福祉に目を向けてきたといえる。

70年代後半には大平正芳内閣が「日本型福祉社会」を唱えた。公的な福祉を小さく抑える内容で、家族や地域の助け合いに重きを置いた。企業による福利厚生も、公的福祉の不足を補った。
前提になっていたのが「男性稼ぎ主モデル」だ。男性は企業に職を得られれば、企業年金や家族手当などが期待できた。女性は家庭でケア労働に従事することが想定された。
公的福祉は小さかった日本だが、雇用政策はケインズ主義的な面があった。中小企業や自営業者を保護することで雇用を維持し、農村部では公共事業などで雇用を生んだ。雇用が福祉を代替したとも言える。

しかし90年代以降は「日本型福祉社会」の前提が崩れ始めた。バブル崩壊とグローバル化のなかで企業は余裕を失い、家族のかたちも多様になった。公共事業もムダが指摘され、削られていった。日本だけ特殊な環境にはいられなくなった。
新しい時代にあわせて福祉国家をどう再建していくか。大きな課題だったが、残念ながら政治の力はそこに向かわなかった。90年代は政治改革の時期と重なり、政党の離合集散に膨大なエネルギーがつぎ込まれたからだ・・・

・・・いま日本を含む世界が直面するのは、老齢や病気、失業などの「古い社会的リスク」だけではない。産業構造の変化により、不安定な雇用が増えた。家族のかたちも変わり、困難を抱えるひとり親世帯も多い。こうした「新しい社会的リスク」に対応し、就労や育児など現役世代の支援に力を入れなければならない。福祉の中身を変える必要がある。
とくに日本では就労教育や就労支援などの「積極的労働市場政策」と呼ばれる分野が遅れており、その支出はGDP比で欧州の半分程度だ。
医療や年金とその負担のあり方は、数十年にわたる制度に関わることで、政権与党が変わっても簡単に変更はできない。政争の具にすることなく、主要政党による合意が必要だ。一方で「新しい社会的リスク」への対応では、各党が競い合って政策を示してほしい。困難を抱える人たちの声を拾い上げるための回路づくりも求められている・・・