2つの公私二元論

フランシス・オルセン著「法の性別ー近代法公私二元論を超えて」(2009年、東京大学出版会)が、興味深かったです。この本は、法律におけるフェミニズムの著作ですが、そこで展開される「公私二元論」に興味を持って拾い読みしました。
著者は、国家と市民社会を対置させる公私二元論と、その市民社会の中で市場と家庭を対置させる公私二元論を、主張します。2つの公私二元論を区別するのです。本では図で示されていて、わかりやすいです。
そして、この公私二元論が、国家が市場経済に介入しない論理的基礎となり、また家庭に介入しない論理的基礎になったと主張するのです。その理論が、経済的強者と夫の地位を守ることになり、弱者である労働者と妻の不平等を放置したこと。その後の歴史は、国家が市場に介入することになり、さらに家庭にも介入することになったことを、パラレルに論じます。
 
すなわち、封建制度の崩壊によってできた近代市民社会では、国家と市民社会を区別する二元論と、市場と家庭を区別する二元論が誕生しました。前者では、国家が公であり、市民社会が私です。国家は、私的領域である市民社会に介入しないことがよいとされました。特に経済活動である市場経済に介入しないのです。レッセ・フェールの思想です。そしてさらに、その市民社会は、市場という公と、家庭という私に区分されます。ここにおいて、国家は私的領域である家庭には立ち入ってはならないものとされました。しかし、その後の歴史は、国家が市場に介入する方向に進み、国家が家庭に介入する方向に進みました。
市場は、平等で自立した個人の自由活動に委ねるのがよいとするのが、「自由市場」観念です。見えざる手に委ねるべきで、国家がよけいな口出しをすべきでないという主張です。しかし現実には、富める資本家と労働者の不平等があり、この論理はその不平等を固定化し、隠す論理であると認識されるようになったのです。契約の自由は、資本家に有利に、労働者に不利な結果を導きます。実際は、自由でも平等でもないのです。それが認識されて、ようやく労働者保護法制が制定されました。
他方、市場と家庭を区分する公私二元論は、公の世間とプライバシーの城という対比だけでなく、次のような価値の対比を含んでいます。すなわち、取引と競争原理が支配する市場に対し、愛情と利他主義で成り立つ家族は、心の安らぐ場であり城であるという観念です。しかしこれも、現実には、夫が妻を抑圧し暴力をふるうことがあり、それを隠蔽する論理であると批判されるようになりました。家庭内の秩序を家族に委ねると、暴力的な夫は妻を傷つけます。愛情で成り立っていない場合があるのです。それが認識されて、ようやくドメスティク・バイオレンスを規制する法律など、妻の立場を保護する法律ができました。
このように、国家が介入することによって、市場では個人主義が後退し、家庭では個人主義が促進されました。