カテゴリー別アーカイブ: 生き方

生き様-生き方

寝る前に良かったことを思い出す

2月8日の日経新聞の医療健康面「心の健康学」は、大野裕さんの「スリー・グッド・シングス」でした。

・・・ある会合で、夜寝る前に子どもと一緒にスリー・グッド・シングスを実践しているという女性に会った。おそらく就学前か小学校低学年の子どもだろう。子どもを寝かせつけるときに、その日に起きた良かったことや楽しかったことを話してもらっているのだという。
スリー・グッド・シングスについては、以前に本欄でも紹介したが、その日に起きた良かったことを3つ思い出して書き出すことでこころを元気にする方法だ。良かったことと言っても大げさなことでなくてもよい。日常生活のなかで起きた、こころが少し和らぐような出来事を具体的に思い出す・・・

大人が一人で行うことも効果があるでしょうが、子どもと親が一緒にやると、子どもは気持ちよく寝ることができるでしょう。そしてよい子になると思います。

心は放っておくと暴走する2

心は放っておくと暴走する」の続きです。ぐるぐる回りし落ち込む気持ちや暴走する怒り。それをどうしたら止めることができるか。拙著『明るい公務員講座』では、指を折ることをお勧めしました。

・・・タイ王国では、仏陀の元々の教えに基づく瞑想実践が今も脈々と受け継がれ、一般の人にも知られ、実践されてる。その実践自体はいたってシンプルなもので、自分の中に様々浮かんでくる、思考・感情に「気づく」(awareness、と英語では言う)ことだ。何かを見て、イライラしたり、怒りのような感情が浮かんできたりしたら、「あ、私、今イライラしているな」とか「怒りがあるな」とそれに「パッと気づく」ということである。
なんだそんなこと? と思われるかもしれない。しかし、今浮かんだ感情に「気づく」という“簡単な”ことをずっと行い続けるのは、実はとても大変なのである。人はややもすると、そういう感情や思考に巻き取られて、小さなイライラがいつの間にか大きな憎しみや怒りに変容してしまう。
最初は小さな言い合いだったはずなのに、いつの間にか「離婚する!」とか「家出する!」とか叫んでいたりするような場合には、まさに怒りに巻き取られている状況のプロセスがそこにはあったはずだ。
「はっと我に返る」という言葉があるが、それは「その巻き取られた思考からちょっと距離が置けた」ということだ。

このような自分の中で起きている思考や感情を「観る」練習をタイ仏教研究者の浦崎雅代さんから学ぶまでは、私自身も全く知らずに思考の暴走に苦しんでいた。
私の専門である行動分析学の用語で言えば、自分の身体の内側起きている事象である、私的事象を観察するということに他ならない。そして、この観察ができるのは「唯一私だけ」なのだ。つまり、本当の意味で心の暴走を止めることができるのは「私」だけ、ということになる。
この自らの瞬時に沸き起こってくる思考に気づくことで、それ以降の思考の暴走、心の暴走を止めるという試みは、瞑想のみならず、認知行動療法の領域でも広く実践されている。
私たちは学校で知識や技術については長い年月をかけて学んでいく。しかし、自分の「心」の扱い方については、正直学ぶ機会はほとんどないと言っていいだろう・・・

ご指摘の通りです。連載「公共を創る」でも、社会と個人の倫理や道徳を育てることの重要性を論じているところです。しかし、他者と一緒に生きるための倫理や道徳、自分自身を育てる道徳とともに、このようなどんどん沈んでいく気持ちや暴走する心を扱う教育も必要です。「心の取扱説明書」です。

心は放っておくと暴走する

朝日新聞「ウエブ論座」、三田地真実さんの「東大前刺傷事件から考える~心は放っておくと暴走する「苦しみの正体」 内面に“今ある”感情に気づこう」(2月1日掲載)が、参考になります。「放っておくと体は硬くなる、心は暴走する」は、1人のタイ僧侶の言葉だそうです。

・・・「心は放っておくと暴走する」という冒頭の言葉は、認知行動療法の文脈では「自動思考」と呼ばれる心の動きとほぼ同じ内容を指している。つまり、人は何かを見たり聞いたりすると、パッとそれについてのある考えが「自分の意図とは関係なく勝手に浮かび」、さらにそれが次々と別の思考を呼び起こしていくというプロセスのことである。
自動思考は、特段何かメンタルの問題がある場合にのみ起きるものではなく、今、この文章を読まれている皆様の心にあれこれ浮かんでくる「まさにその思考」のことである・・・

・・・このような思考がどんどん勝手に膨らんでいき、嫉妬や羨望でどうしようもなくなるということは、誰にでもあるだろう。様々な場面で人は「本当は自分の人生とは関係のない出来事」に心を、気持ちを揺さぶられる。そして、自分勝手に苦しいストーリーを作り上げて、さらに苦しんでしまう。「苦しみ」がこのようなプロセスによってもたらされているということすら、ほとんどの人は気づいてはいないだろう。後述するが、このことを看破したのがあの仏陀(ブッダ)だったのである。
実は私自身もこういうネガティブな自動思考で頭の中がぐるぐるしている時期が随分長くあった。もちろん当時それを「自動思考」と呼ぶということすら知らず、程度の差こそあれ、自分よりうまく人生を歩んでいるような人を見るとむくむくと「なんで、あの人があんないい思いをして、一生懸命やっている私が……」といういやーな気持ちに苛まれることがあった。
しかし、それとどう付き合うかという、このような自分の思考の取り扱い方については、「習ったことがない」と気づいた。そのきっかけになったのが、タイ仏教に根差した「気づきの瞑想」(あるいは「気づきのマインドフルネス」)との出会いであった・・・

この説明には、納得します。嫌なことは忘れたい、思い出したくないのに、頭の中から離れないどころか、ぐるぐる回るのです。静かに頭の中を回り続けるだけでなく、感情的に暴走するときもあります。この項続く

鎌田浩毅著『武器としての教養』

鎌田浩毅先生が『武器としての教養』(2022年、MdN新書)を出版されました。
私たちだけでなく科学が予想できない、大災害や感染症の世界的流行が起きています。本の紹介には、次のように書かれています。
「これからを生きる私たちは「人生はコントロールできない」こと、そして今までの「正解」など通用しないという考え方から始めなければなりません。「超想定外」の時代を生き抜く羅針盤」

「超想定外の時代を生きるための教養」と言えばよいでしょうか。鎌田先生の経験、読書から得た知識が満載です。地下のマグマが縦糸で、人間の内にある熱い想い(マグマ)が横糸になって、議論が展開されます。

ところで、第8章(270ページ)に、松田道雄編『私のアンソロジー2青春』(筑摩書房)が引用されています。私も高校時代に松田先生を好きになり、このアンソロジーを買いました。アンソロジー(選集)という言葉も、そのときに知りました。田舎の高校生には少々難しかったです。その後の引っ越しで、行方不明になりました。
「へ~、鎌田先生は覚えていて、引用されるのだ」と、感心しました。

子どもの妬みの感情への対応

2月1日の日経新聞夕刊「妬みの感情 成長につなげる」、澤田匡人・学習院女子大学准教授の発言から。
・・・「自分より人気がある」「自分が受からなかった学校に合格した」。人間は自分が持っていない何かを持つ他人が妬ましくなるものだ。雲の上の存在に対しては、憧れることはあっても妬まない。相手との差がわずかだと思い込むときの方が、妬みを感じやすい。
子どもの言動から妬みが透けて見えると、親は思わず「人を妬んでどうするの」などと、否定してしまいがちだ。だが、さまざまな調査や脳画像を用いた実験などから、妬みの感情は痛みの一種であることが分かっている。大事なのはまず「そうなんだね」と子どもの痛みを痛みとして受け止めることだ。
否定してしまうと、本人にとって深刻な悩みであってもそれ以上話を聞けなくなる。子どもが感情をうまく言葉で表現できないなら「羨ましいんだね」などと言語化する手伝いをしてあげたい。親ができるのは対話を通し、何が羨ましいか「妬みの解像度」を上げる手助けをすることだ。
小学生は諦めの気持ちがだんだん強くなる中学生とは違う。相手に近づくために頑張りたいという気持ちから「どうすればいいか助言がほしい」と感じる傾向がある。
つまり、具体的に何に妬んでいるかを聞き出し、どんな努力が可能かを教えると、妬みをきっかけに世界を広げられる可能性がある・・・

・・・妬みの対処法は大きく3つに分類できる。相手に近づけるよう自分なりに努力する「建設的解決」や、気持ちを考えないようにする「意図的回避」、悪口をいったり無視したりする「破壊的関与」だ。
気を付けたいのは、相手に近づく努力だけですべてを解決できるわけではないことだ。身体能力や体つきなど、行動や努力ではどうしようもできないこともある。真面目に取り組みすぎるとさらにつらくなる可能性がある場合、有効なのが意図的回避だ。
例えば、脚の長さは努力で伸ばせないが「かっこいいって脚の長さだけで決まらないよね」と親子で会話する。「あ、もうどうでもいいかな」と子どもが思えればそれでいい。「一緒にゲームやろうよ」と親が誘って気を紛らわすのも一つの考えだ。

友達を攻撃する破壊的関与は避けたいところだ。イライラをぶつける八つ当たりという形で親が受け止めてすむなら、それも解決策だろう。ひとりで抱え込ませるのではなく、解き放てた方が妬みをうまく生かすことにつながる・・・

大人にも有意義な話です。