「歴史」カテゴリーアーカイブ

『オスマン帝国全史』

宮下遼著『オスマン帝国全史 「崇高なる国家」の物語 1299-1922』(2025年、講談社現代新書) を読みました。新書版で約500ページ、読み終えるのに2週間ほどかかりました。
宣伝には、次のように書かれています。
「文明の発祥地であり東西南北の人とモノが目まぐるしく行きかう西ユーラシアにあって、しかもイスラーム教と正教、ユダヤ教、カトリック教を奉ずる異教徒同士が混住する東地中海と中東の只中に産声をあげ、従って富とともに常なる外寇と内訌に晒(さら)されるはずの地域に成立しながら、かほどの遐齢(かれい)を見た国家は世に類を見ない。
本書は、現代から見れば、到底一つの政体が統合できるとは思われないこの世界を、実際に統治してみせたオスマン帝国の歴史を、最新の研究成果に拠りつつ辿る通史として編まれた」

副題にあるように、オスマン帝国(帝国の前も含めて)は約600年も続いたのです。日本で言うと、鎌倉時代から明治時代まで。中国では、元から中華民国まで。とんでもない長さです。ビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブールを首都とします。広いです。最盛期には、現在のクリミア半島、ウクライナ、ルーマニア、ハンガリー、バルカン半島、ギリシャ、北アフリカ、中近東を支配します。黒海も東地中海も、紅海、ペルシャ湾まで。

しかし何と言ってもこの帝国のすごさは、多様な民族や多様な宗教(しかも3大宗教の聖地)を抱えていながら、長期に安定したことです。現在、この地域ではいくつも紛争が続いていることを考えると、その包容力・統治の仕組みは驚異です。異教徒であっても、迫害しない。スペインがレコンキスタでイスラムやユダヤ教徒を迫害しましたが、それを受け入れるのです。キリスト教徒の子どもを奴隷として育て行政の幹部とすること、妻をめとらず(外戚の容喙を防ぐ)、皇太子以外の王子を殺すなどなど、政権中枢安定の方策が採られます。

領土を拡大する時期の話も面白いのですが、教訓になって興味深いのは衰退期です。スルタンも大宰相も危機感を持って改革を進めるのですが、守旧派の抵抗に遭って頓挫します(第六章 改革の世紀、第七章 専制と革命、第八章 帝国の終焉)。どの組織でも同じですね。
1908年に革命が起き、国会議長がスルタンに拝謁して、次のように奏上します。「これ以後、陛下は我らの主上として、日本の天皇陛下が日本国になさるような奉仕をあなたさまの臣民になさることとなるのです」。そう聞かされたスルタンは心中で、「日本は一つの宗教と民族によって国民の紐帯が保障された偉大な社会ではないか。クルド人やアルメニア人、ギリシャ人やトルコ人、アラブ人やブルガリア人を、いったいどのようにまとめあげればよいというのか?」と反論したと、回想録に書いてあるそうです。193ページ。

まだまだ興味深いことが書かれていますが、それは読んでみてください。私たちの学んだ世界史が西洋中心だったことに、改めて気づかされます。

ヘボンとヘップバーン

日経新聞日曜連載、今野真二さんの「日本語日記」、5月4日は「2人のHepburn」でした。二人が同じ名字だとは、知りませんでした。

・・・パスポートは旅券事務所に申請して交付されます。その時に「ヘボン式ローマ字表記」を使うことになっています。この「ヘボン」は幕末に日本に来て、横浜で医療活動も行っていた、アメリカ長老派教会の医療伝道宣教師、James Curtis Hepburn(ジェームス・カーティス・ヘボン)のことです・・・
・・・Hepburnを「ヘボン」と発音した人がいたのでしょうか。ヘボン自身はこの「ヘボン」を認めていたようで、『和英語林集成』第3版の扉には「米国 平文先生著」と印刷されています。

さて、きょう、5月4日は、「ローマの休日」や「昼下がりの情事」「ティファニーで朝食を」で知られているオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)の誕生日です。
ローマ字の綴りで知られるヘボン、「ローマの休日」で知られるオードリー・ヘップバーン、「ローマ」つながりと言っていいのかいけないのか、ちょっと悩みます・・・

福井ひとし氏の公文書徘徊2

『アジア時報』5月号に、福井ひとし氏の「連載 一片の冰心、玉壺にありや?――公文書界隈を徘徊する」の第2回「大日本帝国最後の日―枢密院の後ろ姿」が載りました。
今回は、枢密院についてです。枢密院は、戦前に存在した役所です。新憲法の施行とともに廃止されました。建物は皇居内に残っていて、皇宮警察本部庁舎として使われています。大手門から入り、三の丸尚蔵館の南側にあるのですが、近づくことはできません。

今回の徘徊は、枢密院の文書がすべて公文書館に残されているので、それを使った枢密院の仕事ぶりです。それとともに、枢密院を廃止する手続き、さらに勤めていた職員の退職手当まで調べています。
今から80年前のことです。戦前は遠くなりにけり・・・。「第1回

北魏宮女とその時代

果てしない余生 ある北魏宮女とその時代』(2024年、人文書院)を読みました。ある書評に取り上げられていて、面白そうだったので、図書館で借りました。著者は北京大学の教授で、原著は2022年刊です。

古代中国の北魏(386年~535年)時代の話です。歴史で習った雲崗や龍門といった巨大石窟、北魏様式のあの北魏です。
その後宮に仕えたある女性の人生を取り上げていますが、記述の多くは北魏の政治、皇族や高官の権力闘争を描きます。その資料は、出土したたくさんの墓誌です。近年も次々と発見されているようです。こんなことまでわかるのかと思うくらい、たくさん出土しています。史書に書かれていないこと、特に女性については、史書に出てこないのですが、墓碑にはいろんな情報が書かれています。

北魏では子が皇太子となると、その生母が死を賜る「子貴母死」の制がありました。外戚が権力を振るわないようにです。ところが、皇后がこの制度を利用して、自らの権力を高めます。皇太子の母を殺した上で、自分または息のかかった女性が皇太子を育てて、母親代わりとなるのです。そして、親族を登用します。
皇帝は自らの地位を安泰にするために、親族を殺します。また、殺されます。それが通常という、怖い世界です。

文章は読みやすいのですが、なにせたくさんの人が登場し、似たような名前なのでこんがらがります。

如月の望月に桜は咲いたか2

如月の望月に桜は咲いたか」の続きです。
友人の古文の先生に聞いてみました。次のような回答をもらいました。なるほど、写実の世界ではなく、願望の世界なのですね。

・・・西行は、この歌を少なくとも、亡くなる三年前には詠んだようです。
西行が亡くなったのが1190年2月16日、この歌へのコメントが載せられている歌合せの記述があり、それは1187年のものらしいです。西行の切なる願いが歌われたものととらえられます。

そして、2月15日は、釈迦入滅の日とされている日だということが大きいのではないかと思われます。出家をした西行がお釈迦様にあやかってと思うのは想像に難くないです。
また、春は1月、2月、3月で、2月15日は、春のど真ん中。中秋の名月も秋のど真ん中、旧暦8月15日、かぐや姫もこの日に月の都に帰ったのだろうと思わせます。

実際の山桜の咲き誇る状態とは別に、お釈迦様にあやかり、春のど真ん中にあの世に行きたいという西行の心が詠まれていると考えるのはいかがでしょうか・・・