19日の経済財政諮問会議に、「日本21世紀ビジョン」が提出されました(20日読売新聞が詳しく解説していました)。2030年の日本の目指すべき姿を、描いたものです。「避けるべき将来像」と対比して示されています。そこでは、開かれた文化創造国家、「時持ち」が楽しむ健康寿命80歳、などが提唱されています。
私は、このように日本の将来像を提示するのが、政治の責任であると思います。財政再建や行政改革は、その手段であって、政治の主要な目的ではありません。また、国際社会での日本のあり方とか、社会や文化のありようを示すべきで、経済ばかりを議論していてはだめです(拙著p295、p307)。
内容については、いろんな意見があるでしょうが、このようなことをもっと議論してほしいですね。政治家も、学者も、官僚も、マスコミも。これに比べたら、道路補助金とか義務教育補助金なんて、小さなテーマですよね。しょせん官僚は、与えられた職場でしか物事を考えませんから。こういう大きなテーマは、政治が考えることなのでしょうが。
「政治の役割」カテゴリーアーカイブ
行政-政治の役割
丸山真男著『政治の世界他十篇』
丸山真男著、松本礼二編注『政治の世界他十篇』(2014年、岩波文庫)を、読みました。丸山先生の『日本の思想』(1961年、岩波新書)、特にそこに収められた『「である」ことと「する」こと』は、読まれた方も多いでしょう。
丸山真男先生は、私が東大に入った頃は既に退官しておられましたが、法学部生にとっては「神様」であり、『現代政治の思想と行動』(未来社、新装版は2006年)は必読書でした。終戦直後に書かれた、戦前戦中の日本政治を鋭く分析した各論文を読んで、知的興奮を覚えました。今年は、先生の生誕100年だそうです。
今回の文庫本に収められたのは、政治学関係それも時事的なものでなく、政治学の特質や政治の特質を論じたものです。1947年(昭和22年、終戦から2年目)から1960年(昭和35年、日米安保闘争)までに書かれたものですが、今読んでも、古さを感じさせません。いくつか共感するか所を、紹介しましょう。
・・政治的認識が高度であるということは、その個人、あるいはその国民にとっての政治的な成熟の度合を示すバロメーターです・・それは政治的な場で、あるいは政治的な状況で行動する時に、そういう考え方が、いいかえれば、政治的な思考法というものが不足しておりますとどういうことになるかというと、自分のせっかくの意図や目的というものと著しく違った結果が出てくるわけであります。いわゆる政治的なリアリズムの不足、政治的な事象のリアルな認識についての訓練の不足がありますと、ある目的をもって行動しても、必ずしも結果はその通りにならない。つまり、意図とはなはだしく違った結果が出てくるということになりがちなのであります。
よくそういう場合に、自分たちの政治的な成熟度の不足を隠蔽するために、自分たちの意図と違った結果が出てきた時に、意識的に、あるいは無意識的になんらかのあるわるもの、あるいは敵の陰謀のせいでこういう結果になったというふうに説明する。また説明して自分で納得するということがよくあります。
つまり、ずるい敵に、あるいはずるい悪者にだまされたというのであります。しかしながら、ずるい敵にだまされたという泣き言は、少なくとも政治的な状況におきましては最悪な弁解なのであります。最も弁解にならない弁解であります。つまりそれは、自分が政治的に未成熟であったということの告白なのです・・p341。
この項、続く。
大久保利通の構想力。司馬遼太郎さん
司馬遼太郎著『明治国家のこと』(2015年、ちくま文庫)、「近代化の推進者 明治天皇」p291。
・・山崎正和 ところで西郷が西南戦争で死ぬと、大久保もすぐ暗殺されますね。維新後わずか10数年ですが、もし大久保がもう少し生きていたらというのは、つまらん空想ですかね。
司馬遼太郎 大久保が生きていたら、山形のような小粒が、精神のいじけた天皇制国家をつくるようなことはなかったと思います。大久保は物事については、つねに普遍性を考える傾向があった人物ですから、こんな特殊な国はつくらなかったと思いますよ。同じ天皇という問題をとりあげても、統帥権による軍部の独走ということは許さなかったと、思いますね。
山崎 実は私はそれをいいたかったんです・・・
日本の保守主義、宇野先生の論考
月刊『中央公論』1月号に、宇野重規・東大教授が、「日本の保守主義、その「本流」はどこにあるか」を書いておられます。
・・現代は、「保守主義者」が溢れている時代である。それでは、そのような保守主義者たちは、いったい何を「保守」しようとしているのか。日本の歴史や文化、国家観といったものから、自然環境や国土、家族や共同体、さらには人間の生き方や組織のあり方まで、その内容は実に幅広い。
とはいえ、その中身を深く検討すれば、多くの保守主義者たちの間で、実はほとんど共有するものがないことがわかるだろう・・
として、エドマンド・バークの保守主義(イギリスが歴史の中で作り上げてきた自由を守るための反フランス革命)、明治維新期の保守主義、明治憲法下での保守主義(伊藤博文ほか)、戦後の保守主義(吉田茂ほか)、大平正芳首相の試みなどから、日本の保守主義を解説しておられます(合計14ページ)。一読をお勧めします。
日本ではいつの頃からか、新しいことはよいことで、古いことは「古めかしい」と否定的な評価を受けるようになりました。これは、畳と女房に限らず、新車も鮮魚も新築住宅もです。明治以来政治的にも、「進歩」や「改革」が価値を持ち、「保守」や「伝統」を名乗る政党や新聞社はあまり見かけません。政党や政治家さらにはマスコミが訴える政策も「大胆な改革」であり、「保守」「守旧」といった単語を見ることはありません。
政治や言論の世界で「保守」が成り立つためには、2つの要素が必要でしょう。1つは、対立する勢力・理論として「革新」があること。もう一つは、守るべき「伝統」「価値」を明らかにすることです。
戦後日本では、革新を名乗る党派が社会主義や共産革命を目指し、挫折しつつも、その旗を降ろしませんでした。他方で、軍国主義復活を訴える勢力は、敗戦を経験した国民に支持を受けることはできませんでした。そして、自民党が革新勢力に対する「保守」という位置づけにありながら、改革を進めてきました。「革命」と「改革」のシンボル争い、あるいは路線争いにおいて、保守による「改革」が国民の支持を得たのです。
現在日本において、「保守主義」の対立語は、何でしょうか。ほぼすべての政治家や政党が改革を標榜する中で、そして自民党が改革を主導する中で「保守主義」が成り立つためには、それに対立する「××主義」が必要なのです。これは、政党だけでなく、言論界・マスコミの責任でもあります。
もう一つの守るべき「伝統」も、あいまいです。論者によって異なるのでしょうが、共通理解がないようです。これは、改革側が何を破壊するのかを明確にしないので、守る側も何を保守するかが曖昧になるのでしょう。また、保守主義の位置に立つ自民党や議員が改革を主張する、しかもしばしば「聖域なき改革」を掲げていることも、混乱を招きます。
主要政党がすべて「改革」を掲げる中で差別化を試みるなら、「急進的改革」か「漸進的改革」しかないでしょう。もちろん、特定分野(利益集団)については「守り」、それ以外の分野では「改革」という、利益や社会集団による差別化があります。
国民の多くが、主義や思想より、現世利益・豊かさや便利さを重視する現代日本社会にあっては、生活の安定という「伝統」と経済発展や便利さという「改革」が、同居しています。また、お正月の初詣、お葬式といった生活慣習において、伝統様式と伝統的精神を守っています。政党やマスコミの議論を横目に、国民は日常の生活において、保守と改革を使い分けているのでしょう。
国民にとって、路線争いよりも日々の生活が重要です。これは現代日本に限ったことではないですが。経済がそこそこ良好で、社会が安定し、それなりに幸せなら、主義主張の対立は興味を呼びません。路線対立が先鋭化するのは、その社会の危機(革命時)や社会内の亀裂が大きくなった時でしょう。そう考えれば、現在の日本の政治や言論界で路線対立が盛り上がらないことは、よいことなのかもしれません(同号では、「論壇は何を論じてきたか」という鼎談も載っています)。
この問題は、このような短い記述では議論しにくいことであることを承知で、書いてみました。宇野先生の論文を読まれることをお薦めします。すみません、本屋には、もう2月号が並んでいます。