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連載「公共を創る」第222回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第222回「政府の役割の再定義ー政治家に求められる将来像の提示」が、発行されました。

この国の将来像を考える際の基盤を説明しています。その三つ目は、成熟社会になって見えてきた課題への対処と、意識の転換が遅れていることです。欧米先進諸国でも、このような移行期の不安はあったと思われますが、長い年月をかけて対応したのでしょう。それに対し日本は、短期間で大きく変化したことから、そのずれに悩んでいます。たぶん、日本を追いかけてきたアジア各国も、これから同じような悩みを経験するのではないでしょうか。

以上で、この国の将来像を考える際に基盤となるであろう、三つのことを説明しました。
一つ目は、我が国が経済発展と自由で安全な社会を達成したことで、これからは「国民が自由に振る舞う、国家はその条件を整える」ことが将来の国家像の基礎になることです。
二つ目は、経済発展を達成した1990年代と現在では、内外の条件が大きく変わったことです。
その後は産業が衰退し、経済的先進国ではなくなりました。国内外には、新たな不安が増大しました。これらに、対処しなければなりません。
三つ目は、成熟国家になって見えてきた課題への対処です。「成熟社会の中の不安」と「意識転換の遅れ」です。

世界では、権威主義国家は、国民を動員して奮い立たせ、かつ指導者へ服属させるために、いろんな政治的あるいは文化的「物語」をつくり、宣伝します。そのような物語に巻き込まれたり屈服したりしないように、民主主義国家も人びとに、その体制の魅力を語らねばなりません。民主主義国家が語るそれは、権威主義者のような「物語」そのものではなく、人びとが夢のある「物語」を自らつくり出すための場を提供することであるはずです。我々は、国民に夢と安心をもたらすためにも、国際競争に生き残るためにも、魅力ある日本の「場」をつくり、国民と諸外国に語りかける必要があります。

次に、少し角度を変えて、「政治家の間の役割分担」と「内閣と与野党と国会の役割分担」について考えてみましょう。政治家と官僚の役割分担がうまくいっていないのと同様に、政府内での政治家の間の役割分担も必ずしもうまくいっていないようです。

日経新聞「花火頼みの政治の行方」に出ました

5月11日付けの日経新聞「風見鶏」、山内菜穂子記者の「花火頼みの政治の行方」(紙面の見出し)、ウエッブ版では「政治は「花火」頼みか 子育てケアマネ論争が映す支援のあり方」に、私の発言が引用されました。文脈がわからないと、私の発言の位置づけが理解できないので、その前後を少々長めに引用します。記事は結構長いものです。ご関心ある方は、原文をお読みください。

・・・4月中旬、子育て支援団体などが国会内である会合を開いた。「子育てケアマネ」導入や保育の拡充を求める集会だ。多くの与野党の議員が駆けつけた。
子育てケアマネはフィンランドなどの事例を参考にした取り組みで、専門家が妊娠期から母親と信頼関係を築き、相談にのるという。虐待や産後うつを防ぐ役割も期待される。子育て世代に直接届く「経済的支援」ではない。
元議員が「3年以内に全家庭に実現する」などとX(旧ツイッター)に書き込むと、思わぬ反応があった。
「むしろ障害児支援や病児保育を充実して」「保護者が休める環境づくりが最優先では」――。賛成を上回る勢いの反対論が出た。
集会に参加した日本維新の会の金村龍那衆院議員は「最適な支援につなぐのが子育てケアマネだ」と導入を唱えていただけに、ネットの声に驚いたという。
子育てのニーズは多様だからこそつかみにくい。政治の訴えは誰にでもわかりやすい経済的支援に偏りがちだ・・・

・・・少子化や持続可能な社会づくりに詳しい日本総研の村上芽チーフスペシャリストは「子育てしにくいと感じる根本的な原因は一つではない」と語る。「雇用・労働環境など経済的支援では解決できない課題も含め、長期的な議論が必要だ」と強調する。
たとえば、経済的支援では改善しない男性を中心とした長時間労働の問題。育児の負担が偏り、孤独な子育てに悩む女性は多い。
休息や気分転換に子どもを一時預けたいとの要望は強い。自治体によっては保育園などで生後6カ月程度から一時保育する制度があるが、都市部では予約枠がすぐに埋まりがちだ。
枠を増やすのに壁になるのは保育士不足だ。政府は処遇改善策に取り組むが、24年の平均月給は全産業平均に比べてなお8万円ほど低い。処遇改善は必要性が高い割に、子育て世帯が実感しやすい経済的支援に比べて目立たない。

麻生太郎政権で首相秘書官を務めた岡本全勝元復興次官は給付金などの経済的支援を念頭に「選挙を意識し、分かりやすい『花火』を打ち上げ過ぎだ。その手前にある問題や中長期の課題に目を向けなければ、政治と民意の間にずれが生じる」と話す。
翻って子育てケアマネを巡る反対論。そこには新たな政策よりも、目の前の問題の解決を優先してほしいとの思いがうかがえる・・・

連載「公共を創る」第221回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第221回「政府の役割の再定義ー成熟国家への転換期における苦悩」が、発行されました。

政治の役割として、目指す国家像を示すことを説明しています。
国家像を議論する際の共通基盤の第三は、成熟国家になって見えてきた課題への対処です。
かつて豊かさを達成し、ジャパン・アズ・ナンバーワンと「慢心」しました。しかし実際には、豊かさを達成しただけでは、すべての問題が解決したわけではありませんでした。豊かさと平等を達成したと思っていましたが、そうでない人たちもいました。
そして、新しい不安が生まれました。豊かさとの引き換えに不足感と不安が生じ、豊かさ故に新たに不足感と不安が生じたのです。それとともに、国民の意識や社会の仕組みが、現実の変化に追い付いていない問題もあります。過渡期の悩みですが、行く先がよく見えていません。

日本列島に住む人は、弥生時代以来、村で支え合って生きてきました。家族や親族、地域社会に縛られつつ、一方で守られて安心を得ることができました。村から離れて、家族形態だけでなく職業や住む場所も、個人が選ぶことができるようになった社会で生きているのは、初めてなのです。束縛はなくなったのですが、どうやって生きていけばいいのか自分で考えなければなりません。しかし、まだほんの数世代の経験しかないのです。

連載「公共を創る」6年

公共を創る」の連載が丸6年になり、7年目に入りました。
第1回は、2019年4月25日でした。今年4月17日で第220回になりました。よく6年も続いたものです。月に3回(当初は毎週)、毎回の紙面では4ページ、文字数にして6800字余りです。自分で自分を褒めてやりたいです。いつも同じことを言っていますね。
資料提供など協力をいただいた、たくさんの人に感謝します。右筆さんの毎回の厳しい朱入れがなければ、できませんでした。

こんなに長くかかるはずでは、なかったのですが。全体構想では、もう少しで完結する予定です。「連載「公共を創る」5年

と書いたら、肝冷斎に「石の上にも6年」と評価(?)されました。

連載「公共を創る」第220回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第220回「政府の役割の再定義ー国家像を議論する共通基盤」が、発行されました。

政治家の役割として、この国の向かう先を指し示すことを取り上げています。
1980年代には世界有数の豊かさを手に入れ、併せて自由と平等、安全と安心も手にしました。目標を達成したのです。そこで当時も、日本は次に何を目指すべきかが議論されました。
中央省庁改革の方向を決めた「行政改革会議最終報告」(1997年)は、経済成長を達成した後、行き詰まった日本の行政システムを改革するものでした。そこでは行政の仕組みにとどまらず、「この国のかたち」の変革を求めました。省庁改革は実現したのですが、その後の目指すべき日本の姿については、政治家、官僚、識者の間でも議論は深まりませんでした。結局、明確な将来像も国家戦略も持ち得ないままに、現在まで至っています。

そのような議論をせずに、行政改革を続けました。今も、「身を切る改革」などを主張する政治家がいますが、政府を小さくしても、国民が満足する社会は実現できません。私たちが取り組まなければならなかったのは、行政改革を深化させることではなく、目指す将来像の議論であり、その中での行政の役割だったのです。

では、これから日本が目指す国家像は、どのようなものでしょうか。「国民が自由に振る舞う、国家はその条件を整える」という政治哲学では、かつての「強い日本」「豊かな日本」といった、国民が共通に目指す国家目標は、設定が難しくなりました。
石破茂首相が「楽しい日本」を提唱しました。反対意見もあります。目指す国家像は人によって異なるでしょう。

目指す国家像が人によって異なることは当然として、議論する際に前提となる「共通基盤」はあると思います。
その1は、我が国が経済発展を達成したことと、それに伴う国内の諸状況です。
2つめに、国内外の諸条件を、念頭に置かなければなりません。1990年代と現在では、「次の日本の目標」を考える際の内外の条件が大きく変わった、ということです。