カテゴリーアーカイブ:社会の見方

〈私〉時代のデモクラシー

2010年5月5日   岡本全勝
宇野重規著「〈私〉時代のデモクラシー」(2010年、岩波新書)を読みました。現在の日本や先進国で、自由と平等が達成できたことが、社会の不安と不満を生んだことを、極めて明快に分析しておられます。個人を縛り付けていた、イエや宗教といった「伝統」から自由になることを目指したのが、近代でした。また、身分や所属する団体による不平等を撤廃することを目指したのが、近代でした。それを達成した「後期近代」になって見えてきたものは、あらゆることを自分で判断しなければならないという負担であり、その選択に責任を持たなければならないという不安です。また、中間集団の希薄化は、個人の砂状化とともに、政治への回路をなくしてしまいます。ここにに、従来の政党は、不満の吸い上げと利益の配分に機能しなくなります。
私は「新地方自治入門」で、個人・社会・政治にとって、中間集団が大きな機能を果たしていること、そして従来型のイエ・ムラが希薄化し、新たな中間集団が必要なことを論じました(p210)。また、自由・平等・豊かさを達成した日本において、次なる理想は何か、戦うべき「敵」は何かを議論しました(p308)。さらに、いま大学院で講義している「社会のリスク」の項目の一つに、「社会関係の不安」をいれているので、非常に参考になりました。
新書というサイズには、大きなテーマですが、わかりやすく書かれています。ここではすべてを紹介できないので、ご一読をお勧めします。

2つの公私二元論

2010年5月2日   岡本全勝
フランシス・オルセン著「法の性別ー近代法公私二元論を超えて」(2009年、東京大学出版会)が、興味深かったです。この本は、法律におけるフェミニズムの著作ですが、そこで展開される「公私二元論」に興味を持って拾い読みしました。
著者は、国家と市民社会を対置させる公私二元論と、その市民社会の中で市場と家庭を対置させる公私二元論を、主張します。2つの公私二元論を区別するのです。本では図で示されていて、わかりやすいです。
そして、この公私二元論が、国家が市場経済に介入しない論理的基礎となり、また家庭に介入しない論理的基礎になったと主張するのです。その理論が、経済的強者と夫の地位を守ることになり、弱者である労働者と妻の不平等を放置したこと。その後の歴史は、国家が市場に介入することになり、さらに家庭にも介入することになったことを、パラレルに論じます。
 
すなわち、封建制度の崩壊によってできた近代市民社会では、国家と市民社会を区別する二元論と、市場と家庭を区別する二元論が誕生しました。前者では、国家が公であり、市民社会が私です。国家は、私的領域である市民社会に介入しないことがよいとされました。特に経済活動である市場経済に介入しないのです。レッセ・フェールの思想です。そしてさらに、その市民社会は、市場という公と、家庭という私に区分されます。ここにおいて、国家は私的領域である家庭には立ち入ってはならないものとされました。しかし、その後の歴史は、国家が市場に介入する方向に進み、国家が家庭に介入する方向に進みました。
市場は、平等で自立した個人の自由活動に委ねるのがよいとするのが、「自由市場」観念です。見えざる手に委ねるべきで、国家がよけいな口出しをすべきでないという主張です。しかし現実には、富める資本家と労働者の不平等があり、この論理はその不平等を固定化し、隠す論理であると認識されるようになったのです。契約の自由は、資本家に有利に、労働者に不利な結果を導きます。実際は、自由でも平等でもないのです。それが認識されて、ようやく労働者保護法制が制定されました。
他方、市場と家庭を区分する公私二元論は、公の世間とプライバシーの城という対比だけでなく、次のような価値の対比を含んでいます。すなわち、取引と競争原理が支配する市場に対し、愛情と利他主義で成り立つ家族は、心の安らぐ場であり城であるという観念です。しかしこれも、現実には、夫が妻を抑圧し暴力をふるうことがあり、それを隠蔽する論理であると批判されるようになりました。家庭内の秩序を家族に委ねると、暴力的な夫は妻を傷つけます。愛情で成り立っていない場合があるのです。それが認識されて、ようやくドメスティク・バイオレンスを規制する法律など、妻の立場を保護する法律ができました。
このように、国家が介入することによって、市場では個人主義が後退し、家庭では個人主義が促進されました。

公的債務の返済

2010年4月23日   岡本全勝

22日の朝日新聞「クルーグマンコラム」、「ギリシャに学ぶこと。引き締めは番狂わせ招く」から。
・・ギリシャの公的債務は、GDPの113%と実際に高いが、ほかの諸国も同水準の債務を抱えながら、危機を経験せずに済んでいる。例えば、第2次世界大戦から抜け出して間もない1946年のアメリカでは、連邦政府の債務がGDPの122%に達していた・・その後の10年間で、対GDP比はほぼ半分に削減され、1981年には33%という低い水準になった。アメリカ政府は、戦時中の債務をどうやって償還したのだろうか?
実際は、償還などしていなかったのだ。1946年末時点で連邦政府は2,710億ドルの債務を抱え、1956年末には2,740億ドルとわずかに増加した。債務の対GDP比が下落したのは、債務自体が減ったからではなく、GDPが増加したからだ。つまり、アメリカのGDPは、10年間でほぼ倍増した。GDPの上昇は経済成長とインフレーションの結果にほぼ等しく、1946年から1956年にかけて、実質GDPと全体的な物価水準は、ともに約40%上昇していた。残念ながら、ギリシャは、同じような成果は期待できない・・。

リスク対策が生む新しいリスク

2010年4月22日   岡本全勝

16日の朝日新聞オピニオン欄は、「監視カメラ社会」でした(遅くなって、すみません)。
映画監督の森達也さんは、殺人事件や刑事犯罪全体が減っていて、日本の治安は悪化していないこと。監視カメラは犯人検挙に多少は役に立つが、防犯効果は疑問であること。それに対し、過剰なセキュリティー意識がもたらす副作用として、逆に人々に不安をあおり、集団に逆らう因子を排除する傾向を激しくすることを、指摘しておられます。排除と厳罰化によってリスクを排除しているつもりが、逆に新たなリスクを生み出してしまうのです。
一方、前田雅英教授は、治安は着実に良くなっていること。防犯カメラは犯罪予防効果があり捜査にも役立つこと。世論調査では9割の人がカメラ設置に賛成していることを、指摘しておられます。問題は、どのような場所に、どのような形でカメラをつけるか。得られた情報を、どう管理するかです。すなわち、プライバシーの侵害です。それは、警察や役所がつける防犯カメラより、民間が設置するカメラで起きる危険性が高いこと。官のカメラには設置場所や方法、情報管理に関する法規やガイドラインがあるケースが多いが、民のカメラでは遅れていると、指摘しておられます。
リスクを軽減するために取る対策が、新しいリスクを生むジレンマです。これは、監視カメラだけでなく、いろんな局面で出てきます。この春の大学院での、講義のテーマの一つです。

市民社会と会社法制

2010年4月17日   岡本全勝

13日の日経新聞経済教室に、上村達男早稲田大学教授が、会社法制改革について書いておられました。私が興味を持った点を、要点だけ紹介します。
・・戦後の経済改革は、「経済の民主化」や「証券民主化」といわれたように、それまでの財閥中心の体制を個人ないし市民中心の体制に転換させようとしたものであった。その理念は、米国流の人民資本主義であり、市民が株主となって企業社会をコントロールする、企業社会と市民社会の結節点としての証券市場を構想するものであった。
しかし、その時点では、市場を担えるような資産を持った個人も市民も存在せず、証券市場抜きの株式会社制度が戦後日本の企業社会を特徴付けた。資金調達は銀行をはじめとする間接金融中心であり、株式会社とは経営者にとって経営の道具であり器でしかなかった。株式市場を支える個人層のいない日本では、法人株主が主役となった。
貧しい日本がこうした行き方によって急速な経済発展を遂げたこと自体は肯定されるべきだ。しかし、ルールや制度・規範という観点からすると、それは「いまだ戦後」なのであり、公正な証券市場の存在とそれに対応する株式会社制度の存在、そしてそれを可能とする法的システムの整備を通じて実現された成功とは言えない・・
そして教授は、株式会社が本格的に証券市場と対峙する状況にふさわしい、株式会社制度を提唱しておられます。これまでの株式会社法は、株を持っている株主だけを考えていた。株主からのガバナンスであり、株主への説明責任です。しかし、株の保有者である株主だけでなく、「株の買い手」である投資家(公衆・市民社会)と、「株の売り手」である投資家の、3者への責任を自覚した法制をつくるべきだ、と言っておられます。
経済社会と法制度の関わりを、明快に分析したご主張だと思います。極めて短く紹介したので、詳しくは原文をお読みください。