「オフレコ」という言葉を、ご存じですか。私はかつて、「オフレコ」=「オフ・ザ・レコード」=「記録に取らない、公表しない取材」だと思っていました。しかし、この業界(マスコミ)では、そのような意味では使われません。
例えば、北海道新聞の記者が、7月12日に取材メモを他の政党などにメールで送った件について、同社は次のように発表しています。
・・道内の日本維新の会関係者から、取材源を明らかにしないことを条件に話を聞くオフレコで取材。同党の参院選対応などについて、取材先の氏名とともに内容をメモにし、北海道新聞の参院選取材班の記者全員にメールで一斉送信しようとした・・
ここでは、オフレコであっても「メモにする」と、記録に取ることを認めています。また、「取材源を明らかにしないことを条件に」と公表することも、否定していません。さらに、これまでにも大臣などが、オフレコで記者と話した内容を報道され、辞職するような事例もありました。ウィキペディアは、その点を明確に指摘しています。
オフレコという表現は誤解を招くので、別の言い方に代えた方がよいでしょうね。
カテゴリー別アーカイブ: 報道機関
マスコミ、現場・住民は善、行政・中央は悪の構図
釜石市嶋田副市長が、『ダイヤモンド・オンライン』3月25日付けに「大震災2年目の今を見つめて」を寄稿しています。住宅再建に際して、土地の権利関係が障害になっていることを書いています。そこに、行政を批判すればよいというマスコミの姿勢と、それに乗る住民の姿が描かれています。
・・そうした支援の一方で、突然お越しになった報道の方から、「復興庁のせいで進まない事例を教えてほしい」、「県の杓子定規な対応の具体例はないか」といった取材をいただくことがあります。同様に、住民の方から、「『とにかくなんでもいいから市役所への不満はないか』と取材に来たから、あることないことしゃべってやったよ!」と教えていただくというような、笑うに笑えないエピソードもあります。
上記の用地交渉をはじめ、自分たちだけでは決められない案件も多く、また、関係者間で目的をすり合わせる過程で様々なやり取りが生じるのも事実なのですが、「奮闘する現場vs.画一的な中央」というステレオタイプの質問や報道には違和感を覚えてきました・・
あわせて、今後、用地交渉が本格化するに際し、住民の方と行政の対立を煽る報道が増えるのではないかと予想しています。用地交渉は、街の再生という全体の利益・公共と、個人の利益・私権との間でどのように折り合いをつけていくかという合意形成の連続であり、与えられた正解のない取り組みです。
おそらく、復興事業に携わるすべての行政職員が、スピードある復興を求める声と、丁寧な議論を求める声の間で悩みながら業務に従事しており、また、行政の取り組みが常に正しいわけではなく、やろうとしていること、あるいはその方法について不断の見直しが必要です。他方、報道の方々におかれても、引き続き現場に寄り添い、当事者の一人として、共に悩み、正解のない実情を丁寧に伝えていただきたいと思います・・
20年後の新聞、2
先日の「20年後の新聞」(2月20日の記事)について、ある読者から、メールをもらいました。新聞が変わっているであろうことについては、同意しつつも、次のような意見でした。
・・20年ぐらい先を考えるのはおもしろいです。そしてたいてい暗澹たる気分になります。私が、まだ生きているかも知れないからでしょうか。
記者クラブ制度や戸別配達などは、変わっているでしょう。しかし、1990年から2010年の20年間を思い返すと、換骨奪胎しながらまだ残っているかもしれません。
日本語市場は、残っていますよ。この40年で壊れなかったですからね。規模拡大しているかもしれないとさえ漠然と思います・・
20年後の新聞
今日の放課後、旧知の新聞記者さんと、意見交換会をしました。そこでの話題です。
「20年後に、新聞はどうなっているか?」
いろいろと悲観的な意見が出ましたが、私は次のように考えています。
新聞は、なくならない。ニュースを見るなら、インターネットで、素早くたくさんの記事を読むことができます。しかし、新聞の「機能」は、あふれるほどのニュースから、ある基準で選択し、そして優先順位をつけて、一定の紙面の中に納めてくれることです。
忙しい社会人としては、この機能はありがたいです。そしてこの「選択」が社会での「標準」になります。重要なニュースを知っていないと、会社でついて行けません。他方で、新聞に載っていない記事は、知らなくても恥をかきません。もちろん、常に記事の取捨選択や優先順位付けが「正しい」とは限りません。そこに、各新聞社の「考え方や趣味の違い」が現れます。朝日新聞と、読売新聞と、毎日新聞と、産経新聞との違いです。
もう一つの新聞の機能は、解説です。日々のニュースを流すだけでなく、それらを歴史的社会的背景から位置づけ、どのような意味を持っているかを解説してくれることです。もちろん、この機能は専門誌などが担うことでもありますが、新聞はお手軽です。
朝刊と夕刊が、毎日宅配されているか。これは、疑問です。自宅にあるプリンターで、印刷するようになるでしょう。新聞配達員はいなくなるでしょうね。
現在、日本語という「非関税障壁」に守られている「記事の内容」「解説の水準」についても、大きな変化を受けていると思います。グローバルな記事や解説が増え、それは日本語でなく英語になっている可能性が高いです。あるいは、英語の記事が翻訳されているでしょう。
20年後には、実際はどうなっているでしょうね。私の予想は、当たったためしがありません。苦笑。
反射的回答、実績を問わない内閣支持率調査
講談社のPR誌『本』11月号に、薬師寺克行・東洋大学教授が、「世論調査政治の落とし穴」を書いておられます。
1946年8月5日付の朝日新聞の世論調査の記事と、2012年6月6日付の世論調査記事との比較です。1946年(昭和21年)の場合は、「吉田内閣を支持しますか」と「もし近く総選挙があるとすえばどの政党を支持しますか」という、内閣支持率調査と政党支持率調査です。全国で20万枚の調査票を配り約13万票を回収しています。
論点はここからです。
吉田内閣の発足は5月22日、世論調査は7月以降に実施され、記事になったのは8月5日です。内閣発足から世論調査実施までに、1か月以上をかけています(準備などに時間を要したのかもしれません)。回答者(有権者)は、吉田内閣の働きぶりを見て、答えているでしょう。
一方、2012年(今年)の場合は、6月4日に内閣改造が行われました。午後1時半ごろに記者会見があり、皇居での認証式は17時、初閣議は20時40分です。朝日新聞による「全国緊急世論調査(電話)」は、6月4日と5日に行われ、記事は6日の朝刊に載っています。調査は、4日午後から5日夕方までに行われたと推測されます。
すなわち、回答者は新内閣の仕事ぶりも見ないで、回答を迫られています。薬師寺さんは、次のように書いておられます。
・・内閣改造の瞬間から実施される今日の調査は、回答者の何を引き出すことができるだろうか。新閣僚らはまだ何も発信していない。さらに多少は回答者が考える余裕や持ちやすい面接調査ではなく、即答を求められる調査である。大半の回答者は、突然かかってきた電話に驚き、十分な判断材料のないまま直近に得た情報や目にした映像などに頼って、反射的に「支持する」「しない」を回答しているのだろう・・
薬師寺さんは、元朝日新聞政治部エディター(政治部長)です。この批判には、重みがあります。