カテゴリーアーカイブ:社会の見方

手書き習慣ないが3割

2026年10月11日   岡本全勝

10月3日の読売新聞に「手書き習慣「ない」3割 文化庁調査 デジタル社会 影響」が載っていました。

・・・文化庁は2日、2025年度の「国語に関する世論調査」を公表した。文字を手書きする習慣を大切にすべきだと考える人は8割を占めたが、日常生活で手書きする機会がないと答えた人は3割に上った。専門家は社会のデジタル化による影響を指摘している。

調査は今年1~3月、全国の16歳以上の男女計6000人に郵送で行い、3777人から有効回答を得た。
日常生活で手書きする機会を尋ねたところ、ない(2・7%)、あまりない(26・7%)を合わせた「ない」は29・4%だった。世代別では、16~19歳は「ない」が11・6%だった一方、20歳代から70歳以降の各世代では「ない」が26~33%に上った。手書きについての調査は14年度にも面接方式で行っている。単純比較はできないが、手書きする機会が「よくある」は5・4ポイント減り、「あまりない」が5・8ポイント増えていた・・・

私も、ペンを使うことが少なくなりました。万年筆のインクが減りません。特に、朱は使わなくなりました。黒で書いた原稿を直す際に使っていたのです。ボールペンは3色(黒、赤、青)を使っていますが、これは手帳やメモ、原稿やゲラの修正に使っています。
字を書かなくなると、忘れてしまいますね。簡単な漢字が出てきません。指先と頭はつながっています。

味の素は半導体の会社

2026年10月10日   岡本全勝

10月8日のNHKウエッブに「食品メーカーが半導体で好調 社長が語る秘けつとは?」が載っていました。詳しくは記事を読んでください。驚きますよ。

・・・「絶縁フィルム」は、パソコンの心臓部である「CPU」に存在します。「CPU」には、半導体の基板が何層にも積み重なり、回線が複雑に張り巡らされています。意図しない部品に電流が流れ、パソコンがショートするのを防ぐため、ミルフィーユのように挟まれているのが「絶縁フィルム」です。髪の毛よりも薄く、非常に繊細です。
この「絶縁フィルム」に使われているのが、この会社の主力商品「うまみ調味料」の主成分であるアミノ酸の製造技術です・・・

・・・絶縁フィルムは、現在のAI・半導体需要の高まりを受けて、取引が一段と拡大、世界シェアは95%を超えています。
今年度の絶縁フィルムを含む事業分野の利益は昨年度より20%ほど増えて655億円となる見通しで、会社全体の事業利益のおよそ3割を占めると見込んでいます・・・

未来予測の限界

2026年10月7日   岡本全勝

人工知能の負の面が見えてきました。嘘をつくだけでなく、ほかの人工知能の成果を盗んだり、不法にほかのサイトに侵入したりしています。人の制御を超えて暴走すると、世界中のコンピュータシステムが停止したり、破壊されたりするでしょう。悪いことをする点でも、人間らしくなったといえます。

技術的特異点、technological singularity、シンギュラリティという言葉があります。ウィキペディアによると「未来学の用語で、科学技術が急速に「進化」・変化することで人間の生活も決定的に変化する「未来」を指す言葉」とのこと。特に、人工知能が人を超えることを指して使われていたようです。

これまでの未来予測は、科学技術が発展し人類の生活が便利になることが多かったようです。しかし、1972年にローマクラブが「成長の限界」を発表して、手放しでは喜べないことが認識されました。その前に、原爆や化学兵器、公害なども、技術発展の負の面を明らかにしていました。ただし、人類はこれらの技術を制御することで、危機を回避してきました。
ところが、これまでの危機は人間が作っていたので、人間が制御できました。しかし、人工知能が自分で(人の関与なく)暴走すると、人間の制御が及びません。これまでの危機とは違った危険です。

人は未来に夢を持って、社会がよくなることを想像してきたのですが、負の面を想像することはおろそかになっていたようです。そんなこと、想像したくないですからね。
科学技術の未来予測ではありませんが、産業経済分野でも予想は当たりませんね。何が売れるか予測できたら、大もうけするでしょう。経済学者や金融関係者は、世界金融危機を予測できませんでしたし。

曲解された「国富論」2

2026年10月7日   岡本全勝

「曲解された「国富論」」の続きです。

・・・ところで、今日の経済学がスミスからの継承を怠ったもうひとつの論点がある。スミスは、18世紀英国では、経済学者というよりもむしろ「道徳哲学者」として高名であった。
「道徳感情論」というもうひとつの主著においてスミスが述べるのは、ある人のある行動の是非を判断するものは、中立的な観察者がどのぐらい共感できるかにあるという。この他者からの共感こそが、道徳的判断の基礎となる。
そのとき、社会はそれなりの共通の価値観を持っており、そこに公正な秩序も形成される。スミスの市場経済論が、直接的ではないにしても、「道徳感情論」を背後に持っていることは間違いない。

彼は、しばしば「私益は公益なり」と訴えたといわれ、人は自己利益を追求すればよい、後は市場の「見えざる手」が適切な秩序を実現してくれる、という。だが、これも無条件の「利己心」を称賛したものではない。経済活動も、「中立的な観察者」による共感に依存するのである。それは、社会的に是認されるような、ある種の「公正さ」を必要とするのだ。

現代の米国流の経済学は、経済行為を、道徳的判断などという価値観から引き離した。経済活動にも、社会的に是認できるものと是認しがたいものがある、という当然の価値判断をいっさい拒絶した。その結果、利益や収益の比較、効率性や成長率への寄与だけが判断の基準になったが、しかし、それもまた、ひとつの価値判断なのである。その結果として失ったものは、経済活動の「公正さ」や「社会の安定」といったもうひとつの価値判断なのである・・・

曲解された「国富論」

2026年10月6日   岡本全勝

9月26日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「曲解された「国富論」」から。

・・・今年はアダム・スミスの「国富論」(正確には「諸国民の富」)の出版250年である。この書物によって初めて「自由な市場競争が経済発展をもたらす」とされ、さらに、それが善き社会秩序を実現するとされた。これが通説だ。現代の米国中心の経済学はスミスの市場理論を精緻化したもので、その考えに基づいて今日のグローバリズムが出現した。だから、スミスは、「経済学の父」であるだけではなく、現代のグローバリズムの生みの親ということにもなるだろう。
しかし、私見では、これはスミスに対する大いなる誤解(あるいは曲解)であり、それが、今日のグローバル経済の混乱の発端ともなっている、と思う。

スミスが自由な市場競争を説いた時、彼が批判したものは何だったのか。それは、一部の大商人が政府と結合し、世界的規模の投資や貿易によって巨額の商業的富を得るという事態であった。これは「貨幣こそが国富なり」とする重商主義への強烈な批判である。それに対して、自国の、いわば「普通の人々」による「労働と生産こそが国富なり」というのがスミスの主張であった。
とすれば、今日のグローバル経済こそが「新重商主義」とでもいうべきものではなかろうか。スミスなら、間違いなく、今日のグローバリズムを批判したであろう。
表面的に理解してしまえば、スミスの経済論を、自由競争の市場万能主義とみなせなくもない。しかし、スミスがつとに強調しているのは、一国の富は、金融取引ではなく、生産活動によるということである。そのためには、海外との交易による金銀(貿易差額)の獲得を政府が支援するのではなく、国内生産における労働の成果を自由に交換できる市場を形成することこそが国富につながるという・・・

・・・それでは、どうして、そのスミスの市場競争論が、今日のグローバリズムの理論的な支柱になってしまったのだろうか。そこには次のような事情がある。
スミスの市場経済論は、20世紀になって、米国の経済学に引きつがれた。ただそれは、スミスの真意をまったく理解しないものでもあった。
スミスが問題とした、「金融」に対する「物の生産」、「グローバリズム」に対する「国内経済」の重視、つまり経済活動は「確実な基礎」に基づくべきだというような論点は、いっさい排除された。きわめて抽象的、一般的に、自由な市場競争の拡大こそが人々の利益と富の増進をもたらすとされたのである。
かくて、自由な市場競争論によって、グローバリズムが正当化され、市場経済学は一種の「グローバリズム・イデオロギー」とでもいうべきものとなる。

ところが、現実はどうであろうか。ここで私は「市場経済」と「資本主義」を区別しておきたい。これは大事な点だが、ほとんど論じられることはない。
「市場経済」は、人々の自由競争こそが市場の調和を実現するという思想に基づいている。しかし、「資本主義」は違う。それは、あくまで「資本」の増殖をめざす運動で、市場の調和を目的とするわけではない。資本は、金融市場において金融商品へも向かうし、海外へも投下される。将来有望な新たな技術開発や市場開拓へも向かう。期待収益が大きい分野に資本は流れる。
資本を動かすものは、独占的企業でもよいし政府でもよい。投資によって無限の経済成長をめざすのが「資本主義」の原理なのである。だから、「市場経済」が市場の秩序を求めるのに対し、「資本主義」は、むしろ、市場の秩序を破壊してゆくのである。

とするなら、今日のグローバル経済を支配しているのは、「市場経済」ではなく、「資本主義」の原理といわねばならない。そして「資本」が、無限の拡張と成長を求める限り、国家間の経済競争や覇権競争はますます激化するだろう。政府は、覇権を握る上で有利な技術へ向けた投資を支援する。もはや小規模な生産者たちによる自由競争など、昔ののどかな神話に過ぎなくなる。
まさしく、これが今日のわれわれの目の前に広がっているグローバリズムの姿であろう・・・