「政治の役割」カテゴリーアーカイブ

行政-政治の役割

渡邉雅子著『論理的思考とは何か』2

渡邉雅子著『論理的思考とは何か』の続きです。
91ページ以降に、「ディセルタシオンの誕生ー市民の論理と思考法」が書かれています。これは、日本の作文教育、学校教育だけでなく、法学部での教育と比較して、深く考えさせられます。

・・・ディセルタシオンは、自律して考え判断できるフランス市民(国民)育成のために18世紀末に起こったフランス革命後、100年余りの試行錯誤の中から創られた。フランス革命は人権宣言を理念的な柱とし、法の下の平等、人民による人民のための政治を宣言して「政治的主体としての市民(国民)」を誕生させた。これ以降、フランスは統治者である国民の育成という大事業に取り組むことになる。そのため公教育の目的は、憲法をも真理として扱わず事実として教え、完成している法律の称賛ではなく、「この法律を評価したり、訂正したりする能力を人々に附与すること」を求めることとした。近代の学校が国家を支える労働者と国家防衛のための兵士の育成を第一の目的としたのに対し、フランスはフランス革命の理念の実現を公教育の第一の目的にしたのである・・・

・・・実際にディセルタシオンの登場によって「暗記と模倣」が中心だった伝統的な教育は、生徒自らが構想し批評する教育へと大きく変化した・・・
・・・こうした歴史に照らしてディセルタシオンの構造を見ると、政治領域には欠かせない「既存の法律を評価したり訂正したりする能力」を育成し、「自立的に考え破断すること」「批判的にものを見ること」が論文構造に否応なく組み込まれていることが確認できる・・・
参考「できあがったものか、つくるものか

政権に入らない野党の打算

4月4日の日経新聞経済教室は、境家史郎・東京大学教授の「少数与党下の政策、問われる有権者の判断力」でした。

・・・なぜ少数内閣が存在するかという問題は、なぜ閣僚ポストと一定の政策実現を約束されるにもかかわらず政権入りを拒む政党があるのか、という問題と言い換えることもできる。ノルウェー出身の政治学者カーレ・ストロムによれば、これは政党がより長期的な視点から得失計算すると仮定することで理解できる。
政権入りに現時点で一定の利益があるとしても、次の選挙で政権運営全体の責任を問われるリスクを負う。このリスクが大きいと判断する政党は容易に政権入りに応じない。国民民主党や日本維新の会が閣内協力を否定するのはそのためで、不人気の自民党と一蓮托生になりたくないのである。
以上の議論は、裏返せば現野党の連合による政権交代が実現していないことの説明にもなる。国民民主党や維新の会にとって立憲民主党と組むことは、自民党と組むこと以上にリスキーと見られているのである・・・

・・・この点で参考になるのがオランダ出身の政治学者アレンド・レイプハルトの、多数決型民主主義とコンセンサス型民主主義を対置する議論である。多数決型とは英国のように過半数議席を得た単独政党に権力を集中させるタイプを指す。コンセンサス型は欧州大陸諸国に見られるように、統治への幅広い参加や政策への広範な合意が目指される。
伝統的に政治学では多数決型、すなわち英国式の二大政党制を理想視する向きが強かった。しかしレイプハルトの分析によると、実際には様々な経済指標でコンセンサス型は多数決型と同等以上の結果を出している。またコンセンサス型では相対的に汚職が少なく、選挙の投票率が高く、国民の民主主義への満足度も高いといった傾向がある。

この議論を踏まえると今回、自公政権がコンセンサス型の政権運営を強いられることになったこと自体を悲観する必要はない。「103万円の壁」にせよ、高校授業料無償化にせよ、これまで政権内に異論の強かった、もしくは関心を持たれにくかった政策争点が野党の影響を受け、この半年間に動き始めている。
夫婦別姓やガソリン暫定税率の議論も進むかもしれない。個別の政策への賛否は様々あるとしても、長らく惰性で続けられてきた政策が変化する可能性が高まったのは多くの有権者の期待するところだろう。

ただし、レイプハルトはあくまで国際的な「傾向」を示したにすぎない点にも留意しなければならない。多くの政党が政権入りせず影響力を発揮する政治のあり方には、やはり短所もある。ひとつの大きな懸念は政策決定の責任の所在が不明確になることである。
すでにこの半年に見られたように、財政全体に責任を負わない各野党が個別に多額の費用を要する政策実現を要求し、財政規律が緩みつつある。その結果、仮に今後インフレがさらに進むとしよう。そのときどの政党が責任を問われるのだろうか。少なくとも与野党は互いに責任をなすりつけ合うことになるだろう・・・

官僚による調整でなく議員間討論で

4月3日の日経新聞経済教室は、飯尾潤・政策研究大学院大学教授の「少数与党下の政策、議員間討論で妥協点探れ」でした。
・・・2024年の総選挙以来、石破茂内閣は衆院で過半数の議席を持たない少数与党政権となり、25年度予算案の修正協議など従前とは違う政策決定過程が展開している。これについて財政膨張の傾向や政策決定の不透明性に批判も根強い。
ただ、これらは政治家が全体像を考え、責任を持って統治する仕組みが不十分だという日本政治の問題点が表面化したもので根は深い。政治家の行動様式を変えることが必要なのだ。
日本で議会に提出された予算案が修正されることはまれだ。今回の修正協議では国民民主党、日本維新の会、立憲民主党の修正案に対して与党である自公両党がそれぞれ対応したが、財源を示さずに巨額の歳出増を必要とする修正案が主張されるなど財政健全性が心配される状況が生まれた。
また各党個別に修正協議が進行したために、どの修正案がどういう理由で選ばれたのかが分かりにくい状況も生まれた。直接的には国会での予算案修正のルールが未確立であることが原因であるが、より大きな原因は、政治家同士では具体的な政策を議論しにくい日本政治の構造にある。

法案や予算案は、事前審査制と呼ばれる手順を経て与党の議論を済ませ、細部に至るまで確定してから内閣から国会に提出されるのが、日本における通常の政策決定の枠組みである。
そこでは法案や具体的な予算項目を所轄する省庁の官僚が、予算案の場合は財務省の査定を、法案の場合は内閣法制局の審査を受ける。さらに必要な場合には他省庁と調整を行いつつ、与党議員を中心とする政治家への働きかけを行う。
自民党の政務調査会の部会など国会議員が政策を決める場においても、説明するのは官僚の役割で、反対する議員を議員会館などに出向いて説得するのも官僚である。国会議員は様々な意見を主張するが、例外的な場合を除き、同僚議員と議論して結論を出すとか、反対する議員を説得するということは行わない。
与党内部の調整のかなりの部分が官僚によって担われているのである。官僚はそうした調整過程で政府全体の調整も行い、予算や法律の整合性が確保される仕組みになっている。官邸主導と呼ばれた時期も、首相の権威を背景に官邸官僚が各省の官僚を使って調整を行っていたのであった・・・
・・・そうした状況で、国会において実質的な審議が行われ修正などが生じると、政策調整に不慣れな政治家が非合理な決定をしてしまう可能性がある。そこで事前審査制で細部まで具体的内容を詰めてから国会審議に臨み、衆参両院では原案のまま可決することが政策決定の基本となってきた。
そのとき野党議員は、日程調整など議会手続きを盾に反対している法案や予算案の採決時期を遅らせるという抵抗を行う。かつては野党の抵抗で法案などが審議未了・廃案という結末を迎えることもあったが、内容に踏み込まない抵抗だから許される面があった。

欧州の議院内閣制諸国でも内閣提出法案が議会審議の中核を占める。しかし事前審査制のような仕組みが発達しておらず、具体的な予算項目や法律の条文は議会の修正で最終決定される決定過程が通例である。
そうした場合、予算修正の限界についての共通了解や、修正案に対する内閣側の発言権などが確立しており、一定の枠内で議会の論議が進展する仕組みとなっている。多くの国で、議会において議員が政策の調整主体となる仕組みができているのである。
日本のように官僚が政策をまとめてくれるのであれば、政治家が責任を持って決定を主導する必要は少ない。国会においても質疑によって政府側の非を見つけるほかは、日程闘争が主たる活動となる。
今回のように予算案修正の必要が出たとき、政治家が好き放題の主張を述べて財政バランスがとれなくなるのは自然の成り行きである。議論をしているうちに共通了解が形成され、政治的妥協の結果として政策が決まる仕組みなしには、政治主導は実質化しない・・・

石破首相の掲げる「楽しい日本」

2月18日の日経新聞オピニオン欄に、小竹洋之・コメンテーターの「「楽しい日本」が突く本質 成長と幸福の追求両立を」が載っていました。石破首相が施政方針演説で掲げた「楽しい日本」に関してです。私は「楽しい日本」は、一つの目標としてよいことだと思います。問題は、首相になって唐突に掲げられたこと、具体的な道筋などが説明されていないことです。

・・・先の施政方針演説は、その延長線上にあったのだろう。明治維新後の「強い日本」、第2次大戦後の「豊かな日本」に続く「楽しい日本」を目指す――。作家で経済企画庁長官も務めた故堺屋太一氏の遺作「三度目の日本」に倣い、多様な価値観を持つ国民全てが輝ける国家づくりを唱えた。
「軽薄」「幼稚」「優先順位が違う」……。国内の評価は芳しくない。多くの人々が物価高にあえぐなかで、これからは「楽しい日本」だと胸を張られても、違和感を覚えるのはやむを得まい・・・

・・・国民の豊かさを示す1人当たりの名目GDPは、23年のドル換算で経済協力開発機構(OECD)加盟38カ国の22位にとどまり、主要7カ国(G7)では最低の水準に沈む。22年に韓国に抜かれただけでなく、24年には台湾にも追い越されていた可能性がある。
堺屋氏の遺志を継ぐ石破氏も、「強さ」と「豊かさ」が伴ってこその「楽しさ」だと言いたかったようにみえる。何より「失われた30年」と呼ばれる長期停滞から確実に脱却できなければ、国民の共感を得るのは難しかろう。
米誌フォーチュンがまとめた世界の主要企業500社の売上高番付をみると、日本企業は過去30年弱で約150社から約40社に減った。内閣府によれば、日本の非金融法人が抱える現預金残高のGDP比率は60%で、米国の17%やドイツの20%を大幅に上回る・・・
・・・成長が全てだと言いたいのではない。1人当たりのGDPが増えても、国民の幸福感が高まるとは限らない――。米経済学者のリチャード・イースタリン氏が1974年に唱えた「幸福のパラドックス(逆説)」は、成熟した今の先進国で一層重い意味を持つ。
さりとて安易な脱成長論や反成長論に傾くわけにもいくまい。衣食住を満たす最低限の経済基盤が侵食されたままで、幸福を感じるのが難しいのは、インフレ下の世界を見渡せばよくわかる。冒頭の漁師もそれは同じだろう。

日本で成長と幸福をどう両立させるのか。大企業がグローバルに勝ち抜く「強さ」。地方の主要拠点への集住やサービス業の活性化で実現するローカルな「豊かさ」。モノ消費からコト消費(観光、グルメ、エンタメなど)への移行で得る「楽しさ」。IGPIグループの冨山和彦会長が訴えるのは、3つの目標の同時追求だ。
戦後の日本は安全、安心、清潔、正確、平等を保証する「天国」を官僚主導で築き上げた一方、面白みや「3Y(欲、夢、やる気)」のない社会をもたらした――。堺屋氏の著書には、確かに考えさせられるところが多い。

「『楽しい日本』の本質は画一性を排し、多様性を引き出すという点に尽きる。石破氏が学ぶべき点もそこにあるのではないか」とニッセイ基礎研究所の小原一隆主任研究員は話す。個性を封じる日本型システムの諸改革は、成長にも幸福にも資するはずだ。
トランプ米大統領の高関税砲などで、世界経済の行く末が案じられる時に、悠長な議論に過ぎると切って捨てるのはたやすい。だが国力を強めつつ、国民のウェルビーイング(健康で満ち足りた状態)を高めるのは永続的な課題だ。「楽しい日本」の発想そのものを、葬り去ってしまうのは惜しい・・・

業界団体の反対で法案が出せない

2月15日の読売新聞に「個人情報保護法見直し IT業界団体 法案提出の壁 与党の事前審査 難航」が載っていました。

・・・違反事業者に対する課徴金制度などを盛り込んだ個人情報保護法改正案の今国会での提出が危ぶまれている。「業界団体が改正案に納得していない」として自民党の閣僚経験者が法案提出に強く反対しているためだ。個人情報保護委員会は今年に入って、業界団体の求める規制緩和策を追加で公表するなど、譲歩を引き出そうとギリギリの交渉を続けている。だが、そもそも業界団体が法案に対する完全な「拒否権」をもつことは健全なのか・・・

・・・「個情法改正案は『C法案』。今のところ国会提出の見通しは立っていない」。政府関係者はこう明かす。
C法案とは、各省が国会に提出しようと準備を進めていた法案のうち、提出予定リストから漏れた「検討中法案」の通称である。いったんC法案になっても、その後の巻き返しで提出に至ることもあるが、「3月半ばがタイムリミット。それ以上調整が長引けば難しい」と関係者はみる。
改正案がC法案に回されたのは、与党の事前審査が通らないためだ。個情法の場合、第一関門は自民党内閣第2部会とデジタル社会推進本部で、ここで承認されないとその先の政調審議会、総務会に進めない。この「入り口」にあたるデジタル社会推進本部の実力派議員が「業界団体が納得しない法案は出さない」と譲らなかったとされる。

個情法は付則で法施行から3年ごとの見直しが定められており、今回は一昨年から検討が始まった。こどもの個人情報や生体データ、AI開発に必要なデータの取り扱いなど、論点は多岐にわたる。昨夏には意見公募を経て改正方針の中間整理もまとめられたが、経団連、新経済連盟、日本IT連盟などが反対。このため個情委は検討会を設け、特に反対が強い課徴金と団体訴訟について議論してきた。
有識者と消費者団体は「指導や勧告が中心の現行制度では、違反行為を抑止できない」「海外では既に導入され、国内でも多くの法令で導入済み」「対象は悪質な違法行為で、まじめな企業は心配ない」と主張したが、業界団体は「現行制度を有効活用すべきだ」「議論が尽くされていない」と反対し、結局、報告書には両論が併記された。

「報告書を読んでもらえれば、どちらに理があるかは分かるはず」。検討会に消費者代表として参加した情報通信消費者ネットワークの長田三紀氏は唇をかみ、「データ利活用は、消費者の事業者への信頼があって初めて進むもの。だが、いくら消費者が求めても、事業者が反対すると何も進まない」と悔しがる。
現在、党のデジタル政策の主導権を握るのはデジタル社会推進本部。その関心はデータ利活用に集中する。同本部が提言した「デジタル・ニッポン2024」作成のためヒアリングした対象も、経団連、新経連、IT連などの業界団体や企業ばかりだった。技術やサービスの複雑さもあり、同本部での発言権は一部議員に集中している。現状、事前審査を通すにはその議員の了解が必須で、議員が業界団体の意向を優先すれば、業界団体が法案の「拒否権」をもつ構図が生まれることになる。

だが、業界団体は日本経済全体の利益を代弁しているのか。
実のところ、経団連傘下の企業でも、その主張を苦々しく思う企業は少なからず存在する。既に海外の規制に対応しているグローバル企業からは「今の緩い日本の規制では、うちのように法令順守にコストをかけているまじめな企業がバカを見る」(メーカー)との声が漏れる。
AI関係業界でも開発用データの収集を容易にする改正に期待が高まっていた。「AI開発の環境整備が遅れれば、世界との競争にも大きな影響が出る」。プライバシーテック協会の竹之内隆夫事務局長は懸念する・・・