今朝出勤して、メールを確認したら、国会班から「本日の国会待機は、解除です。お疲れ様でした」というメールが届いていました。それ自体は毎日のことなので、取り立てて言うことではありません。しかし、その発信時間が「3:36 AM」となると、尋常ではありません。
「どうしたの?」と聞いたら、今日の衆議院本会議での「特定秘密法案」質疑について、ある議員が、質問を朝の3時30分に提出したのだそうです。それまで、霞が関の全省庁の国会関係部局が、それを待って待機していたのでしょう。この法案ですから、復興庁は質問が当たりませんでした。当たった省庁は、それから答弁案を作ったのでしょうね。
じっと待っていた多くの職員、それからタクシーで帰った職員、帰らず泊まった職員・・。民主主義、政治主導、国権の最高機関などについて、考えさせられる事件です。
すみません、私は自宅の布団の中で熟睡していました。明日も、参議院本会議での法案質疑があります。職員は、今日は何時に解放されるのでしょうか。
「政と官」カテゴリーアーカイブ
行政-政と官
この四半世紀の日本の政治改革、その5
・・そのためには政党は普段から内部で徹底的に議論をし、組織の凝集性を高めていく努力が必要であるが、他の先進国と比べて日本の政党のそうした組織的努力はきわめて不十分である。
当然のことながら、他の社会的組織と比べてもその性格が曖昧であり、政治家たちの便宜を満たすための道具のようにしか見えないこともある。この組織的な弱体をトップリーダー個人への期待によって代替しようとする試みは、当然のことながら、政治の不安定と背中合わせである。さればといって、懐かしい不透明性の昔の世界に戻るわけにもいかない。その意味で「平成デモクラシー」はなお暫く真摯な自己改革を必要としている・・
いつもながら、視野の広いかつ切れ味のよい、佐々木先生の分析です。私は、「行政改革の現在位置~その進化と課題」(北海道大学公共政策大学院の年報『公共政策学』第5号、2011年3月。p37~)で、1990年代以降の行政改革を整理しました。この20年間に、様々なそして大きな行政改革が行われ、あわせて範囲と目的が広がってきたこと論じました。それらの改革がなぜ行われたか、その社会経済的背景を述べるとともに、それらを「小さな政府・財政再建」「官の役割変更・経済活性化」「ガバナンス改革」の3つに分類しました。行政改革が単なる組織や予算の削減にとどまらず、官の役割見直しや行政機構のガバナンス改革に広がっていることを指摘しました。
拙稿は、20年間の行政改革を対象としましたが、佐々木先生の論考は政治を対象としておられます。拙稿での分類の一つ「ガバナンス改革」が、政治改革との共通分野になります。
この四半世紀の日本の政治改革、その4
・・政治主導とその実態を形作るものが何かといえば、それは政党である。平成初めの政治改革のスローガンは「個人中心から政党中心へ」であった。つまり「平成デモクラシー」は、政党の改革と政治主導の充実に期待をかけてきた。確かにかつての派閥は事実上なくなったが、それに代わって政党があらゆる面で充実し、政治主導を任せられるものに成長したかといえば、自信を持って「イエス」と回答できる状況には必ずしもない。
日本では、政治主導と政治家主導とがしばしば混同される。政治家主導というのは察するに、政治家たちの発言力が―特に、官僚との関係で―強まることを素朴に肯定する態度である。多くの政治家たちはこの政治家主導を政治主導と取り違え、その結果、政党の内部は混乱し、政権運営は内側から崩壊しかねないことになる。つまり、政治主導と政治家主導は同じどころか、時には相矛盾する現実を意味するのであるが、そこが曖昧なままである。逆にいえば、政治主導は政治家に対する組織的な統制力なしにはあり得ないのであって、政治家たちがそれぞれ勝手なことをいうこととは両立しないのである・・
この四半世紀の日本の政治改革、その3
・・「平成デモクラシー」はこの顕教と密教との二重構造を、顕教優位の方向で一元化することを推し進めた。その意味でいえば、教科書に書いてあることに現実を近づけていく試みであった。密教体制というものにはとかく秘密性、隠匿性が付きまとい、「内部関係者」であるか否かが決定的に重要な意味を持つ。これを取り除くためには、権力行使をルール化し、透明性の高いものにしていかなければならない。そのためには、権力を塊としてとらえるのではなく、当事者間の関係としてとらえ直すことが含意されており、一方が他方に対して単純に指揮命令する関係から離陸することが必要になる。これまでの官僚制が権力も責任も全て一人で抱え込んでいたとすれば、それを他の主体と分担し、責任も軽減していく方向が出てくる。指揮命令関係としての統治(ガバメント)に代わって、ガバナンスという言葉が多用されるようになり、公共性の担い手の多元化が進むようになったのはその証である。そして行政と並んで司法が大きく登場したのは、その当然の帰結であった。
「平成デモクラシー」を特徴づける言葉を一つあげるとすれば、それは政治主導であろう。21世紀になってこの言葉がようやく流布するようになったことは、裏を返せば、「それまでの日本のデモクラシーは誰が運営していたのか」という質問を誘発するという意味で、いささか「やぶ蛇」ともいえる。それはともかくとして、「平成デモクラシー」は政治以外に主導すべき存在がないようにしようという前提で話を進めてきたのであるから、政治の成否は全て政治主導の実態にかかっている。実際、「誰が総理になっても同じ」ではなくなったし、政権も代わる可能性を常に視野に入れておくべきものとなった。官僚制に丸投げして済ますわけにはいかず、官僚制にも今さらそれを引き受ける用意はなくなった・・
この項、まだ続きます。
この四半世紀の日本の政治改革、その2
・・「平成デモクラシー」を特徴づけるものとして、先に透明性という言葉を持ち出した。これは単に政治がわかりやすくなったとか、メディアの役割が大きくなったとか、そういうことに止まるものではない。大げさにいえば、それは権力構造の大きな変化を伴っていたと考えられる。
かつて久野収と鶴見俊輔は顕教と密教という言葉を使って大日本帝国の権力構造を巧みに分析してみせたが、戦後の日本政治にもその手法はかなりの程度通用する。つまり、憲法に書かれている顕教によれば、日本は議会制であり、政党を基盤とした内閣が国会の信任を得て権力を行使するシステムを持っていたことになるが、実際のところは(密教によれば)憲法にその権限の規定のない役所に権力が集中し、個々の政治家や利益集団はその権力への接近を求めて日々角逐・競争に余念がないというのがその実態であった。単純化を恐れずにいえば、顕教によれば議会制であったが、密教によれば実は官主導であった。
ただし誤解のないようにいえば、この密教体制も議会制という顕教がなければ存続できない限りにおいて、この2つの側面は憲法体制の下にあって共生していたというべきである。政治家や政党の役割が重要でなかったわけではないが、権力のコアはあくまでも官僚制にあり、統治はそれによって実質的に担保されていたのである。多くの有権者も政治家よりは官僚により大きな信頼感を持ち、「政治家がダメでも、官僚がいるから大丈夫だ」という感覚で過ごしてきた・・
続く。