カテゴリー別アーカイブ: 政と官

行政-政と官

官邸主導の成否

安倍政権になって、官邸主導が議論になっています。首相補佐官の拡充と活用、従来型官邸官僚人事の変更、会議など組織の創設です。国会でも、二重行政でないかという質問もありました。
新聞も、いくつか解説をしています。例えば、6日付け朝日新聞「三者三論」では「機能するか、日本版国家安保会議」を取り上げ、6日日経新聞夕刊「ニュースの理由」では「米国の官邸主導は流動的、政権で変わる経済司令塔」を解説していました。
省庁改革以降、政治主導の方法が模索される、その一つの試みと位置づけられるでしょう。従来型の官僚主導・各省分担制を改革する挑戦です。
どのように機能するかは、実際を見てみないと何とも言えません。組織を作っただけでは、結果は出ません。ポイントは、「組織をどう作るか」「どのような任務を分担させるか」「どのような人を任命するか」「競合する組織の間をどう調整するか」などです。すなわち、組織・任務・人事・調整が重要です。私は、この中でも、任務と調整が鍵を握ると考えています。それはすぐれて、首相がどのような任務を与えどのような結果を求めるのか=方向性の指示と、組織間(補佐官と大臣との間など)の競合や対立を首相がどう裁くかです。これは、首相しかできないのです。それが政治主導です。組織の設置と人の配置は、その手段です。

内閣府の紹介

「内閣府アイ」という、内閣府の広報誌があります。最新号に「骨太の方針6年を振り返る」と「歳出・歳入一体改革の5つのポイント」という、わかりやすい記事が載っています。
また、2006年冬号本文2のp11以降に、内閣府組織5年間の歩みと年表が載っています。内閣府を理解するのに、役立つ資料です。(8月23日)
25日の日経新聞経済教室は、五百旗頭真防大校長の「今こそ小さく強い政府を」「民充実が国家目標、国際的役割の拡充も追求」でした。
25日の読売新聞は、6月から始まった駐車違反取り締まりの民間委託を検証していました。取り締まりという業務を民間に委託したこととともに、違反しても見逃される=法律が無力になることを防止すること(拙著「新地方自治入門」240)に、私は関心を持って見ています。(8月26日)
27日の朝日新聞「新戦略を求めて、グローバル化と日本」は、大きく自由貿易を取り上げていました。日本の通商戦略として自由貿易協定(FTA)、経済連携協定(EPA)を広げるべきだという意見と、安い農産物が入ってくることに反対する農林関係者との対立で、前に進まない構図が解説されています。自由貿易にもっとも恩恵を受けているのは日本です。また、戦略的に進めないと、置いてきぼりを食らうだけでなく、各国からの日本政治への信頼を失うでしょう。対立する利害を調整すること、これが政治の仕事なのです。官僚機構に任せても、結論は出ません。(8月27日)
29日の読売新聞「ポスト小泉を考える」は、政策決定システムについてで、御厨貴教授と大田弘子教授が書いておられました。
御厨氏は「この政権は、改革という名の下に、日本社会を大きく変えた。20世紀の遺産を破壊し尽くした感さえある。道路公団民営化だの、金融改革だの、郵政民営化だの、個々の政策の成果について議論してみても始まらない。小泉政権は、そもそもの政治や外交や経済の土台になっている社会を明らかに変えたからだ」
「それは政治や経済の改革そのものではなく、改革の手段において小泉政権が破壊的だったことを意味する。これで20世紀の日本の特質だったネマワシ談合社会は回復不可能のダメージを負った。それは政府・与党の政策決定システムの枠を越え、大衆を巻き込んだ意思決定でもあった」
「だが、小泉流意思決定が社会の質を劣化させた側面を見逃すわけにはいかない・・ビジョンとか中長期計画とか、将来を見据えた思考が置き去りにされてしまった」
大田教授は、経済財政諮問会議を取り上げ、政策決定システムの透明度が高まったこと、内閣の方針が明確に示されるようになったことなどを指摘しておられます。(8月29日)
2日の朝日新聞が、環境省の水俣病懇談会提言(1日発表)のいきさつを解説していました。
「草案作りが始まって2か月。『基準に触れた提言は受け取れない』とする環境省に対し、『玉砕』を唱える委員も出るなど、両者の対立は先鋭化していた」
「環境省は『補償、救済についての提言は求めていない』と過去の政府の対応についてのみ提言するように繰り返し求めた。言うことをきかない委員には『環境相の要請を引き受けたのだから、省の指示に従う義務がある』と言い放った。同省幹部は言う。『懇談会は、行政のやりたいことを推進するためのガソリンだ。我々と違う方向へ進もうとするなら、ブロックするしかない」
この懇談会は、法令に定められた審議会でなく、いわゆる行政運営上の懇談会です。審議会であっても懇談会であっても、省に置かれた組織ですから、省の意向に沿うべきであるという発言は、間違っていません。
一方、審議会など外部の人を集めるのは、広く専門家や有識者の意見を聞くためです。省の意向を表明するだけなら、外部の人の意見を聞く必要はありません。それは、「隠れ蓑」と批判されていました。
審議会とは、第三者が入って、省とは離れて「中立公平な結論が出る」と誤解しておられる方が多いので、このような事例は実態をあからさまにする良い事例だと思って紹介します。正確には、懇談会設置要項に「これ以上は提言するな」と委託した趣旨が明確になっているか、また新聞に書かれたような委員と省側の意見の相違が、議事録にどう残っているかです。まだそこまでは、調べていません。(9月2日)
5日の日本経済新聞「春秋」は、国の訴訟敗訴についてでした。
「このところ公害や薬害の裁判で国が負け続けている。肝炎、基地騒音、原爆症、水俣病、じん肺。政策判断を誤り、無策のまま放置して被害を広げ、被害の認定基準は合理性を欠く。こんな行政の責任を司法が厳密に判断すれば、当然、国に勝ち目はない」
「『役所は絶対間違わない』などという今どき誰も信じない官僚の無謬神話を守るために、これまでどれほどムダな訴訟費用を費やしてきたことか。国が被告になる裁判が増え、そこで国が負け続ける本当の理由を、お役人に考えさせるのが、政治家の大事な仕事なのだろう」(9月5日)
6日の日経新聞「総裁選私の注文、経済財政」は、香西泰さんの「堅実成長へ具体策競え」でした。
「問題はどういう考え方で、具体的にどうやって成長するかだ・・・過度な金融緩和や財政出動で操作した成長ではなく、技術進歩に支えられた堅実な成長力をどのように高めるか、しっかりと詰めた知恵を競い合ってほしい」
「世界市場の中で日本の堅実な成長力を示さないと尊敬されないし、信頼もされない。先進諸国を見渡しても、日本やドイツ、イタリアなど重厚長大な19世紀型の産業国家はいまひとつぱっとしない。先例を追いかけるキャッチアップ型ではないので難しいが、新しい産業政策が求められる」(9月6日)
貸金業制度の見直し案が、議論になっています。出資法の上限金利と利息制限法の間のグレーゾーン金利をなくす方向ですが、どの程度の移行期間を設けるかが議論になっているようです。私は詳しくは承知しないのですが、政と官の観点からは次の点が課題になります。
早く低い金利にそろえようというのが消費者保護、逆が業界保護と割り切れば、官庁(金融庁)がどちらの立場に立つ存在なのかという問題です。これまでは、官庁は業界保護が仕事でした。私は、金融庁は銀行保険会社保護の大蔵省銀行局から衣替えし、預金者保護の立場になったと解説しています。もっとも、今回はそう簡単ではないようです。
もう一つは、この案を金融庁が作り、自民党との調整で難航しているという過程です。官庁・大臣・党の関係の中で、誰が責任を持つかということです。(9月8日)
ここまで進んだ小泉改革」(2006年8月)の最新版が、官邸のHPに載っています。(9月12日)
15日の朝日新聞「検証・構造改革」は、斉藤惇・産業再生機構社長の「再生に公必要だった」です。金融機関から不良債権を買い取ったり、行き詰まった会社の再生に、政府が手を出したのです。官と民、政府と市場を考える際に、これまでにない手法でした。もちろん、金融危機という非常時のことですが。
私の「日本の行政」講義の中で、どう位置づけようかと、勉強中です。(9月16日)
17日の日経新聞「内外時評」は、塩谷喜雄論説委員の「官が使い捨てる有識者」でした。「近ごろ都にはやるのは、知者・賢者が集う『有識者懇談会』。審議会ほど枠組みがかっちりしていない代わりに、自由闊達、踏み込んだ議論が交わされるはず。が、近ごろ様子がおかしい。水俣病もグレーゾーン金利も、懇談会の議論はほぼ棚上げされた。反射的・断片的な言辞が飛び交う浅慮の時代に、見識は軽んじられるのか」
「有識者会議や有識者懇談会には、審議会と違う二つの際だった特徴がある。第一は、政府が手をつけかねて、長年にわたって積み残してきた難問中の難問をテーマとすること。第二は、その議論や報告の中身が、行政や政治の都合によって、時には見事なまでに軽視、無視、棚上げ、骨抜きにされることだ」
「自殺防止、公務員給与、水俣病の患者認定基準、皇室典範の改正・・。難題は軒並み有識者の議論に委ねるのが、霞ヶ関かいわいの流れになっている」「失点をきらう官僚にとっては始末に困る、リスクの大きい難題を、まずは有識者懇という場で粗ごなし。審議会と違って、大臣の諮問に答える答申でないから、役所はその結論に拘束されない。役所に不都合な結論に至らないようにしっかり誘導し、それでもだめなら無視。行政の思惑と一致する結論なら、官僚が政策の詳細を設計する。有識者の学問や見識を尊重するというより、官の独走というイメージをやわらげるために、識者の肩書きを持つ権威を活用する」
官僚の責任逃れ、隠れ蓑の実態を、鋭く指摘しておられます。(9月18日)
27日の読売新聞では、笹森春樹記者が「官邸主導、見えぬ実像」「内閣と与党、二元体制残る」を解説しておられました。
「小泉前首相は、郵政民営化などの改革課題に首相主導、官邸主導で取り組んだ・・・これに対し安倍首相は、チームとしての官邸主導を意識しているように映る。官邸機能の強化として、首相補佐官を定員いっぱいの5人に増やし、このうち4人を国会議員から起用した。首相補佐官の下で実務に当たる官僚も、参事官(課長級)以上は政治任用にするという。官邸主導をシステム化する試みと言える。そこから見えてくるのは、官僚主導の政策決定を否定し、政治の側が政策を主導していこうという姿勢だ」
「ただ、政と官の関係の中で政治主導への意思が明確な割には、与党との関係、すなわち政と政の関係の中で官邸主導が意識されているのかというと、必ずしも明らかでない」
詳しくは、原文をお読み下さい。(9月27日)
3日の日経新聞経済教室「政治の統治改革考」は、上山信一教授の「官業、民間に大政奉還を」でした。
「小泉改革は日本を経済危機から脱却させ、同時に官邸主導による政府のガバナンス再構築に先べんをつけた。新政権の課題は成熟期に入ったこの国のかたちを設計することだ。これまでの構造改革は企業再生が主眼だった。今後は、第一に官の構造改革、特に事業と資産の民間移譲、第二にこれから官に代わって地域の安全・安心・元気を支える受け皿となる非営利組織の育成、そして第三に今後はますます社会運営の一翼を担う企業の社会性の強化が、重要になる」
詳しくは原文をどうぞ。(10月3日)
4日の日経新聞経済教室は、鶴光太郎さんの「官の意欲高める工夫必要」「国民の信頼回復を、省庁再々編視野に入れよ」でした。
「バブル崩壊以降、失われた15年と称される大調整期を経て、日本の経済システムは大きく変容した。55年体制の崩壊、小選挙区制導入による族議員、派閥の弱体化など政治も大転換した」
「一方、90年代以降、不良債権、BSE、薬害エイズなどの問題に象徴される政府の失敗や責任回避の先送り策が白日の下にさらされ、霞ヶ関の中央官僚に対する国民の信頼が大きく損なわれ、官僚バッシングが強まった。したがって、官の改革の最重要テーマは、失われた国民との信頼関係をいかに取り戻すかになるはずだった・・・小泉政権を振り返ると・・・政府の失敗との反省に立ち、信頼回復を直接目指した改革だったかどうか疑問が残る」(10月4日)

長期推計の検証

5日の日経新聞「けいざい新景、キーデータ=政策3」は、医療費の長期推計を振り返っていました。2025年度の国民医療費が、どれくらいになるかの推計値です。1994年に見積もったときは、141兆円でした。それが、97年に見積もると104兆円になり、2000年では81兆円、05年には65兆円と下方修正されました。10年ほどの間に、半分以下になっています。
この間に、97年にはサラリーマンの負担を1割から2割に引き上げ、03年には3割に引き上げました。2000年には、介護保険も導入しました。予測値の減少は、このような改革によるものと考えられます。
一方、記事では、「そもそもの推計が過大であったのではないか」という見方も載せています。すなわち、将来の医療費を大きく見積もることで、国民に負担増の理解を得やすくしたのではないかという批判です。
いずれにしろ、その時々のニュースを報道するだけでなく、このような過去を振り返っての検証は、良い記事ですね。(5月7日)
6月30日の読売新聞論点は、村松岐夫教授の「政策自己評価」でした。これについての私の考えは、また別の日に述べましょう。(7月3日)
読売新聞の連載「教員採用の現場」の27日も、興味深かったです。単に事実を図表にしただけですが、大阪府の公立小学校教諭の年齢構成(ピラミッド)を男女に分けて示しています。
見ると、びっくりします。ピラミッドでもなく、提灯型でもなく、ハンマー型と言ったらいいのでしょうか。男子のピークは54歳、女子のピークは52歳です。そして、一番少ない=くびれているのが41歳です。そこから上は、提灯型です。ここまでで、年齢では約半分です。しかし、そこから下は細いままです。私は、これを極めていびつな年齢構成だと思います。皆さんは、どう思われますか。ぜひ、この図を見てください。
子供たちの人数は、6年先まではほぼ予測できます。外国人が増えない限り、また転入者が多くならない限り、1歳の赤ちゃんが6年後に小学生になるのです。その子供は、6年後には中学生になり、3年後に高校生になります。私学と他府県への移動を除けば、学校の「お客さんの数」は、ほぼ予測できます。
それでも、こんな採用をしていたのです。でも、誰も責任を取らないのでしょうね。公務員=責任を取らない。教育委員会=住民に責任を負っていない、です。少し過激とは思いますが、問題を提起しておきます。反論をお待ちしています。
31日の朝日新聞社説は、市場化テストについて書いていました。市場化テスト、法律名は「公共サービス改革法」は、内閣府経済財政政策担当の所管なのです。もっとも、私の担当ではありませんが。簡単な解説は「公共サービス改革法の概要」をご覧ください。
地方団体では、指定管理者制度が進んでいます。官が行っている事務について、官と民とを競わせる・民と民とを競わせる点で、共通しているところがあります。もっとも、いろんな点で違っています。
このほか、規制改革も所管しています。官から民へは、「新地方自治入門」でも主要なテーマとして取り上げましたし、行政論でも取り上げています。勉強したいと思っていたので、よいチャンスをいただきました。二つの制度の比較など、追って勉強の成果を載せたいと思っています。(7月31日)
31日の日経新聞教育欄は、福井秀夫教授の「教育委員会制度見直し。学校改革主導、首長に権限」を載せていました。私が常々取り上げている、教育委員会制度の無責任状態(例えば「新地方自治入門」p71以下)を、わかりやすく解説しておられます
31日の毎日新聞は、BBC(英国放送協会)の改革論議を、取り上げていました。先月訪問してきたばかりです。写真を見て「あっ、この建物だった」。私は記念撮影が嫌いなので、写真はありませんが。
この記事では、文化・メディア・スポーツ担当大臣が、BBCをNHS(国民健康保険制度)と並ぶ、英国の公共的財産とたたえています。私も納得します。このような評価は、重要ですね。日本の評価は、お金ばかりですもの。
BBCは、10年ごとに特許状が更新されます。かつての東インド会社も、そのような仕組みでした。この仕組みは、定期的に評価にさらされます。よほどのことがない限り、つぶされることはないのでしょうが、更新してもらうためには、自らを評価し、新たな目標を掲げなければならないでしょう。政府も、評価をします。このあたりは、国によって行政の手法が違い、興味深いですね。
BBC改革に際しては、公共的価値とは何かが議論され、NHK改革の規制緩和という観点とは、違っているようです。イギリス政府が出した白書では、BBCの目的を「市民権・市民社会の維持」「教育・学習活動」「文化の創造活動」「英国や各地方の代表としての活動」「英国を世界に伝える」「デジタル・ブリテンの建設」を挙げているとのことです。
拙著「新地方自治入門」では、地域の財産という観点から、地域の価値や行政手法を広く論じました。そのような観点からは、今回もいろんなことを学びました。いずれ、まとめて、お知らせしたいと思っています。
私たちが勉強した、ウエッブサイトの充実や正確な報道についても、書かれていました。

政府論

14日の読売新聞「再点検小さな政府論。官民のありかを問う1」は、佐々木毅先生と山崎正和さんのインタビューでした。佐々木先生の主張は次のようなものです。
「『官から民へ』が民万能論や『民イコール善』という民性善説と混同されると、本来必要なルールの問題が見失われてしまう」「民が競争する市場にルールがなければ、悪貨が良貨を駆逐するということになりかねない。民に大きな自由を認める社会は、その分、法律や規則を細かく整備することをセットで考えるべきだ。ルールを作ったり監視をしたりするには結構人手もいるし、お金もかかる」
「官が公的な役割を独占した時代は終わり、日本は民も公の一部を担う社会にすでに移っている。官はこれまで『おれたちの言うことが公だ』と考えてきた。しかし、公は官民の区別を超えた、より上位の概念であるという考え方で物事をとらえなおした方がいい」(3月14日)
15日は佐和隆光京大教授とロバート・トムソン英ザ・タイムズ主筆による、市場主義の行き過ぎやサッチャリズムについてでした。17日は松原隆一郎東大教授と増田寛也岩手県知事による、公共分野を民間に委ねることの是非についてでした。(3月18日)
読売新聞「再点検小さな政府論。官民の在り方を問う」は、18日は桜井敬子教授と中村靖彦さんによる建築確認、食の安全問題という「安全に関する検査」についてでした。20日は、清成忠男教授、垣添忠生さん、戸塚洋二さんによる大学教育、先端医療、基礎研究といった「将来への投資」についてでした。(3月21日)
読売新聞の連載「時代の証言者」「国と地方、石原信雄」が、23回で完結しました。最終回の5日は、「地方に責任持たせる時代」でした。
「改めてこの国のかたちを考え込みます。特に気になるのは官僚のあり方です。振り返ると、たしかに、敗戦の中から国を再建して先進国になるまでの過程では、役人が輝きました・・・役人が輝いたのは、分担管理の原則を機能させ、各省が自分の責任を果たせば良かった時代だったからです」
「しかし、もうそれは通用しません。私が官邸にいた90年代前半、『主権国家としての日本』『国際社会の中での日本』が問われたのを境に、各省は連携して国全体で考えなければならなくなった。自分の省だけ走れば済んだ時代が終わったのです」
「これからの役人をどう考えればいいのでしょうか。大いに勉強させ、国際社会に生きる日本全体を考え、そのための政策立案能力をつけさせることです」
「地方との関係を考えれば、さらに変化します。国のあり方として、内政はもはや地方に責任を持たせるべきです・・・道州制に向けて分権を進めるなら、内政を担当する役人の大部分は地方公務員として活躍すべしと頭を切り換えなければなりません」
「政治家と幹部公務員には、これらを国の統治構造の問題として考えてほしいのです」
青山彰久記者、良い連載をありがとうございました。

国会と内閣

国会での質疑を聞いていて、新聞記者さんから「ああいう答弁しかできないのですか」と、聞かれる場合があります。
その一つが、犯罪に絡むものです。刑事事件にあっては法務省刑事局長、国税の脱税事案にあっては国税庁次長、選挙・政治資金違反にあっては選挙部長が呼ばれます。よくある答弁の型は、「個別事案についてはお答えできませんが、一般論としては・・」です。何度聞かれても、この答弁が繰り返されます。
既に起訴されたようなものであれば事実を答えられるのですが、捜査中であったり、まだ事件になっていないものについては、このような答弁しかできないのですよね。守秘義務があったり捜査に支障が出るので。特に選挙にあっては、総務省は形式審査(書類がつじつまが合っているかどうか)しかできず、捜査権はないのです。
もう一つは、選挙制度・政治資金制度のありかたについてです。選挙活動にはポスター・ビラなど、いくつもの決まりがあります。インターネットを使って良いかとかも、議論になっています。その際に、国会議員が、総務大臣や選挙部長に、選挙制度のあり方について質問することがあります。
たいがいの場合は、「国会議員の選挙に関することは、各党各会派でご議論いただき、結論を出していただきたい」としか、答えられません。
公職選挙法や政治資金規正法は総務省が所管になっていますが、これは他の法律と違って、総務省や内閣が一方的に改正して良いものではありません。なぜなら、国会議員の選出の方法を内閣が決めることは、三権分立から見て避けるべきと考えられるからです。総務省にあり方を聞くのは、国会議員が「内閣に私たちの選出方法を決めてくれ」と言っているようなものなのです。いくつか例外がありますが、選挙制度の改正は、議員立法で行われます。当然のことです。総務省がこれらの法律を所管しているというのは、その実施についてです。(3月1日)
7日の朝日新聞では松田京平記者が、「道州制なぜ必要」を解説していました。「道州制のもとでは、国と地方の役割分担はどう変わるのか。国の仕事は外交や安全保障などに限定される。補助金の配分や陳情受けは、官僚や国会議員の仕事から消える」。だからこそ、この改革に官僚は反対するでしょう。
「かわって都道府県よりも広い圏域をカバーする道州が、それぞれ税金を集め・・。ところが、今回の答申は、都道府県の再編に出発点を置いた・・。中央省庁の再編には触れてもいない」。その通りです。道州制は地方行政改革ではなく、国の改革なのです(このHPでも、「地方行政」に分類したり、「政と官」に分類したり、悩んでいます)。
日本経済新聞は、「分権のデザイン、知事アンケートから」を書いていました。ここでは、道州の区割りについて各知事の思惑が異なる点を強調していました。知事に区割りを任せれば、なかなかまとまらないでしょう。知事の意見を聞きつつも、国として線引きをするのが良いと思います。衆議院小選挙区の区割りも、有識者が地元の意見も聞きつつ審議会で案を作り、国会で決めています。どのように線引きするかも重要ですが、それに議論の重点を置けば、本質を見失います。反対派の思うつぼですね。
また、ある国会議員の意見です。「道州制になれば、参議院は各州代表にすればいいので、各県の一票の格差は問題なくなるね」
6日から、読売新聞「時代の証言者」は「国と地方」というテーマで、石原信雄元官房副長官のインタビューが始まりました。
「官邸にいた7年間、自分は何を問い続けていたのかと考えることがあります。この国のかたち、分権型国家の実現、内閣機能の強化、縦割り官僚支配構造の克服といってもいいかもしれません・・・」
1994年に村山内閣が、地方分権推進大綱を、各省の反対を抑えて決めたことについて、「多くの人には理解しにくいかもしれませんが、日本の内閣では事務次官会議で合意できない案件は閣議に上げないのが慣例でした。なのに次官会議を通過していないものを閣議で確認してしまったのです。地方分権という国のかたちにかかわる問題を、内閣主導で決めたわけです。私にとって、あのような閣議は初めての経験でした」(3月6日)
読売新聞「時代の証言者」、7日は「国と地方、石原信雄」2でした。「国のかたちを決めるのは、内閣であって、霞ヶ関の官僚ではありません」「『国のかたち』を考える時、中央と地方の関係が非常に重要です。今の分権改革の流れは、89年に発足した海部内閣のころに始まっていたと思います・・・。問われたのは官のあり方です。これが一方では規制改革の政策になり、もう一方では中央と地方の関係になって『地方にもっと権限を渡すべきだ』という改革になったのです。国の役割は何か、地方の役割は何かという問題です。国と地方のあり方とは、国家の統治機構そのものなのです」