朝日新聞オピニオン欄4月1日、ピエール・ロザンヴァロン氏(フランスの大学教授、民主主義研究)のインタビュー「熟議できない議会。代表制民主主義に松葉杖が必要だ」から(すみません、1か月以上も前の記事です)。
「民主主義というと、すぐに選挙や議会のことを思い浮かべがちですが」という問に。
・・当時(フランス革命)のフランスは、すでに2500万の人口を擁する大国でした。だから実質的な理由で、代表制のシステムを採用した。大きな国では不可能な直接民主制を技術的に代替する仕組みとしてです。
ただ同時に、代表制の選択には、こんな考えもありました。人民自身は学がない、だから代表する者たちは、他の人と違ってすぐれた者たちでなければ―
代表制の中には、二つが入り交じっていました。つまり代表する者は、代表される者たちと同じようでなければならない、縮図であるべきだという同等の原則。それと、代表する者たちは教育があり賢くなければならない、いわば特別な人たちという貴族制的な意味を帯びた相違の原則。代表制の歴史は、この二つの間で揺れ続けました・・
「それでもそれなりに機能してきたはずですが、近年、うまくいかなくなっているようです」という問いかけに。
・・・政党が変わったのです。代表制は、政党が社会を代表する役割を担っているときはうまくいった。欧州だと、労働者の党、上流階級の党、商店主たちの党などがあり、人々はこれらの政党に代表されていると感じていました。
ところが、20年ほど前から、政党が社会を代表しなくなった。理由は二つ。まず社会がより複雑になって代表できなくなった。たとえば社会の個人化。階層や社会集団によって構成されているときは、代表制はより簡単でした。
それだけではない。政党が代表するのではなく、統治する機関になったからでもあります。
議会がその本質を変えてしまいました。歴史的には、熟議の場所、社会の声を聴かせる場所のはずでした。ところが今日、そこは政府への支持か反対かが演じられる場所になった。もはや大問題について議論する場所ではない。
政党と社会の関係が、逆転したかのようです。政党は今、政府に対して社会を代表するより、社会に対して政府を代表しています。与党は、社会に向かってどうして支持しなければならないかを説明し、野党はどうして批判しなければならないかを説明します。だから、社会には代表されていないという感覚が生まれました・・・
ごく一部を抜粋しました。原文をお読みください。
「政治の役割」カテゴリーアーカイブ
行政-政治の役割
アジア人の日本像、太平洋戦争。司馬遼太郎さん
司馬遼太郎著『幕末維新のこと』(2015年、筑摩書房)「人間の魅力」p295~。
昭和初年から太平洋戦争の終了までの日本は、ながい日本史のなかで、過去とは不連続な、異端な時代だったこと。すなわち、統帥権の無限性と帷幄上奏権という憲法解釈が、日本国をほろぼしただけでなく、他国に対して深刻な罪禍のこしたことを述べて、次のように書いておられます。
・・・要は昭和の戦争の時代は日本ではなかった―幾分の苛立ちと理不尽さを込めて―私はそう感じ続けてきました。
もっとも、この考え方は他のアジア人には通じにくいですな。かれらにとって太平洋戦争の時代の日本が日本像のすべてで、兼好法師や世阿弥や宗祇の時代の日本や、芭蕉や蕪村、あるいは荻生徂徠の時代の日本、もしくは吉田松陰という青年が生死(いきしに)した時代の日本など思ってはくれません。くだって日露戦争の時代の日本像ぐらいを参考材料として日本を見てくれればありがたいのですが、他の国の人にそんな押しつけをするわけにはいきませんしね・・・
日本の節目
憲法論議
憲法記念日なので、憲法の話を。憲法改正議論が盛んになりました。国会・政党で議論されているほか、新聞各紙も特集を組んでいます。
それぞれの議論には立ち入りませんが、このような議論ができるようになったことを喜びましょう。「押しつけ憲法だから改憲する」とか、「絶対守らなければならないので改憲しない」では、建設的な議論はできません。どちらにしても、憲法が国民のために作られた「道具の一つ」であることを、忘れています(拙著「新地方自治入門」p228)。
その点で、4月29日の朝日新聞「憲法総点検」(上)は、わかりやすかったです。憲法は「公権力を縛って、国民の権利を守るもの」か「国家の目標を掲げ国民が従うべきルールを定めるもの」かという、憲法のそもそも論を解説していました(拙著p305「憲法を支える意識」)。5月1日の(下)では、行政権を「政治的な意思決定である執政」と「官僚によるその実行」に分ける議論を紹介していました(拙著p272「行政と統治の関係」)。
日本経済新聞「経済教室」の「憲法」連載(4月26日~29日)も、読み応えありました。長谷部恭男先生の「憲法の前提となる国家像を考える必要がある」(私の言う「この国のかたち」)「冷戦が終わり、子供から老人まで日常的に動員する必要がなくなった国家は福祉国家をやめ、広範な領域で撤退を始めた」、中西寛先生の「グローバル化に日本として対応できる制度設計」「国民参加による決定」などです。大学では、現行憲法の解釈ばかり習ってきたと記憶しますが、このような議論は面白いですね。十分紹介できないので、原文をお読みください。
憲法と地方自治との関係については、先日、地方行政4に書きました。
大東亜共栄圏、司馬遼太郎さん
司馬遼太郎著『明治国家のこと』「日本人の二十世紀」p321~。
・・・さきに、第一次大戦によって陸海軍が石油で動くようになってから、日本の陸海軍そのものが半ば以上虚構になった、という意味のことを言いました。
むろん、そのことは、陸軍も海軍も、だまっていた。やがて昭和になってから、陸軍が、石油もないのに旺盛な対外行動をおこす。それが累積して歴代内閣が処理できないほどの大事態になり、事態だけが独り走りする。ついにアメリカをひき出してしまう。
それで、日本は戦争構想を樹てる。何よりも石油です。勝つための作戦よりも、まず一路走って石油の産地をおさえる。古今、こういう戦争があったでしょうか・・・
・・・南方進出作戦―大東亜戦争の作戦構想―の真の目的は、戦争継続のために不可欠な石油を得るためでした。蘭領インドネシアのボルネオやスマトラなどの油田をおさえることにありました。
その油田地帯にコンパスの芯をすえて円をえがけば、広大な作戦圏になる。たとえばフィリピンにはアメリカの要塞があるから、産油地を守るためにそこを攻撃する。むろん、英国の軍港のシンガポールも、またその周辺にあるニューギニアやジャワもおさえねばならず、サイパンにも兵隊を送る。
それらを総称して、大東亜共栄圏ととなえました。日本史上、ただ一度だけ打ち上げた世界構想でした。多分に幻想であるだけに―リアリズムが希薄なだけに―華麗でもあり、人を酔わせるものがありました・・・
・・・ともかくも開戦のとき、後世、日本の子孫が人類に対して十字架を背負うことになる深刻な思慮などはありませんでした。昭和初年以来の非現実は、ここに極まったのです。
地域への迷惑も、子孫へのつけもなにも考えず、ただひたすらに目の前の油だけが目的でした。そこらから付属してくる種々の大問題は少しも考えませんでした・・・