西浦進著『昭和戦争史の証言―日本陸軍終焉の真実』(2013年、日経ビジネス文庫)が、勉強になりました。
著者は、1901年生まれ、陸軍士官学校を優等で卒業した(恩賜の銀時計)、エリート軍人です。この方の特徴は、その勤めの大半を、陸軍省軍務局軍事課で過ごしたことです。陸軍大学校を卒業してから(昭和6年、29歳)、戦地へ転出する(昭和19年、42歳)までの間、海外駐在の3年間を除き10年間を軍事課で勤め、最後は課長になっておられます。
今で言うと、係長から課長補佐、そして課長を勤めたということでしょう。東条英機陸軍大臣の秘書官も勤めています。軍務局は陸軍省の中枢、そして軍事課はその軍務局の中枢でした。国防の大綱、軍備と軍政、予算を所管していました。550万人の軍人を動かすのです(人事は人事局で別の課が所管していました)。戦場で活躍するのでなく、事務において活躍されたという意味で、軍事官僚(軍人官僚)と、呼ばせてもらいます。
この本の元になった原稿は、昭和22年、戦後間もないころに書かれました。陸軍省の中枢、それも中の中から見た(単に幹部から見たという意味でなく)、実録であり反省記と言えます。
表題は、『昭和戦争史の証言―日本陸軍終焉の真実』となっていますが、私は、官僚にとっての勉強の書として読みました。軍事官僚の仕事ぶりが、わかります。
もちろん、時代背景や組織内の気風も大きく異なります。武官と文官を一緒にしてはいけないのでしょうが、その違いを超えて、政策と組織を管理することは、官僚(特に組織を動かす職にある官僚)として同じです。そのような視点から読むと、どのように仕事をしたかについて、とても参考になりました。
「日本陸軍」といっても、単体でそのようなモノがあるのではなく、人の集まりです。その人も、超人でもありません。私たちと同様に生身の人間が、教育と訓練を受け、組織の規則と慣習に従い、そして本人の志や欲望で、判断したことです。日本陸軍というと、私たちにとっては歴史の話であり、失敗ばかりを聞かせられます。でも、つい先日、私たちの先輩が行ったことなのです。
例えば、仕事ぶりについて書かれた文章を紹介します。筆者が赴任直後、満州事変勃発当時の記述です。
・・私は編成班の末席に入って、宇垣一成陸相の当時の立案にかかる軍備整理と、政府からの要請による行政整理の仕事を担任させられた。かたがた、最新参者として局長の副官的仕事、軍事課の庶務将校も兼ねた(注:今で言う行革と、局長秘書と、庶務係長でしょう)。
後年専門の庶務将校ができたが、当時は一人三役で、しかも事変勃発直後とて毎日課内はゴッタ返しの忙しさ、昼食ももちろん仕事をしながら事務室でやり、夜は帰宅は9時頃より早いことはなかった・・(p34。う~ん、現在の官僚は、国会時期になると夜12時は当たり前になっています)。
次回以降、いくつか興味深い記述を紹介しましょう。
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行政-官僚論
官僚の象徴、スリッパで仕事
8月23日の日経新聞連載「迫真、取引所大競争。スリッパ禁止令」から。
・・「官僚よりも官僚的だ」。東証の職員はこれまで、霞が関の役人からも、こう冷やかされてきた。国内では断トツの市場である東証は、黙っていても企業や投資家が集まる殿様商売の時代が長かった。市場の運営という公的な役割を担うこともあり、お役所体質が染みついた。その象徴が、職場でスリッパを履いて働く人の多さだった。自ら外には出ない、待ちの姿勢だ・・
う~ん。スリッパが官僚の象徴ですか。世間では、そう思われているのですね。これについては、『明るい係長講座』でも、挿絵入りで批判しました。
また、待ちの姿勢については、新入生の時に、先輩から「お客さんが来ているうちは、商売ではない。客が来なくなってからどうするか。それが商売や」と言われたことを、思い出しました。その頃は、民間の商店のことを思い浮かべましたが、役所にも拡大できますね。
法学部を重用する会社と社会
朝日新聞8月4日、「日曜に想う」山中季広記者の「強さ・速さ・美しさ、囲碁が映す三国志」から。かつて日本が圧倒的に強かった囲碁が、今や中国、韓国、台湾に追い抜かれたことを紹介した後に、次のように書かれています。
・・わずか四半世紀ほどの間に、勢力が日韓中→韓日中→中韓日と移ったわけだが、この興亡順は多くの産業でも見られた。とりわけ製鉄や半導体など、日本がかつて優位を誇った業種が、同じ経過をたどっている。
たとえば造船業界をみると、日本は50年代半ばから完工トン数で世界一を保った。後発国に技術を教える立場だったが、その韓国が2000年に日本を抜く。11年後、中国国営企業群が韓国から首位を奪いとる。
「囲碁も造船も同じ。日本が100年以上かけて築いた高みを、韓国は20年ではい上がる。中国はわずか10年で抜き去るのです」と話すのは、海外職業訓練協会アドバイザーの小川真一さん(67)。造船マンで、工業技術の海外転職に詳しい。囲碁ファンでもある。
ソウルやロンドンに駐在した経験から、痛感したことが一つあると言う。「中韓に比べると、日本は理工学部卒のエンジニアを大切にしない。会社でも政治でも、日本は法学部卒を重用しすぎる。ものづくり業界が学生に不人気なままでは、政財界の中枢にエンジニアが多い中韓に対抗できません」
言われて、法学部卒の私は答えに窮したが、日韓中→中韓日の荒波をかぶった世代ならではの気迫を感じた・・
私も法学部卒ですが、思い当たる節があるので紹介します。
役人が妨げる研究
読売新聞連載、秋葉鐐二郎さんの「日の丸ロケット」、6月22日「3機関統合、消えた自由」から。
2003年に、文部科学省宇宙科学研究所(ISAS、旧文部省系)、宇宙開発事業団(NASDA、旧科技庁系)、航空宇宙技術研究所(NAL、旧科技庁系)が統合して、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足しました。秋葉さんがかつて所属していた、宇宙科学研究所(かつての東大宇宙航空研究所)も、ここに統合されました。
・・統合前の宇宙3機関は、科技庁系が人員の8割、予算の9割を占めました。圧倒的に科技庁が強い。でも、まあ、今まで通りに研究がやれるなら、別に名前くらい変わってもいいんじゃないの、っていうぐらいの気持ちでした。
ところが、統合したら、そこから先、急に組織の文化が変わっちゃったんだよね。ひどいものでした。大企業が小企業を吸収するみたいな感じでした。
どう変わったかというと、研究の自由が奪われたのです。要は、事業団は役人なんだね。研究者だけでなく、役所出身者も寄せ集めた組織だったからでしょう。何かやろうとすると、すぐ、安全上の手続きが不足しているみたいなことを言う。とにかく、なんでもかんでも書類に書かせる。そして、書類を審査する側が、資料が足りないとか、説明不足とか何とか言って、どんどん研究者の時間を持っていく・・
官僚OBによる政策の検証
柳澤協二著『検証官邸のイラク戦争―元防衛官僚による批判と自省』(2013年、岩波書店)から。著者は、防衛官僚で、2004年から2009年まで、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)を務め、自衛隊イラク派遣の実務責任者を務めました。この本では、イラク戦争に際し自衛隊を派遣した政策について、政府も国会も検証をしていないことを指摘し、個人でその総括を試みています。
・・防衛官僚としての半生を振り返るとき、与えられた状況の中で最善を尽くしたという意味で、職業人としての良心に恥じるところはない。・・だが、そのことと、私が関わってきた政策に誤りがなかったかどうかを問うこととは、別の問題だ。
イラク戦争は、世界の価値観を揺るがす大きな出来事だった。それをめぐって何度も議論し、考えた。疑問も残っていた。だが、官僚としての仕事はそれを所与の前提として受け入れたうえで、日米同盟を強化し、自衛隊を国際的に活用するための政策を立案、実行することだった。加えて、日々多くの課題を抱えた官僚の立場では、自分の仕事の根本的な意義や価値観を問い直す余裕はなかった。
それゆえ、退職した私がなすべきことは、自分自身が関わった政策(多くの場合それらは、疑いもなく正しいと信じていたわけだが)について、問い直すことだと考えた。それが、官僚としての職業的良心を貫く所以でもある・・