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行政-官僚論

公務員制度改革と政治の責任

13日の東京新聞「時代を読む」は、佐々木毅先生の「公務員制度改革は大丈夫か」でした。
・・「公務員制度改革に関する政府与党合意」を公務員制度改革に取り組む政治部門の決意表明と考えた場合、率直に言えば、危機感の乏しさが気になる。
第一に、新たな人事評価制度の構築による能力・実績主義の実現が今度の「合意」の大きな柱であるが、その実施主体について全く新しい発想がない。役所と人事院が、それぞれ適宜実施すべしとする以上のものが全く見あたらない。これでは、従来と何が変わるのかと思っても当然である。この改革がどれだけ膨大なエネルギーとコストを要するかについて、深刻に検討した痕跡が見あたらない。霞ヶ関には人事部に相当するものがないし、公務員改革は実施主体のデザイン抜きには現実味を持たないに違いない・・・
第二に、「世界に誇れる公務員」を創るといったレトリックは別にして、霞ヶ関の現状をどう評価するか、どのような処方箋を考えているのかについても、危機感が見あたらない・・われわれが耳にするのは、優秀な人材が相次いで流出し、若い優秀な人材がそもそも集まらなくなった組織というイメージである。その病は深刻である。
その結果、日本政府の国際競争力の劣化は急速に進行している。これは公務員叩きがあらゆるところで、どこまでも続くという社会環境からの当然の帰結である。
国民に代わって公務員を直接に雇い入れ、管理責任を負っているのは政治部門である。公務員制度が劣化するならば、政治部門が国民に説明責任を負わなければならないのは当然である。この筋道からすれば、政治部門が公務員を「叩いて」点数稼ぎをするというのは本来邪道である・・・
正確には、原文をお読み下さい。

公務員制度改革と政治の責任

佐々木毅教授「新人材バンク論争は空砲か?」(雑誌「公研」2007年4月号)から。
・・各省庁の押しつけ的斡旋を廃止することに反対する国民は少ないと思われるが、一元化すれば何が解決され、何が解決されずに残るのであろうか・・・このように、どこか焦点がずれるようなことになるのは、霞ヶ関の使用者がはっきりしないことにその淵源がある。公務員であるから国民が雇い主であるが、実際に誰が国民を代表して使用者としての責任を負うのかがはっきりしない。究極的には政府を代表する内閣がその任を負うはずであるが、内閣が省庁の上に載っているだけの存在である限り、内閣が使用者としての責任意識を持つことは期待できない。
・・使用者としての最終責任を負うのは、与党とそれが組織する内閣である。ところがこの使用者は見るべき人事政策を提唱し、それに従って被用者の人事管理を自ら行ったことはほとんどなかった。正確に言えば、それでもやってこられた・・
しかも、使用者と被用者が協力して国民に対して責任を果たすどころか、時には相手を批判することが仕事のような印象さえ与えている。国民に対して説明責任を果たすことを通して、被用者を政治的に弁護すべき立場にある使用者が、被用者を批判することで責任を果たしたかのように思いこんでいるとすれば、事態は深刻である。
誰も政治的に擁護しようとしない公的組織が衰弱し、見放され、相手にされなくなるのは、理の当然である。その意味では、霞ヶ関は政治的な危機にさらされ続けている。これで人材が集まったり、日本政府の国際競争力が高まるとすれば、奇跡であろう・・

官僚の転職

15日の日経新聞「成長を考える」は、「官僚再論」でした。若手官僚が、次々と転職していることを取り上げています。アメリカの大学院で、日本では「エリートとされる人材が役所に集中し、リスクを取らない日本に飛躍は期待できない」と指摘されたこと。政治が、強すぎた官僚をたたき、権力の新たな均衡を模索する動きが強まる中、官僚集団には閉塞感が漂うこと。
一方、制度そのものが国際競争にさらされ、国の成長力も左右される中で、誰が政府を担うのかが課題になっていること。そして日本でも、すでに金融庁の検査官、財務省理財局の国際アナリスト、FTAの細部を詰める際の弁護士など、専門家が必要となっていて、2006年には期限付き民間出身国家公務員は72人になっていること。政策提言をする研究機関などが増えてきていること、などが取り上げられています。

まだまだ研究が必要

さて、公務員の評価について思うところを、5日間にわたって書いてみました。公務員改革の数量と仕組みの課題は、官僚論6に整理しました。今回は、その続きと考えてください。
官僚制について書いた本はたくさんありますが、公務員の評価問題について書いた本は、案外見あたりません。「公務員人事の研究」(山中俊之著、東洋経済新報社、2006年)くらいでしょうか。数年前まで、日本の官僚は世界一優秀といわれていたので、問題とならなかったのでしょう。これは、日本企業の労働慣行も同じだと思います。これまで良く機能したが故に、問題意識が少なかった、そして方向転換にも難儀しているということでしょう。
しかし、日本の官庁は、民間企業とも違う仕組みです。さらに言うと、地方公共団体とも違う、独特の仕組みです。諸外国の公務員制度と、どこが違うか。それ以前に、日本の民間企業とどこが違うか、研究する必要があるようです。これまでは、官庁と企業の両方で人事を企画運用した人がいないので、その違いを分かる人がいなかったのかもしれません。また、官僚には、人事制度の企画・運用のプロがいません。学者の方は、自ら人事をしたことは少ないでしょうし。

今回も、大胆な割り切りで解説しました。私の勉強不足の点を、ご教示いただけるとありがたいです。

27日の読売新聞論陣論客は、「公務員の天下り規制」でした。丹羽宇一郎伊藤忠会長と、森田朗東大教授の主張が載っています。私は、お二人とも、故あって親しくしていただいています。このような商売をしているおかげですね。よって、今回は私の意見は差し控えます。もっとも、これまでに、私の意見は言っていますね(笑い)。
それぞれの方に、それぞれの意見や考え方がある。これが社会です。その意見を調整し、結論を導く。それが政治です。みんなの意見が一致しているとか、最初から結論があるのは、政治ではありません。また、みんなで得た結論が、将来振り返ってみて「正しい結論」であるとも限りません。これが、正しい真理がある自然科学と、「正しい」と関係者が考える結論を見いだす過程である政治との違いです。日本人は、どうも「正しい結論がある」「最後は水戸黄門さんが、結論を下してくれる」と思っているようです(外国がどうかは知りませんが)。

トップ・ダウン

もう一つ、これに関連する、役所での仕事の仕方の特徴があります。ボトム・アップです(私は、日本の官庁は必ずしもボトムアップで仕事をしているとは考えていませんが、そういう解説が多いので)。しかし、ボトム・アップ方式が機能を発揮するのは、目標や方向がはっきりしていて、それに沿って仕事が行われている時です。そもそも、組織の目標設定は上司、いいえそのまた上司の仕事です。そして、部下職員への仕事の割り当ても、上司の仕事です。それらは、トップ・ダウンで決めなければなりません。もちろん、部下の意見を聞くことがあっても良いですが、責任を持つのは管理職です。トップ・ダウンでないと、有効にできないと思います。不要な仕事の廃止、事業の方向転換も、トップ・ダウンでないとできません。