カテゴリー別アーカイブ: 歴史

南北朝鮮の経済格差

7月28日の日経新聞に「朝鮮戦争休戦70年、経済力「54倍」開いた南北」が載っていました。

・・・朝鮮戦争の休戦から27日で70年がたった。北朝鮮と韓国の1人当たり国内総生産(GDP)は2021年時点で韓国が北朝鮮の54倍まで開いた。南北間の人の往来も途絶え、統一に向けたビジョンが描きにくくなっている・・・

記事によると、国連貿易開発会議(UNCTAD)の統計によると、1970年の1人当たりGDPは北朝鮮が328ドル、韓国が276ドルで北朝鮮が上回っていました。2021では、韓国が34,940ドル、北朝鮮は644ドルです。
1990年に統一したドイツの場合は、統一前の1人当たりGDPは、東ドイツが西ドイツの40%程度の水準だったとされます。それでも、統一後に格差を埋めることに苦労しました。

徴兵制

7月7日の読売新聞「竹森俊平の世界潮流」「迷走の露 苦肉の徴兵」から。

・・・米国の本格的徴兵制度は1940年に始まったが、ベトナム戦争が長期化した60年代、この制度により米国の若者が自分の意思と無関係にクジ引きで選ばれてアジアの密林の戦場に送られたことが深刻な社会問題を生み、ニクソン大統領は就任早々、徴兵制撤廃を検討した。そうした状況で経済学者フリードマンと米陸軍参謀総長ウェストモーランドとの間で有名な議論が交わされた。
徴兵制をやめれば、金銭目的の貧困者だけが軍隊を目指すという意見のウェストモーランドはこの時、「『 傭兵 』による軍隊を自分は率いたくないので、徴兵制撤廃に反対する」と発言した。
それに対するフリードマンの反論がすごかった。「閣下、それではあなたは『奴隷』による軍隊をお望みですか」。米国自身の存亡がかかっているわけでもない戦争に意思に反して若者を駆り出す政策を、生粋の自由主義経済学者は「奴隷制度」に例えたのだ。

徴兵制度を実施する場合、「自分の意思と無関係に国民を軍隊に送る」ことは回避するべきだという認識は、歴史の中で定着していった。
そのような軍隊は戦闘能力が低いか、ローマ帝国時代の剣闘士の蜂起や1917年のロシア革命のように反乱の温床となるからだ。実際、徴兵された兵士中心の軍隊が誕生したのは一般市民に政治への関与を認め、国防の動機を与えたフランス革命の時だった。
19世紀以降、「敗戦」を経験した国々、1810年代のプロイセン(1806年のナポレオン軍への敗北)、1870年代の日本(1853年の黒船来航)、1880年代のフランス(1871年のプロイセンへの敗北)などでは徴兵とともに初等教育制度が大幅に拡充された。福沢諭吉が「学問のすすめ」で述べた「一身独立して一国独立する(国防の重要性を自分で認識できる知能のある国民がいて、初めて国の独立が可能になる)」という思想を政府が共有し、国民の意識向上の手段として初等教育を見直したからだ。

大経済学者にやりこめられたウェストモーランドだが、「徴兵制撤廃は傭兵による軍隊を生む」という予想は正しかった。1980年代以降、民間軍事会社(PMC)が拡大したのだ・・・

『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』2

中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』の続きです。
紹介文には、「中国の歴史は、統一王朝時代と分裂時代の繰り返しである」とも書かれています。分裂した諸王国の中を勝ち抜いて、英雄が統一王朝を打ち立てます。ところが多くの王朝で、その安定は長くは続かず、また分裂が始まります。そこから次のようなことを考えました。それぞれ当たり前のことで、言い古されたことですが。

一つは、英雄が一人で安定した権力を作るわけではないことです。
大きな権力のためには、それを支える人、組織、そしてそれを養う資源が必要です。確かに英雄(王や皇帝)がいないとまとまりませんが、彼を支えるたくさんの人がいて、その人たちも権力(部下と組織と資源)を持っています。
別の見方をすると、それら有力部下たちに支えられているのが、王です。王にそれだけの能力とやる気がないと、部下が政治権力を握ります。さらに部下たちがその気になれば、王を廃止して取って代わります。
歴史書はしばしば英雄や王たちの歴史として書かれますが、実質はそのような権力関係から成り立っています。王や皇帝、将軍の系図が載っていますが、初代と中興の祖以外は、どのような功績があったか知らないことが多いです。権力が安定していたら、判断することもなかったのでしょう。

もう一つは、政権獲得、天下統一という目標があるうちは関係者は団結しますが、その目標を達成すると、分裂が始まることです。
権力を獲得する際の要素は、かつては多くの場合に武力です。ところが、政権を取ると、部下たちが武力に訴えては困るので、それを禁止し、秩序を守らせるために例えば儒教を奨励します。政権獲得期と政権維持期では、必要な力と思想が異なるのです。
しかし、政権獲得に参加した有力者や政権維持に参加している有力者は、「俺だって、王のようになれるはずだ」と考えます。隙あらば、自分の権力を大きくすることを考え実行します。ここに、分裂が始まります。

「日本語の発音はどう変わってきたか」

釘貫亨著『日本語の発音はどう変わってきたか 「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅』が面白かったです。お勧めです。
題名の通り、奈良時代から現代までの、日本語の発音の変化を説明したものです。奈良時代には母音が今より多かったこと、漢字を輸入した時期によって読み方が異なることなどは知っていましたが、この本でよくわかりました。
どうして、奈良時代の発音がわかるか。レコードもなかったのに。江戸時代から始まったその謎解きは、推理小説でもあります。
室町末期に宣教師が来て、アルファベットで日本語を表記しています。これは、有力な手がかりになります。すると、羽柴秀吉は、ファシバフィデヨシと発音したのです。

私たちは、ひらがなを50音図で表記します。縦に母音を5つ並べ、横に「あかさたなはまやらわ」を並べて、すべての(濁音などを除く)ひらがな(日本語の発音)を表記するのです。これは、偉大な発明です。これを作ったのが、江戸時代の契沖です。それまでは「いろは歌」で音を覚えたようです。では、この「あいうえお」の順番はどのようにして決まったか。インドからの輸入だそうです。

学問の成果を新書程度の短さにまとめて、素人にわかるように解説することは、難しいことです。でも、私たちには、とても役に立ちます。

『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』

松下憲一著『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』(2023年、講談社選書メチエ)が、面白く勉強になりました。紹介文を一部抜粋します。

・・・中国の歴史は、漢族と北方遊牧民との対立と融合の歴史でもある。なかでも、秦漢帝国が滅亡した後の「魏晋南北朝時代」は、それまでの「中華」が崩壊し、「新たな中華」へと拡大・再編された大分裂時代だった。この「中国史の分水嶺」で主役を演じたのが、拓跋部である。
拓跋部は、モンゴル高原の騎馬遊牧集団・鮮卑に属する一部族だった。386年には拓跋珪が北魏王朝を開いて、五胡十六国の混乱を治めた。雲崗・龍門の石窟寺院で知られる仏教文化や、孝文帝の漢化政策により文化の融合が進み、「新たな中華」が形成された。北魏の首都・洛陽の平面プランは、唐の都・長安に受け継がれ、さらに奈良・平城京へともたらされるのである。
その後、中国を統一した隋王朝、さらに大唐帝国の支配層でも拓跋部の人々は活躍し、「誇るべき家柄」となっていた。「夷狄」「胡族」と呼ばれた北方遊牧民の子孫たちは中国社会に溶け込みつつも彼らの伝統を持ち込み、「中華文明」を担っていったのである・・・

「秦漢時代の中国人と、隋唐時代の中国人とは違っている」と聞いたことがありました。中華思想は、中華を高く夷狄を低く見る考え方ですが、ラッキョウの皮をむくと、中華の中に夷狄が現れるのですね。
中国という言葉の使い方は、19世紀末から20世紀初頭に形成されたのだそうです。120年前に梁啓超が自国史を書こうとしたときに、「我が国に国名はない」として「中国史」という言葉を作ったのです。「中国5千年の歴史」という言葉も、たかだか100年の歴史しかありません(6月10日の日経新聞書評欄、川島真・東大教授の「中国という捏造」)。

追記
この記事を読んだ肝冷斎によると、「現在の中国あたりを表す言葉は、直前には「キタイ」(契丹から)で、その前が「タブガチ」(拓跋から)です」とのこと。