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巨大情報通信企業の情報開示

12月24日の日経新聞、ファイナンシャルタイムズ、ラナ・フォルーハーさんの「テック大手、広く収益開示を 個人情報の価値反映」から。

・・・米国のアルファベットやアマゾン・ドット・コム、メタ(旧フェイスブック)といったプラットフォーム大手や、マイクロソフトが利用者に関する多くの情報を追跡しているのは周知の事実だ。
ただ、検索から電子商取引、SNS(交流サイト)、クラウドコンピューティングまで、これら企業が運営するプラットフォームで得る情報からいかにして利益を得ているかはあまり明らかではない。彼らが握る情報量の多さに対し我々、利用者の知る量はあまりに少ない。この非対称性は、大手テックへの核心的批判の一つとなっている。
米欧の規制当局は、テック大手がこの情報の非対称性を武器に消費者や企業顧客に不利な状況を作り出している点を問題視し、調査している。

英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)のイノベーション公共目的研究所(IIPP)が12日に発表した報告書は、テック大手への逆風をさらに強める内容だ。これによると、テック大手は米証券取引委員会(SEC)の年次報告書(10K)の開示規則を逆手にとって、本来なら提供すべき詳細な財務情報の開示を回避しているという。
米オミダイア・ネットワークが資金を提供したこの研究プロジェクトでは、UCLの研究者のイラン・ストロース氏、ティム・オライリー氏、マリアナ・マッツカート氏、ジョシュ・ライアンコリンズ氏がSECの開示規則がデータを収益化するIT大手の事業モデルに適しているかを調べた。結論はあまり適してないというものだった。
消費者物価を企業の独占力の尺度とする米国の現反トラスト法(独占禁止法)が、無料でサービスを提供する代わりに利用者のデータをテック企業が得る手法が横行する今の時代に不向きなように、SECの現在の開示規則も大量の個人情報を使って巨額の利益を稼ぐ監視資本主義には適さない。

根本的問題が2つある。第一は、今の金融規制当局は財務情報にしか目を向けていない点だ。テック大手は無料でサービスを提供し、利用者の増加がさらなる利用者増につながるネットワーク効果を発揮できる規模まで利用者を増やすことで自社のあらゆる製品やプラットフォームからデータを収集、それを収益化している。財務情報しか開示せずにすむおかげで、テック大手は市場を支配している実態を隠して利益率を上げ、様々な不公正な方法で自社プラットフォームの優位性を高めることが可能になっている。
第二にテック大手など多様な事業を抱える複合企業のセグメント開示に関するSEC規則は、プラットフォームで収集するデータに秘められた巨大な価値を認識していない。今の規則は収益を直接的に生む製品しか対象にしていない。テック大手を理解していれば誰でもわかるが、膨大なデータを集積し、それを収益化できる点に価値がある・・・

佐伯啓思先生「資本主義の臨界点」2

佐伯啓思先生「資本主義の臨界点」」の続きです。
・・・ところが、高度な工業化による大量生産・大量消費による経済成長は、先進国では1970年代には頂点に達する。そこでその後に出現した「成長戦略」は何かといえば、80年代以降のグローバル化、金融経済への移行、それに90年代の情報化(IT革命)であった。先進国は、グローバル化で発展途上国に新たな市場を求め、新たな金融商品や金融取引に利潤機会を求め、ITという新技術にフロンティアを求めた。そして、その結果はどうなったのか。
それらは、ほとんど先進国に富も利益ももたらさなくなりつつある。グローバル化は中国を急成長させたが、米欧日などの先進国は、成長率の鈍化、格差の拡大、中間層の没落などに悩まされる。モノの生産から金融経済への移行は、金融市場の不安定化と資産の格差を生み出した。情報革命は一握りの情報関連企業に巨額の利益を集中させた。いわゆるGAFA問題である。明らかに新たなフロンティアは限界に達しつつある。

今日、先進国は、一方では、格差問題の解消へ向けた所得再分配に舵をきるといい、他方では、改めて新興国の市場を取り込むグローバル化と、デジタル技術の革新に活路を求めている。結局「グローバリズム」と「イノベーション(技術革新)」を成長に結びつけ、その成果をもって格差を是正しようというのである。
では「グローバリズム」と「イノベーション」は成長を可能とするのだろうか。話はそれほど簡単ではない。グローバリズムは、今日、国益をめぐる国家間の激しい競争へとゆきついた。成長戦略や経済安全保障を政策に組み込んで国益を積極的に実現することが国家の責務となった。自由な市場競争どころではない。新重商主義とでもいうべき国家主導の経済戦略なのである。

また、イノベーションが経済成長を実現するなどと気楽に構えるわけにはいかない。今日のイノベーションは確かに一企業の生産効率を高め、労働コストを低下させることは事実であろう。しかしそれが意味するのは、勤労者の所得の低下である。少なくとも総所得が上昇するとは考えにくい。ということは、総消費は増加せず、GDP(国内総生産)の増加はさして見込めないであろう。
かくて、AIやロボットや自動運転装置等のイノベーションは目覚ましく、確かにわれわれの生活を変えるであろうが、だからといってそれが経済成長につながるという保証はどこにもない。新技術が大衆の欲望フロンティアを開拓して大量生産・大量消費の好循環を生み出した高度成長の60年代とはまったく異なっている。
とすれば、空間、技術、欲望のフロンティアを拡張して成長を生み出してきた「資本主義」は臨界点に近づいているといわざるをえない。「分配」と「成長」を実現する「新しい資本主義」も実現困難といわざるをえないだろう・・・

・・・近代社会とは、人間が、己の活動や欲望について無限の拡張を求める社会であった。科学や技術によって自然を支配し、それを自らの自由や欲望の拡張に向けて改変する時代であった。そこに無限の進歩があるとみなした。資本主義は、近代人のこの進歩への渇望に実にうまく適合したのである。
そして今日われわれは、人間の外部に横たわる自然を改変するだけではこと足りず、AIや遺伝子工学、生命科学、脳科学等によって、われわれ自身を改変しようとしている。これらの新しいテクノロジーによって一層の自由や富や寿命を手に入れようとしている。本来的に有限で、いわば「死すべきもの」である人間が、無限で「永遠なるもの」へと接近しようとしているようにも見える。人間が人間という「分限」を超え出ようとしている。近代の欲望は、まだ「有限性」の中にあって少しずつフロンティアを拡張するものであった。だが最近の技術は、それさえも超え出てしまったのではなかろうか。
皮肉なことに、人間の「有限性」を突破しかねない今日の技術のフロンティアにあって、先進国は経済成長の限界に突き当たっている。われわれはようやく「資本の無限の拡張」に疑いの目をむけつつある。とすれば、われわれに突き付けられた問題は、資本主義の限界というより、富と自由の無限の拡張を求め続けた近代人の果てしない欲望の方にあるのだろう・・・

佐伯啓思先生「資本主義の臨界点」1

12月18日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「資本主義の臨界点」が興味深く、勉強になりました。

・・・「資本主義」が近年の論壇をにぎわしている。若きマルクス研究者の斎藤幸平氏の「人新世の『資本論』」がベストセラーになったこともあろう。ついに、というべきか、はてさて、というべきか、岸田文雄首相の所信表明演説にまで「資本主義」が堂々と登場することとなった。自民党選出の首相が国会の場で「資本主義」の語を連発するという事態を誰が想像しただろうか。未来社会を切り拓く「新しい資本主義」を模索するという。

半世紀ほど前の1970年前後、マルクス主義の影響もあり「資本主義」は徹底してマイナス価値を付与された言葉であった。ほとんど悪の象徴のようなものである。当時、社会主義へのシンパシーを公言するマルクス主義者は、「資本主義」の語を否定的な意味で喜々として使用していた・・・
・・・とはいえ、アメリカを聖地とする大方の市場擁護派は、冷戦のさなか、社会主義へと直結するマルクス主義を強力な論敵とみなしていた。したがって、オーソドックスな経済学では「資本主義」の語はまず使われない。もっぱら「市場経済」の用語が使われる。「資本主義」の語が肯定的な意味を帯びるようになったのは、90年前後の冷戦終結あたりからである・・・

・・・だが、そもそも資本主義とはいったい何なのか。首相のいう成長を可能とする「新しい資本主義」というものがありうるのだろうか。
「資本」つまり「キャピタル」とは「頭金」である。それは「キャップ(帽子)」や「キャプテン(首長)」という類似語が暗示するように、「先導するもの」である。未知の領域を切り開き新たな世界を生み出す先導者であり、そのために投下されるのが「頭金」としての「資本」である。資本は、未知の領域の開拓によって利益を生み出し、自らを増殖させる。したがって、さしあたり「資本主義」とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて自らを増殖させる運動ということになろう。

ただこの場合に重要なことだが、資本が利潤をあげるためには資本はいったん商品となり、その商品が売れなければならない。言い換えれば、そこに新たな市場が形成され、新たな商品を求める者がいなければならない。こうして、資本主義が成り立つためには常に新商品が提供され、新たな市場ができ、新たな需要が生み出されなければならない。人々が、たえず新奇なものへと欲望を膨らませなければならない。端的にいえば、経済活動の「フロンティア」の拡大が必要となるのであり、この時に経済成長がもたらされる。
この点で、「資本主義」は「市場経済」とは違っていることに注意しておきたい。「市場経済」はいくら競争条件を整備しても、それだけでは経済成長をもたらさない。経済成長を生み出すものは「資本主義」であり、経済活動の新たな「フロンティア」の開拓なのである。そして「市場経済」分析を中心とする通常の経済学は、基本的に「資本主義の無限拡張運動」にはまったく関心を払わない・・・

・・・大雑把に歴史を振り返ってみよう。資本主義がヨーロッパで急激に活性化した発端には15世紀の地理上の発見があった。一気に地球的規模で空間のフロンティアが拡張した。新大陸やアジアを包摂する新たな空間の拡張は、歴史上最初のグローバリズムであり、ヨーロッパに巨大な富をもたらした。この富によって19世紀に開花するイギリスの産業革命は、驚くべき勢いで技術のフロンティアを開拓し、帝国主義時代をへて20世紀ともなると、アメリカにおいてあらゆる商品の大量生産方式へとゆきついた。そしてこの大量生産を支えたものは、膨大な中間層をになう大衆の旺盛な消費であった。
つまり、外へ向けた空間的フロンティアの開拓(西部開拓のアメリカや帝国主義のヨーロッパ)の次に、20世紀の大衆の欲望フロンティアの時代がやってきた。戦後の先進国の高い経済成長を可能としたものは、技術革新や広告産業が大衆の欲望を刺激し続けることで、工業製品の大量生産・大量消費を生み出した点にある・・・
この項続く

超金融緩和策の副作用

12月23日の日経新聞経済教室、加藤出・東短リサーチ社長チーフエコノミストの「「何でもする」の姿勢見直せ 中銀の使命と気候変動」に、超金融緩和策の副作用が指摘されています。以下に、私の整理で引用します。
1 金融緩和策とは結局のところ、金利を押し下げて企業や個人に借金をつくらせ、それにより将来の投資や消費を手前に持ってくることで景気を刺激する政策だ。低インフレの原因がグローバル化、IT(情報技術)化、高齢化、人口減少など構造的要因にあるならば、その有効性は限られる。それを続けていると、前倒しできる将来の需要は細り、刺激効果は低減してしまう。
2 容易に入手できる低利の資金が生産性の低い投資やゾンビ企業の延命に使われる。
3 世界多くの銀行、保険会社、年金基金が深刻な資金運用難に陥るなど。
4 政府が債務を大幅に増やす要因になる。

私は、3の犠牲者がたくさん出ていることを心配しています。基本財産の運用益で事業を行っている、文化財団などです。
かつては、銀行に預けることで金利が生まれ、それを用いて、美術館の運用や奨学資金を出していました。この超低金利では、利子は生まれず、事業を続けるために基本財産を取り崩しています。そして、行き着く先は解散するしかありません。株式の運用などの手法もありますが、そのような基金には、それができる人も経験もありません。
その点では、この超低金利が続くことは、とても罪なことです。後世の人たちは、この超低金利政策を、このようにも評価するでしょう。
そして、この数年間の経験は、金利政策だけでは経済成長を押し上げることはできないことが実証されたのではないでしょうか。

松元崇さん、国民の創造力を発揮させる

12月29日の日経新聞経済教室は、松元崇・元内閣府事務次官の「国民の創造力発揮へ基盤整備 所得倍増計画の歴史に学ぶ」です。
・・・池田首相のブレーンで高度成長期の所得倍増計画を理論付けた下村は、著書「日本経済成長論」(1962年)で「私は経済成長についての計画主義者ではない」と明言していた。そして「私の興味は計画にあるのではなくて、可能性の探求にある。(中略)国民の創造力に即して、その開発と解放の条件を検討することである」と述べていた。
そのうえで「何がそういう経済の成長を推進するのか。これは要するに人間だということです。人間の創造力だということです。(中略)そういうものが自由に発揮されるということがあって、はじめて経済の成長を推進するような力が生まれてくる」と指摘していた・・・

・・・下村が経済成長を推進する力だとした「人間の創造力」とは、ケインズの言うアニマルスピリットだ。ケインズ経済学に基づく経済政策では、景気回復はもたらされるが、経済成長はもたらされない。では何が経済成長をもたらすのかと問われたときのケインズの答えがアニマルスピリットだった。とはいえ、それを発揮させるには、そのための条件整備が不可欠だ。
下村理論が画期的だったのは、日本経済に力強い成長力があることを論証したうえで、その成長力を発揮させるために求められる具体的な「条件を検討」したことだ。池田も首相就任後の参院予算委員会で、所得を2倍にするのではなく2倍になるような環境をつくるのだと答弁している。
下村は当時の状況に鑑みて、日本経済の高度成長にとって重要なのは設備投資の増加速度で、それに資する基盤整備が必要とした・・・

・・・では下村の問題意識を今日に当てはめた場合、経済成長のためにはどのような基盤整備が求められるのだろうか。
筆者は、老若男女を問わず全ての人が人生の中でいつでも再チャレンジできるようにサポートする教育制度と全世代型の社会保障制度だと考える。一生の間に何度も転職することが当たり前になった今日、その2つが国民の創造力を自由に発揮させる基盤になる。
下村の時代は、戦後の焼け野原から生活を再建していかねばならないハングリーな時代だった。全ての人にチャレンジが求められていた。人々にチャレンジできる場を提供する産業インフラの整備が、国民の創造力の発揮に直結していた。
だが今日、国が豊かになった半面、人々はチャレンジしなくなった。一度失敗すると立ち直るのが難しい社会になっている。失敗しても何度でもチャレンジできる社会にしていく。それが人々の創造力を解放し、国全体の成長や人々の幸せにつながっていくはずだ。

そのような基盤整備に財政投融資を活用できるかといえば否であろう。教育制度や全世代型の社会保障制度は、そこからの収益で投資資金の回収が見込めるようなものではないからだ。
とすれば、重要なのは税ということになる。そこで障害になるのが、とかく増税を嫌う昨今の世論だ。そしてその世論の背景にあるのが、かつての高度成長が円安や小さな政府の下に、政府の「計画」で実現したという思い込みだ。その思い込みをそのままにしておいたのでは、現在の日本の低成長を脱却させるためのまともな議論はできない・・・

いつもながら明快な、そして目から鱗が落ちる指摘です。史実に基づいた説明なので、説得力があります。ぜひ、全文をお読みください。