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行政-官僚論

組織の腐敗

日本軍の失敗を分析した書物では、戸部良一ほか著失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(1984年、ダイヤモンド社。中公文庫に収録)が有名です。最近の読みやすいものとして、猪瀬直樹ほか著『事例研究 日本と日本軍の失敗のメカニズム―間違いはなぜ繰り返されるのか』(2013年、中央公論新社)があります。このページでも、紹介しました(2013年8月31日。興味ある方には本を読んでいただくとして、一節を引用します。
軍中央の指示に従わず、現地で独断専行して戦争始めます。しかし、その首謀者たちは責任を問われません。
・・軍法に反する行動をとっても、罪に問われず、結果が良ければ、英雄にさえなれる。これが、軍事組織を堕落させ、腐蝕させる重要な一因をつくっていたのではないだろうか。こうした行動は外地で繰り返されたばかりでなく、日本国内にも持ち込まれて下克上の病症を悪化させてしまったのである。
1936年頃、関東軍による内蒙工作が日中関係をこじらせていたので、当時参謀本部を実質的に動かしていた石原莞爾は現地に飛んで、関東軍参謀たちに工作の抑制を説いた。そのとき参謀の一人が「満州事変で、貴官がやったことと同じことをしているだけですよ」と発言し、満座の失笑を引き出したという。このエピソードほど、日本陸軍の堕落と腐蝕の深刻さを物語るものはなかった・・・(p51、戸部良一執筆「プロフェッショナリズム化ゆえに起きた昭和陸軍の暴走」)。

失敗に学ばない、ノモンハン事件

日本陸軍の失敗について、引き続き。あまり楽しい話ではありませんが、失敗に学ばなかったという事を繰り返さないために、書いておきましょう。
読売新聞連載「昭和時代」10月12日は、「ノモンハン事件」でした。昭和14年(1939年)に、満州国とモンゴルとの国境線で起きた戦闘です。日本陸軍が、ソ連軍の前に大敗を喫しました。日本軍の失敗の例として、必ず取り上げられるので、ご存じの方も多いでしょう。組織の失敗という観点からは、いくつかの大きな意味がありました。
日本陸軍にとって初の近代戦で、ソ連軍の前に壊滅しました。戦争ですから、勝つことも負けることもあるでしょう。しかし、組織としての失敗は、まず、この結果を学習しなかったことです。
しかも、第1次ノモンハン事件で、ソ連の戦車や火砲の前に部隊を壊滅させながら、第2次ノモンハン事件でも、相手の情勢を分析せず、ソ連機械化部隊と日本軍歩兵が白兵戦をするのです。戦死者、戦傷、戦病死、計2万人という大きな犠牲です。失敗を次に生かすことをしませんでした。
さらに、この戦闘そのものを隠蔽し、事件を分析しながら、報告書は取り上げられなかったようです。それどころか、その後、敵軍の武力を軽視し、日本軍の精神力で勝つのだという、精神主義を強調することになります。
組織としての失敗の二つ目は、現地関東軍が、陸軍中央の指示を無視して、戦争を始めたことです。官僚制機構の特徴の1つが、法令に基づき、部下は上司の命令に従うことです。その極である軍隊で、部下が上司の命に反する。あってはならないことです。
さらに問題は、中央の命に背いた関東軍作戦参謀を、その後も出世させたことです。彼らは、太平洋戦争の作戦を立てます。
大きな失敗をしたのに、戦術面で学ばず、組織人事面でもうやむやにしてしまったのです。
それができたのは、戦前の陸軍という、情報公開どころか報道すら制限された「閉ざされた組織」「閉ざされた時代」だったからでしょう。しかし、それなら、上司の責任はより重くなります。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、4

(仕事の進め方、上司への説明、責任)
昭和12年、支那事変勃発後の予算要求です。著者は、軍事課予算班長(注:予算担当課長補佐でしょうか)になったばかりです。
・・既に廟議は一応不拡大方針を一擲してしまったが、なお果たしてどれだけの規模においてこの事変を遂行していくべきやということについては、陸軍部内においても何ら決定されていなかった。
私は参謀本部の堀場少佐と相談して、使用兵力の枠を大体15個師団と概定し、これから所要経費を大体私自身誰にも相談せずいろいろ大当たりをしてみて、3月末まで19億円を概算した。当時の陸軍予算の年額はせいぜい10億円前後であったから、当時としては一躍3倍になることであった。それでこれを極めて素人わかりするように両面罫紙1枚に図解したものをつくり、私はまず当時の整備局の資材班長真田穣一郎少佐のところへ持っていって相談した。真田少佐はニヤニヤ笑いながら「これだけとれれば結構ですがねえ」と―あまり桁外れなので問題にしないようであった・・
そこでこの案をつくって上司に意見を具申した。上の方は結局この通りに採用した。詳しい説明をしてもわからず、後宮軍務局長のごときは、右の両面罫紙の図解が一番いいと言って、大臣、その他内閣へもこの紙切れをもって説明していた。結局、この案で支那事変の本格的経費ができあがった、軍需動員もいよいよ大規模に発足することになった・・
・・この予算を、いよいよ本式に大蔵省に提出する前の晩は、一晩中眠られず床の中で考え明かした。いろいろの議論はあるが、この予算が通過すればいよいよ本格的に国内での仕事が始まる。いよいよ、財政も経済も戦時的に変貌していくのである・・上司は全面的にこれに同意している。しかしその内容もよくわからず、またあまりわかろうともしない。自分の責任は重大である。一応大臣の決裁まですんだものの、私はかれこれとその重大さを考えて、少なくとも今後は事、予算に関する限り、またこの守成というか台所の仕事については、自分が全責任を痛感して所信に邁進せねばならない。上司をいたずらに頼っていてはならない、と深く決心した・・(p110)
まだまだ興味深い記述がありますが、それは本を読んでください。当時の陸軍用語がでてきて、若い人たちにはわかりにくい言葉もあります。例えば、天保銭(陸大卒業組)、無天(それ以外)、連帯(協議という意味でしょうか)。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、3

昨日に引き続き、一部を紹介します。
(幹部の不勉強)
・・陸軍省の各局長の集まってやる当時の重要行事たる予算省議における局長級の不勉強ぶり・・・何も仕事を知らない・・・のには、私もこれに列席して一驚を喫した次第で、自分の局の仕事とは知らず、他の局の担任と思って予算削減を強硬に主張し、後でこれを取り消す等驚いたものであったが・・(p43。引用文中の・・・は、原文のままです。たぶん活字になると問題となる、赤裸々なことが書いてあったのでしょうね)。
・・時々大臣について方々へ行った。陣頭指揮はまず上長の部下掌握に始まる。師団長、旅団長級の指揮官で、幕僚のつくった報告をもっともらしく読み上げるが部下将兵の数を知らないものの多いのには一驚した。細部はともかく、大体部下が1万5千なのか、2万なのかもはっきりつかんでいない将軍が少なくないのには本当に驚かされた・・(p197)。
読んでいて、私も驚きます。ここは実名ではありませんが、随所に出てくる実名幹部の人物評は、歯に衣を着せず、おもしろいです。笑っていられない場面もあります。
(人事)
・・補任課(注:人事課です)は以前は各方面の人が入れ替わっていたが、近頃は一種の人事屋なるものができあがり、しかも狭い視野で独善的に人事を決める癖があった。いわゆる人事の一元化で無理をした結果、歩兵の将校でせいぜい士官学校の区隊長くらいの経験しかないものが、各方面の人事の専権をふるうようになった。軍の能率をこれがために阻害したことは幾ばくなるかを知らない。
また人事屋が一連の閥をつくり、ひとたびこの人事屋からにらまれると永久に浮かばれない。―実際有用の人物で、埋もれた人も多くあった・・(p70)。
・・日本の将校、特に中央部勤務将校が、戦術を錬磨し兵学を勉強する機会の少なかったのは、なんといっても大きな欠陥であった。陸大卒業以来、事務に没頭して、いきなり高級指揮官となるという変則的人事が、かえって満州事変後の常則的人事となっていた。やむを得なかったとはいえ遺憾なことであった・・(p103)。
有名な統制派対皇道派の対立も書かれています。露骨な人事に驚きます。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、2

前回の続きです。この本は、「日本陸軍終焉の真実」という副題がついています。
日本と日本陸軍が道を誤ったことについて、失敗の原因を分析する際には、政治指導者、統治機構、世論、現場の軍隊の行動、戦略や作戦、兵器と補給など、さまざまな視点があります。そして、これらに関して、たくさんの本が出ています。しかし、この本のように、軍事官僚が陸軍省内部から見た記録は、そうはないでしょう。
また、作戦を立て遂行するためには、部隊(大量の兵士)を養い動かすこと、武器弾薬を補給すること、その経費をどう見積もり手当てするかなど、その背後に膨大な事務作業があります。それを、官僚たちはどのように処理したか。興味深いです。
平時は、毎年の定例作業なのでしょう。前年の実績を元に、増分と減分を調整すればすみます。しかし、戦時になると、変更部分がとてつもなく多くなり(本文中に、一挙に3倍になるとあります)、また不確定要素が増えます。作戦の進行や変更によって、どんどん変わってきます。それをどう裁いたかです。
順次、興味深い記述を紹介します(引用する際には、一部書き換えてあります。また、注は私が入れたものです)。
まず、登場する軍人の名前には全て、陸軍士官学校の第何期生であるかが、記されています。年次が重要だったことがわかります。これは、現在も同じ。
また、頻繁に人事異動があります。官僚機構ですから、当然ですが。例えば軍務局長は、昭和6年当時は小磯国昭、その後10年の間、昭和16年の武藤章まで、12人です。一人で3度勤めた人もいますが。
(行革について)
・・人馬の減少、官衙の改廃等はなかなか細かいものであった。後年の軍備充実の大まかなやり方は、当時としては全く夢にも考えられない有様だった。鈴木宗作中佐の指導を受けて、本当に文字通り一兵一馬の予算をはじきながら、毎日コツコツと、火事場のような課の中で仕事を進めていた・・
・・判任官(注:現在では常勤職員でしょうか)一名の削減がどうしてもできず、ついに省内の各課を歴訪してどこでもけんもほろろの有様、ついに(広島県)宇品の運輸部の小蒸気船の機関長が判任文官だということを知って、防備課に三拝九拝、やっとこれを嘱託か雇員かに直して、ようやくつじつまを合わしたこともある・・(p37)。
この後に、馬を削った際の、著者の作戦と現場からの反発が書かれていますが、これは本文をお読みください。おもしろいです(失礼)。
この項、続く。