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経済

持田先生・続き

5 ナショナル・スタンダード
先生は、ここで、「ナショナル・スタンダード」という言葉を使っておられます。ナショナル・ミニマムという言葉は、よく知られています。「政府が国民全員に保障するべき最低限の公共サービスの水準」という意味です。(日本国憲法25条1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。)
これに対し、ナショナル・スタンダードは、最低ではなく、標準的な水準といった意味です。
私は、地方交付税制度を解説する際に、交付税が算定している(財源保障をしている)行政サービスの水準を、ナショナル・ミニマムではなく、ナショナル・スタンダードだと説明しました。
例えば、拙著「地方財政改革論議」(2002年、ぎょうせい)p80で、地方歳出の水準論として、この議論をしました。次のようにです。
・・国が定めている内容・水準と国が期待している内容・水準が、国の予算と地方財政計画に計上され具体化される。地方財政計画が含んでいる歳出内容・水準は、ミニマムというより、ナショナル・スタンダードと呼ぶべきものであろう。
法律では、地方交付税を「地方団体がひとしくその行うべき事務を遂行することができるように国が交付する税をいう」(地方交付税法第2条第1号)と定義し、また単位費用については「標準的条件を備えた地方団体が合理的、かつ、妥当な水準において地方行政を行う場合又は標準的は施設を維持する場合に要する経費を基準とし」(同条第6号)と定めている。ここでは「ひとしくその行うべき事務」とか「標準的」、「合理的、かつ、妥当な水準」という言葉が使われており、「ナショナル・ミニマム」や「最低限」といった言葉はでてこない・・
地方財政計画と地方交付税の歳出内容は、標準的=スタンダードであって、最低限=ミニマムではない・・・
ひょっとしたら、このような文脈で「ナショナル・スタンダード」という言葉を使ったのは、私が最初かもしれません。

持田先生・続き

3 小さな政府・大きな政府論
GDP比で測ると、日本は国民負担では小さな政府、歳出では中規模の政府になります(差は、借金)。大きい小さいは、国際比較です。(財務省の資料をご覧ください)
でも、子供のいる家庭に給付金を出せば、それだけ全体の財政がふくらみます。同じ金額を各家庭に減税すれば、全体の財政規模は小さくなります。効果は同じでも、手法によって、財政規模は変わるのです。
もう一つの例を、出しましょう。自賠責保険です。自動車事故に備えて、強制加入になっています。でも、実際の保険は、民間会社に任せています。政府がしているのは、法律で強制することと、無保険者が起こした事故についての補償です。国が保険を直営するより、はるかに歳出規模は小さくなります。
それはさておき、行政学にこの議論を広げれば、単に財政規模の大小ではなく、「範囲」と「程度」と「効率」の議論になります。
政府がどのような問題まで引き受けるかが、「範囲」の問題です。かつて、高齢者の介護は、家庭の仕事でした。その後、福祉として介護サービスを導入し、さらに2000年には公的保険制度にしました。これで、政府の仕事は増えました。以前より、大きな政府になったのです。
次に、どの程度まで介護サービスを提供するか、これが「程度」の問題です。もちろん、サービスを手厚くすれば、負担も増えます。そして、大きな政府になります。
さらに、「効率」の問題があります。同じサービスをするのに、自治体が直営するのか、民間委託にして、安くあげるのかです。ごみ収集や学校給食など、市町村の直営と民間委託とでは、コストに2倍の差があると報告されていました。
もう一度介護を例に出すと、昔は行政が直営し、ホームヘルパーは公務員が多かったのです。しかし、介護保険導入に際し、介護される人が、民間サービスを選ぶ形にしました。
かつての「小さな政府論」は、行政改革としての効率化、多くは民間委託の推進でした。しかし、それは、今の議論で言うと、最後の「効率」の話です。
私は、これからの政府と自治体は、「引き受ける範囲は広いが、効率的でスリムな政府」になるべきと考えています。
4 地方交付税制度による「所得再分配」機能
先生は、次のように書いておられます。
「・・日本では、大都市と地域、また近代部門と農業などの伝統部門との格差が大きい。このため所得階層間ではなく、むしろ地域間、産業間を基準にした再分配のウェートが高い。地方財政調整制度によって、ナショナル・スタンダードでのサービス供給の財源が保障されている・・」
指摘の通りだと思います。
地方交付税制度は、自治体間格差だけでなく、結果として個人間の格差も調整してきました。生活保護などは直接、学校教育などは現物給付として、公共事業産業振興は雇用を通して間接的にです。
この点に関して、私はかつて、地方財政制度(補助金と交付税)の機能として、「地域間再配分と国民間再配分を分けて議論すべき」と発言したことがあります。(パネルディスカッション「都市対地方:財政、公共事業、一極集中の是非をめぐって」日本経済学会2004年度秋季大会)
(この項続く)

国家の役割変化と財政学

持田先生の「混沌から希望への羅針盤」を読みながら、いろんなことを考えました。(12月7日から続く)
1 国家の役割、福祉が中心に
先生は、「福祉国家財政」という観点を、著書の中心に据えておられます。歳出では社会保障費を取り上げ、歳入では社会保障負担を大きく扱っておられます。社会保障費は、他の先生の教科書でも出てきます。
先生は特に、「社会保険拠出を既存の租税と合わせて総合的にとらえた」と述べておられます。「社会保険拠出の実態は、保険の仕組みと政府の強制力を利用した世代間の租税・移転制度に限りなく近づいている」。そして、社会保険拠出は税制の累進性を低下させると指摘し、「納税者の公平な負担」を考えるためには、社会保険拠出を真正面から議論しなければならないと、述べておられます。
私は、これを「国家の役割の変化」と理解します。すなわち、財政的にも、かつての産業振興・社会資本整備から、福祉の役割が大きくなり、それが中心になったということです。
2 歳出だけでなく負担の議論が必要
すると、財政学の議論の仕方も、変わってきます。
かつての産業振興・社会資本整備の場合は、歳出を議論すればすみました。もちろん「減税」という手段も使いましたが、それはいわば補助金の一種であり、歳入論として大きくは議論されません。これまでの歳入の議論は、総量確保と、誰に負担させるか(累進度など)の議論でした。
しかし、福祉の場合は、所得再配分の観点から、歳出だけでなく、「負担=租税+保険料」の議論が必要です。それも総量でなく、個人への帰属の議論が必要なのです。
「給付付き税額控除」は、その典型です。貧しい人への支援として、低所得者には減税します。しかし、さらに収入が低い人は納税していないので、減税ができず、この人たちには現金給付をするのです。税金という負担の議論が、給付という歳出の議論に連結しています。

日本の社会保障、自由主義・保守主義・社会民主主義の混合

先生は、それに続けて、次のように書いておられます。
・・一般政府支出および社会保障給付の対GDP比を見ると、日本は先進国の中ではアメリカについで低い。この点に着目すれば、《自由主義的レジーム》の要素をもつといえる。社会サービスの領域ではヨーロッパのように公的部門が提供するのでもなく、またアメリカのように市場で購入されるのでもない。伝統的に日本では、基幹産業の従業員向けの企業内福祉と家族共同体の中で提供されてきた。それによって、社会保障関係費は、低位に保たれた。
つぎに、社会保障給付の内容に着目すると、アメリカやイギリスに比べ、社会保険の比重がやや高い。しかも、より重要な特徴は、社会保険制度が産業、職業、年齢別に分立していることである。同一の属性を有する人々がお互いにリスクをシェアし、かつ助け合うという連帯志向である。この点に着目すれば、日本は《保守主義的レジーム》の要素もある。
さらに、狭義の社会保障費以外にも、福祉国家を財政的に担保している仕組みがある。日本では、大都市と地域、また近代部門と農業などの伝統部門との格差が大きい。このため所得階層間ではなく、むしろ地域間、産業間を基準にした再分配のウェートが高い。地方財政調整制度によって、ナショナル・スタンダードでのサービス供給の財源が保障されている。この点に着目すれば《社会民主主義的レジーム》の要素もある・・

財政学者の夢・持田先生

持田信樹東大教授が、先日このページでも紹介した著書「財政学」を書かれるに当たっての思いを、東大出版会PR誌『UP』12月号に書いておられます。「混沌から希望への羅針盤」。
・・日本の財政は平成の「失われた10年」の後遺症ともいうべき公的債務残高の塊と格闘している。しかも貧富の懸隔は拡がり、地方は疲弊し、生命を守る医療や老後の安心を支える年金制度にも綻びが目立つ。頼みの綱となる税制はやせ細っているが、負担の問題を真正面から議論することは先送りされている。混沌と社会を覆う閉塞感を払いのけて、希望に満ちた未来へとわれわれを導いてくれる曙光が差してくるのは、一体いつになるのであろうか・・
・・問題の設定の仕方が正しければ、半分は解けたも同然だといわれる。それと同じように、財政の将来を展望するには何よりも現状をトータルに正しく把握することが必要だ。しばしば「大きな政府」か「小さな政府」なのかという形で財政の将来像が議論される。一体、先進諸国の福祉国家と比べた場合に、日本はどのような特色をもつのだろうか。
『財政学』の最終章では、高い福祉需要と低い租税負担という正反対の極の間を揺れ動きながら、財政システムが将来どのように変貌するのかを展望した。書店の本棚で手にする教科書の目次の中に、読者がこのような章を発見するのは稀であろう。
財政学者の夢とは何だろう。・・筆者にとっては、財政学という切り口から現代国家の本質と今後の行方を探ることが夢であり、目標である。そして《福祉国家財政》という観点から、この夢に近づこうとした・・
「学問は、価値判断からは、中立でなければならない」と主張する人もいます。しかし、行政や財政など、現実の社会を対象としている学問において、それは成り立たない、あるいは役に立たない議論になる、恐れがあると思います。