カテゴリーアーカイブ:社会の見方

仏像を見る、仏像に見られる2

2018年8月20日   岡本全勝

仏像を見る、仏像に見られる」の続きです。多川俊映・興福寺貫首著『仏像 みる・みられる』から。

・・・この阿修羅像には知名度では及びませんが、白鳳の薬師仏の頭部、いわゆる仏頭もすばらしいお像で、この仏頭こそ、本書の問題を解くカギだと思います。つまり、身体が失われているだけに、その仏眼、仏の視線がより強く私たちにせまってきます。まさに仏頭とは仏眼であり、仏像とはとどのつまり、仏眼にすべてが集約されるのだと思います。先ほど述べたように、トルソー仏像の法要から興福寺に戻って、仏頭の前に立った瞬間、――仏像って仏眼なんだ。と、それはある種の啓示といってよいものでしたが、同時に実は、「仏眼所照」というコトバも鮮やかに思い出されました。これは、仏眼が照見する対象のことです。つまり、「仏の視野の中にいる自分」あるいは「仏に見守られている自分」というものを私自身見出した瞬間だったのです。

このように、仏像とそれをみる私たちとの関係は端的に、「みる・みられる」という関係であり、「みている」のですが、同時に「みられてもいる」という関係なのです。「みる」一方では、この双方向がもつある種の緊張感はなく、双方向の関係だからこそ、人生にかかわる意義もそこに見出すことができるのだと思います。たとえば、私たちの日常でも、自分が関心をもってみているその人が、自分をみてもくれない――、そういう相手からのはたらきかけがなければ、その人間関係が進展しないのと同じです・・・p190~

・・・以上、仏像を見ることは仏像(仏眼)にみられることでもあり、なお、その「みられてもいる」という感覚がいつしか「見守られている」という身体感覚に転換していけば、それはある種究極の、仏像のみかたといってもよいかと思います。と同時に、仏像という対象に集中することによって、わが散心を常心へと方向づけ、少なくともひと時、心穏やかな時空に身を置くことができるであろうことをみてきました。しかし、仏像のみかたには、実はもう一つ奥があります。それは端的に、私たちを見守っておられる仏眼、つまり、仏や菩薩のもののみかた・人を見る目に学ぶということです・・・196~

なるほど。仏像を見ると言いつつ、私たちは、仏さんの目を見ていたのです。
あの山田寺仏頭が、なぜ私を引きつけるのか。それは、そのまなざしに引きつけられていたのです。火災に遭って、頭部だけ、しかもあばたになっておられても、私を引きつけるのは、あのまなざしだったのです。
仏さんが何を見ているか、私は仏さんの目を通して何を見ているか、仏さんはあの目を通して私の何を見ておられるか。仏頭を見ることによって、私は私の心を見ていたのです。
それを導く仏頭の目。その目を彫った仏師は天才ですね。

会話のない生活

2018年8月20日   岡本全勝

国立社会保障・人口問題研究所が、「生活と支え合いに関する調査結果」を公表しました。ニュースでも取り上げられていたので、ご覧になった方もおられるでしょう。

「結果の概要」Ⅳ「人と人とのつながり・支え合いの状況」p20~が、衝撃的です。毎日会話している人が、60歳未満では95%程度です。5%の人は、毎日は会話してないのです。そのうち1%の人は、2週間に1回以下です。そして、60歳以上になると毎日会話している人は9割に減り、80歳以上になると8割に減ります。大きな要因は、一人暮らしでしょう。図表Ⅳ-1
もっとも、単身高齢者でも、毎日会話している人が男性では5割、女性では6割います。他方で、夫婦2人暮らしでも、毎日会話していない世帯が1割くらいあります。2週間に1回以下という夫婦も2%くらいいます。図表Ⅳ-4。

頼れる人がいるかという問もあります。図表Ⅳ-5。
この調査結果が示しているのは、孤独な人たちが多い現実です。

仏像を見る、仏像に見られる

2018年8月19日   岡本全勝

多川俊映・興福寺貫首著『仏像 みる・みられる』(2018年、角川書店)が、勉強になりました。私たちが仏像を見る際の「気持ち」、すなわち、仏さまを見るとなぜ厳かな気持ちや落ち着いた気持ちになるのかを、明晰に説明しておられます。長年の謎が、解けました。

・・・古い仏像には、身体を欠いたいわゆる仏頭というのがある一方、頭部を欠いたトルソーのような御像もあります。つまり、仏眼が有るのと無いのという二つの例で、仏像というものを考えてみたいと思います。随分前まだ青年僧だった頃、筆者は、頭部を欠いたトルソー仏像を本尊にした法要に式衆として参加したことがありました。その仏像は奈良時代の作例で、衣文は実に流麗であり、全体の雰囲気もなかなか神秘的で、それは美しい御像でした。しかし、いざ法要になり礼拝し着座しても、なにか心が一向に落ち着きません。慣れない場所での法要でしたので、多生の違和感や緊張感はありました。しかし、それもふつうなら最初のうちだけで、その後だんだん心がしっくりと落ち着いてくるのですが、その時ばかりは、それこそ最後の最後まで、その違和感は消えませんでした。これは一体、どうしたことなのか――。

しかし、興福寺に戻ってきて、白鳳の仏頭を拝した瞬間、その原因がすぐにわかりました。――くだんの法要の本尊には、お顔がなかった! トルソーのようなお像でしたから、そんなことは最初からわかっていたはずなのですが、仏頭の前に立った瞬間、――仏像って仏眼なんだ。と、それこそ目からウロコでした。私たちは、礼拝のためであっても・鑑賞のためであっても、いずれであれ、この目で礼拝の対象・鑑賞の対象をみます。しかしそのさい、私たちがいわば一方的に見ているのですが、それは、その仏像の表情を看取してもいる。端的にいえば、みているのだけれど、同時に、みられていもいる。――つまり「みている」のと「みられていもいる」という双方向性のなかで、心がおのずからしっくりとしてくるわけです。そういうことが、トルソー像の場合、みてもいなし・みられているといういわばリアクションもない。――これでは、心が定まらないのも道理です・・・p181~

ここに出てくる白鳳の仏頭は、山田寺仏頭と呼ばれるものです。私が日経新聞コラム「仏像」で書いたあの仏頭です。この項続く

敗戦の認識5 政治責任と行政2

2018年8月19日   岡本全勝

敗戦の認識の続きです。
戦争責任、諸外国との道義的責任を決め説明することは、どの役所の担当となるか。前回は、担当した役所が廃止された場合に、きちんと引き継がないと、その責任(謝罪と償い)は宙に浮く可能性があることを説明しました。
今回は、もう一つの問題です。

前回の議論は、内閣の事務はすべて、いずれかの府省に分担されているという前提で進めてきました。その前提に立たないこととすると、もう一つの議論ができます。
内閣(総理大臣)の仕事には、各府省に割り振ることのできないものがあるという考えです。
重要な判断、また大きな価値判断を伴う決定は、行政(官僚)はできない。それは、政治の責任であるという考えです。そのような判断は、国会や内閣(総理大臣)が決定し、それに従って行政(各府省)が処理するということです。
それは、行政が分担管理できない分野というより、政策決定過程の問題と捉えることができます。

戦争責任論の場合、国家として、国民や諸外国とその国民に、どのような認識を示しお詫びをするか。それは、国会と内閣が決めることでしょう。
外務官僚は、決まったことを諸外国に説明することはできますが、自らの責任で「国会答弁案」や「総理の外交での演説案」「総理談話」を書くことはできないのです。

このほかに、生命倫理に関することなどもそうです。理屈では判断できない問題です。
例えば、何をもって死と認定するかです。私の記憶にあるのは、2009年の臓器移植法改正です。子どもの脳死をどう判定するかが、問題になりました。議員提案の4つの案が採決されました。国会では、各党が党議拘束を外して、各議員の判断に任せました。
このときに、総理秘書官として、内閣や行政としての判断を求められたら、どのように対応するべきかを考えました。厚生労働省も「これです」といった案はつくれないでしょう。一人一人の判断が分かれる問題であり、内閣が決定し押しつけることは難しいでしょう。政党も意見集約をしませんでした。
死刑廃止論も、同様だと思います。各人の判断が分かれる問題です。法務省は現行制度の説明はできますが、廃止すべきかどうかの判断はできないと思います。

このような国民の間で判断の分かれる重要な価値の問題は、国会や総理が決定することです。
現行制度の問題点、選択肢、それぞれの利点と欠点を提示することは官僚機構もできますし、それが任務です。しかし、それを問題として取り上げるのか、どの案を選ぶのかは政治の責任です。それに従って、割り振られた担当省が事務を執り行うのでしょう。
日常の行政事務でもこのような役割分担はなされているのですが、国民の間で議論が分かれている、大きな価値判断の問題では、よりその分担が明確になるのです。

関連して、「忌まわしい過去を忘却する戦後ヨーロッパ

敗戦の認識4 政治責任と行政

2018年8月18日   岡本全勝

敗戦の認識の続きです。
内閣の仕事は、各大臣(各府省)に分担管理されています。それぞれの事務について、担当府省があります。(内閣法第3条 各大臣は、別に法律の定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する。)

では、このような「道義」や「責任」についての所管省はどこか。
戦争を実行したのは、陸海軍です。しかし、この役所(陸海軍)は廃止されました。引き上げに関することは厚労省に引き継がれていますが、戦争そのものに関することは引き継がれていないでしょう。例えば、日本陸軍が遺棄した化学兵器の処理は、内閣府にある遺棄化学兵器処理担当室が所管しています。防衛省ではありません。

外交については、外務省があります。よって、現在は、諸外国との交渉や話し合いの際には、外務省が担当します。しかし、戦争責任や日本の道義的復興について、政府が決めたことを話すことはできますが、それ以上のことは難しいでしょう。
では、戦争責任、諸外国との道義的責任を決め説明することは、どの役所の担当となるか。

国家の責任と所管省庁という問題には、二つのことが含まれていると思います。
一つは、戦争を始めた責任、戦争を遂行したことによって苦しみを与えたことについての、責任官庁はどこかということです。
所管がはっきりしている事務の場合は、問題ありません。例えば、国家が間違ったことをして、その責任を認めた例として、「らい予防法国賠訴訟判決」があります。「厚労省のホームページ」この場合は、厚生省、現在の厚生労働省です。

しかし、陸軍と海軍が廃止されたことで、どの省庁に引き継がれたか、不明確になったのではないでしょうか。
国家行政ですから、法令上は、廃止された組織の事務はいずれかの組織に引き継がれているはずです。しかし、陸軍や海軍の所管事務に、戦争を開始したことに関する責任は明記されていなかったでしょうから、明確に後継組織に引き継がれたかどうか。不確かなことを言ってはいけませんが、規定上はそのような引き継ぎはなかったと思います。

似た事例で、東京電力福島第一原発の事故の責任があります(一次的には東京電力の責任です)。すなわち、事故を防げなかった責任、事故が起こった際に適切な冷温停止作業ができなかった責任、国民への情報提供や近隣住民の避難誘導を適切に行わなかった責任です。
これを所管していたのは、経済産業省の原子力安全・保安院です。東京電力福島第一原発の事故を受けて、廃止されました。その事務のほとんどは、環境省の原子力規制委員会に引き継がれました。しかし、原子力規制委員会の所掌は、これから起きる原子力事故の防止であって、既に起きた事故の後始末は所管外です。原発事故の後始末(廃炉、被災者支援、避難指示の解除など)は、原子力災害本部が担っています。
事故を防げなかった責任や適切な避難誘導ができなかった責任は、原子力規制委員会も原災本部も引き継いでいないでしょう。もっとも、保安院は経済産業省の下部組織だったので、経済産業省がその責任を引き継いでいると理解することは可能です。国民へのお詫びや責任者の処分に関してです。

問題を起こした組織が、そのことによって取りつぶされる場合があります。しかし、与えた被害についての責任(の引き継ぎ)を明確にしておかないと、責任(謝罪と償い)が宙に浮くことがあります。私はこれを「お取りつぶしのパラドックス」と呼んでいます。(その二は次回に