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社会

日本料理を世界に、今こそ攻め時や

朝日新聞夕刊連載「人生の贈り物」。今週は、料亭「菊乃井」主人の村田吉弘さんです。ロンドンで、会席料理の店を開いておられます。25日の記事に、次のような発言が載っています。京都の本店とは変わった、ロンドン風にアレンジしたメニューが話題だそうです。
・・・相手が望むもんを出すのは、料理の基本やね。「これが本物やから、これ食え」っていうのは、乱暴な話やろ・・
そこの国の食材で作らんと、日本料理は根の生えたもんになって、どこにもいけなくなる。外国のお母さんがうちで、「今日はすしつくるわ」といわはるようになって、世界に定着したといえるわけや・・

終末期での仏教の出番

1月28日の朝日新聞夕刊に、「僧侶が寄り添う終末期、仏教版ホスピス『ビハーラ』」が紹介されていました。20年前から、仏教を末期ケアに取り入れている新潟県長岡市の病院の例です。末期がん患者らの緩和ケア病棟、ベッド数27です。中央部に、ナースステーションと仏堂があり、菩薩像が置かれています。
ビハーラ」は、サンスクリット語で休息所や寺院の意味です。キリスト教に基づくホスピスではなく、仏教を背景とした看取りの場を指すことばとして、提唱されています。
お年寄りが、お経を読むことを許さない雰囲気がある病院もあるとのことです。「それは医療行為ですか」と。自宅では毎日、仏壇に手を合わせていた人たちです。手を合わせることで、心が安らぐのでしょう。
「お坊さんなんて、縁起でもない」という人もいるようです。しかし、平安時代の浄土思想以来、仏様が迎えに来てくださるという考えは、日本の庶民に広く行き渡っています。「葬式仏教」では、お迎えが来てから(亡くなってから)、お坊さんの出番がありますが、これも変な話ですよね。
たくさんの人が、功徳を求め、また「ぴんぴんころり」という死に方や、あの世(極楽浄土)での生まれ変わりを願って、お寺に参りお賽銭を入れます。遺族のためだけでなく、本人のためにも、最後の苦しみの場に、仏教の出番があって良いでしょう。
大震災を期に、宗教が社会で果たす役割が見直されている、一つの例です

戦争の歴史

マイケル・ハワード著『改訂版 ヨーロッパ史における戦争』(2010年、中公文庫)を読みました。数週間前に読み終え、このホームページで紹介しようと考えていたのですが、パソコンの前に放置してありました。中世から現代までの戦争を、小さな書物で解説することは、とても難しいことです。大胆な切り口で分析と分類をしないと、収まりません。この本では、次のような視角で、時代を追って分類しています。
封建騎士の戦争、傭兵の戦争、商人の戦争(交易と海賊)、専門家の戦争(専門的軍隊の出現)、革命の戦争(ナポレオンの衝撃)、民族の戦争(民族国家の成立)、技術者の戦争(第1次大戦)。
わかりやすいです。戦争の歴史というと、軍事技術の歴史を想定しますが、技術以上に、各時代の戦争がその時代の社会・政治・経済を反映した、それが許す範囲内でのものであったことがわかります。

科学者が、自ら失った信頼

原発事故によって、科学者や技術者への信頼が大きく損なわれました。1月24日の朝日新聞オピニオン欄、有本建男・政策研究大学院大学教授のインタビューから。
「なぜ信頼が失われたと思いますか」との問に対して。
・・原発事故に加えて、事故後の科学者や技術者のふるまいが大きかったと思います。危機のときは、専門家の知識や経験を総動員して対処すべきですが、その先頭に立つべき立場にあった人たちの言動からはその責任感が十分には感じられませんでした。
政府内から学会まで、科学者たちの組織も、積極的に動こうとせず、多くの人の目に触れたのは、テレビなどで個人的見解を披瀝するばかりの人たちでした。まっとうな専門家も大勢いたはずで、そうした人たちが事故に関する情報を得て冷静な議論をし、発信できたらよかったのですが。結局、個人の資質に加え、専門家の知恵をうまく動員する仕組みがなかったことが響きました。市民が一番必要としていたときに役割を果たせなかったのですから、信頼が失われて当然です・・
・・日々の生活から、環境・エネルギー問題、そして経済や外交に至るまで、社会活動の全般にわたって、科学技術は大きな影響を与えています。さまざまな政策決定に、専門知識を持った科学者や技術者の役割は本来、不可欠なはずです。
彼らが信頼されず、原子力規制委員会の人事をめぐる議論でもあったように、ともすれば排除の風潮すらあることは、社会にとって不幸であることはもちろん、日本という国自体が海外から「信頼できない国だ」とみなされるのではないか、と心配しています・・

「どうすれば良いか」との問に対して。
・・科学者とその集団の思考の枠組みや価値観を変えることです。相変わらず「論文か死か(publish or perish)」という古い価値観にとらわれている研究者が多い。社会や学問体系の中での自分たちの位置を明確に意識し、公共、公益についての深い思考が求められます・・研究者は研究だけしていればいい、というわけではないのです・・
・・社会や政治とつなぐ仕組みを築くことです。欧米諸国には、エネルギーから国土の安全、農業に至るまで国策全般にわたって、科学的根拠に基づいた選択肢を示し、それをもとに政治が判断する仕組みがあります。科学顧問を中心に専門家の知恵を集めて政府に助言し、政府は必ずしもそれに従わなくてもいいが、その場合は理由を明らかにする、といった手続きも決まっています。たとえば、ドイツの指針には、科学者が助言する場合の独立性、透明性の原則があります。さらに、政策助言における知識は学術的な知識を超えることが必要とあります。
欧米の議会には、科学や技術を評価する機関があります。原発事故をめぐって国会に初めて事故調査委員会ができましたが、これからは、国会にも科学技術をきちんと評価する役割が求められると思います・・
(それが)決定的に欠けていました。日本の科学や技術は大変立派だが、社会や行政、政治の中で生かすための仕組みが機能していないのではないか。日本の実情をよく知る外国人にいわれたことがあります。科学的な判断ができ、組織運営にも通じた実務家が日本では評価されていない、との指摘もあります・・
詳しくは、原文をお読みください。

日本のブランド力、その2。自虐趣味は止めよう

・・日本では、国内総生産(GDP)で中国に抜かれたことも意気消沈の一因のようだが、「革新経済学」の著者ロバート・アトキンソンさんはGDP神話に異を唱える。国の生活水準を決めるのはGDPの規模ではなく、働く1人あたりの生産力と所得の伸びであり、その点では日本は10年以上、米国より成績がよい。
「日本経済に問題が多いのは確かだが、日本は悲観的で、米国は楽天的というのは理不尽な感情論」と語る・・
ブランド力を磨く道とは何か。ロゼントレイターさんは、その第一歩は「実現できる最も高い理想の自画像を描くこと」と言う。企業で言えば、IBMがコンピューター会社から地球規模の総合技術革新グループに脱皮したように、高い目標を定め、努力を積むこと。国の場合は、「どんな国になりたいのか」だ。
GfKの上級副社長シャオヤン・チャオさんは、日本は「生活様式」大国を目指せるのに、とかねて考えていたそうだ。省エネで環境を守り、先端技術で生活水準を保ち、世界がうらやむ和食を食べ、米英の競争型とは違う助け合いの長寿社会を営む。北欧とアジアのいいとこ取りの社会文化を伸ばし、そして世界に提言できる潜在力がある。
世界が今でも一目置く黄金の国ジパングの不思議さは、その持ち余す力を自己評価せず、発信も不熱心なことだ。おごる理由はないが、落ち込んでばかりいる理由もない。日本流の技術と伝統の調和社会の高みを目指し、惜しみなく世界と分かつ「生活文化大国」になれたら・・・

日本が世界に誇るべき「生活文化」については、原研哉さんの主張をたびたび紹介しています(日本が提示する生活文化。2009年10月15日の記事など)。

そして、沈黙または自虐について。謙遜は美徳ですが、自虐は罪です。周囲はそれを事実だと思い、日本(あなた)を貶めます。国際社会や市場競争の場で、謙遜はプラスになりません。また、本人たちも、自分の実力よりも低く感じてしまいます。そして、さらに元気をなくす。
少なくともリーダーたる者は、国民や住民、部下を鼓舞するために、その努力をほめるべきです。自虐ではなく、自慢すべきです。そして足らない部分について、挑戦すべきです。評論家も記者も、そうあるべきでしょう。
「全く進んでいない」「遅れている」と言われて、関係者は元気が出るでしょうか。嘘をついてまで、誇大表示をする必要はありませんが、できていることは正当に評価して元気を出させ、できていないところを指摘した方が、生産的です。
批判ばかりの記事を読むと、「この記者さんは、子どもにも、しかってばかりいるのかなあ。よいところはほめてやらないと、子どもは育たないのに」と心配します