カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

消費税増税、3党合意の評価

昨日15日、消費税増税ついて、民主、自民、公明の3党が合意しました。今朝の新聞各紙が伝えているとおりです。その評価について。

日経新聞1面では、小竹洋之編集員が「合意、法案成立につなげ」と題して、次のように書いておられます。
・・複雑な思いが残る3党合意である。消費税増税の実施で足並みをそろえた点は評価するが、社会保障の抜本改革を先送りするのは看過できない。消費増税の合意を今国会での法案成立につなげ、社会保障改革の具体化も急がねばならない・・

朝日新聞1面では、曽我豪政治部長が「政権交代の回路崩壊」と題して、次のように書いておられます。
・・民主党がこの3年つづった政権交代の物語は、いったん終わった。決められない政治から抜けだそうとはした。だが自公両党との修正合意で払った代償はあまりに大きい。
思い出してほしい。2009年、民主党は「政権交代。」をうたい、最低保障年金制度を明記したマニフェスト(政権公約)は「国民との約束」とみえをきって民意を引きつけ、衆院選を制した。日本の政党政治が追い求めた政権交代のサイクル(回路)がやっと循環した。2大政党が公約を示して政権を競い、勝者はその実現度合いを次の衆院選で問い、敗者は対案と政権奪取にたる公約を磨く―だが民主党はそのサイクルを起動させるかなめの公約をかなぐり捨てたのだ・・

それぞれ詳しくは、本文をお読み下さい。なるほど、このような見方もあるのだと、考えました。一人は経済部、もう一人は政治部です。私ならどう書くか。そして、私にとっては旧知の2人の記者が、それぞれ1面の真ん中で、自説に基づいた評価を書いています。今朝は、別の感慨にもふけっていました。

委員会設置が生む無責任?

古くなりましたが、4月29日の日経新聞文化欄は、蓮見重彦元東大総長の「会議が多すぎはしまいか」でした。
・・実際、解決すべき問題が生じると、ほとんどの組織は、ほぼ例外なしに、特別な委員会を設置して審議を付託する。数ヶ月、ときには数年をかけたその審議が答申案としてまとまると、その委員会の設置を決定した会議でそれを改めて検討することになる。だが、合意の形成や問題の解決のために、何人もの人間が何時間も拘束されて議論せねばならぬものだろうか。そのための膨大な時間と労力の浪費を、誠実な努力だと勘違いするのはそろそろやめねばなるまい。会議は、いま、さまざまな組織の責任の放棄によって機能しているとしか思えぬからである。
・・「東日本大震災」という曖昧な語彙をその名称に含んだ委員会が、内閣府の「東日本大震災復興構想会議」や衆参両院の「東日本大震災復興特別委員会」をはじめ、それぞれの地方自治体や関係する学会などによっていくつも設置され、その総数は民間のものを加えればおそらく百は下るまいと思う。このときならぬ「復興」をめぐる委員会の増殖ははたして祝福すべきことか、それとも憂慮すべき事態なのか。
おそらく、「東日本大震災」の「復興」を議論するさまざまな「特別委員会」から、数えきれないほどの分厚い報告書が提出されるのだろうが、これはいささか不気味な事態ではなかろうか。考慮に値する提言を採用するべく報告書にくまなく目を通すことなど物理的にほぼ不可能だし、「大震災」からの「復興」を論じるのに「特別委員会」の設置がふさわしいことかどうかさえ、誰ひとりとして真剣に問おうとはしていないからでもある・・
個人のリーダーシップとやらもそうであるように、会議には会議の限界というものがある・・
詳しくは、原文をお読みください。

日本の移民対策

宮島喬御茶ノ水大学名誉教授が、東大出版会PR誌『UP』5月号に、「地方の時代と国際化」(連載「四半世紀の国際化、多文化化をみつめて」第4回)を書いておられます。先生は、日本での移民(定住外国人)問題について発言をしてこられました。
・・欧米でも移民の受け入れに地方の果たす役割は大きい。カナダでは・・ドイツでは・・イギリスも・・。
しかし同時に、受け入れの理念、政策、移民の権利や給付につき国が基本方針を示すのは当然で、たいていその主務官庁も決まっている。担当の大臣はメディアにも頻繁に登場し、国の方針を語る。だが、日本では国家の顔がよく見えない。訪れる外国人研究者から「移民の統合政策を担当するミニストリーはどこか」と尋ねられて、答えに困るのである・・

この問題については、「2009年11月15日の記事」で取り上げ、内閣府に定住外国人施策推進室が設置されたことを紹介しました。しかし、まだ世間での認知は薄く、先生の指摘のような状態が続いています。マスコミの政治部記者でも、何割が知っているでしょうか。
ここには、定住外国人(移民)にどう対応するかという方針の問題と、それを政治の課題として扱うかどうかという二つの問題があります。もちろん二つは関連しています。そして、課題を解決するためには政策をつくるだけでなく、それを所管する専門組織が重要です。「あまり受けない問題」は、とかく置き去りにされがちです。これを日本の中央政治と行政の「機能不全」というのは、言い過ぎでしょうか。
外国での事象には「移民」という言葉を使いながら、日本国内での事象には「移民」をあまり使わず、「定住外国人」と呼ぶことが多いのも、何かしら意図があるように思えます。

日本近代政治史

坂野潤治著『日本近代史』(ちくま新書、2012年)を読んでいます。書評でも取り上げられているので、読まれた方も多いでしょう。とにかく、おもしろいです。おもしろいと表現するだけでは十分ではありませんが、わかりやすく、そうだったのかと勉強になります。
1857年から1937年まで(年表では1842年から1937年まで)の政治史です。この間を、改革、革命、建設、運用、再編、危機(とそれに続く崩壊)の6段階に分けて、日本の政治の成功と混迷と失敗を説明しています。約100年の歩みを簡潔に整理すると、このようになるのですね。もちろん、大胆に切ることで、切り捨てられていることも多いですが、それは仕方ないです。
私も大学以来、日本の近現代史は勉強したつもりですが、これだけの視野から整理するのは、なかなかできないことです。細かいことを深く調べる研究は、たくさんありますが。

この本が示していることは、この間の歴史が、何人もの「登場人物」と「集団」が、各々の利害と思いで行動した結果であることです。明治維新も、決して単線的に成し遂げられたものではありません。学校で習う歴史や概説書は、結果としての出来事しか書いていませんが、この本では、参加者の意図がどのように実現したか、または失敗したかが書かれています。歴史が人の営みであること、「人間くささ」が良くわかるのです。
他にも、なるほどと思うことが、多いです、1900年以降、立法府(政党)と行政府(藩閥と官僚)の連立がなりたち、2大政党の交代が実現しなかったこと、それは第2次大戦後の自民党一党支配と似ていること、などなど。

著者は、2011年の日本をこの歴史に当てはめると、第二次大戦が終わって再出発した1945年ではなく、危機の時代から崩壊の時代に入る1937年(昭和12年)にいると位置づけています。昭和12年が、危機の時代から崩壊の時代への「区切り」であることは、本書をお読みください。
今後の日本(政治)が、60年前のように崩壊の道を歩むのか、あるいは再編(立て直し)に成功するのか。日本人とリーダーの力量が問われています。歴史に学ぶのか、歴史は繰り返されるのか・・・。
現在の日本政治の混迷を嘆いておられる人には、一読をお勧めします。明治維新は坂の上の雲を目指して一本道を進んだと思っておられる方、「維新」や「革命」を叫べば、日本が良くなると思っておられる方にも。さらには、原敬が大正デモクラシーの象徴だと思っておられる方にも。
ただし、新書で450ページ。また、この間の大きな出来事は知っているとの前提で書かれているので、決して易しくはありません。

衆議院選挙区割り違憲判決

3月31日の朝日新聞オピニオン欄は、衆議院選挙区の格差が2倍以上になっていて、最高裁判所が違憲状態にあるとの判決を出したこと、しかし国会は対応していないことを取り上げていました。長谷部恭男東大教授の発言から。
・・現状のまま衆議院の解散・総選挙があれば、最高裁が「違憲」と判断することも十分ありえます。
過去にも区割り規定が「違憲」とされたことはありましたが、「事情判決の法理」を用い、選挙は「有効」とされました。しかし、次はこの法理が使われると決めてかからないほうがいいと思います・・
事情判決とは行政処分が裁判で違法とされた場合、その処分を取り消すと著しく公益を損ねるとして、取り消し請求を棄却する判決のこと。これを選挙制度の訴訟にも「法理」という形で応用しました・・
注意してほしいのは、当時、衆議院は中選挙区だったという点。選挙区に多ければ5人の政治家がいて、複数の選挙区で選挙無効になれば、相当数の議員が失職し国政が滞る。それでは公益を損ねるという判断がありました。
いまの衆議院は小選挙区制。5、6か所の選挙区で選挙が無効になり、国会議員が失われても、国会の運営に大きな支障はない。事情判決の法理を使う理由はありません・・

なるほど、そのような立論、推論もあるのですね。詳しくは原文をお読みください。