「身の回りのこと」カテゴリーアーカイブ

少し古本を処分8

少し古本を処分7」の続きです。まだ続いています。なかなか減りません。なのでこの連載も続きます(苦笑)。

「少し処分」とは謙遜してつけた表題なのですが、実態を表しています(反省)。作業の際には「大胆に」捨てているつもりなのですが、全体から見ると「ほんの少し」です(涙)。
まず、やる気が起きません。処分しようと本を手に取ると、「せっかく買ったのに捨てるのか」「読むことができないのに、なんでこんなにたくさん買い込んだんだ」と悲しくなります。なので、作業に取りかかる気にならないのです。締め切りもないし。

次に、作業を始めた頃は古い本から着手したので、悩むことなく捨てることができました。だんだん新しい本になると、「読みたいなあ」という思いが出て、捨てることができません。残すと決めた本は、本棚に後戻り。
処分すると決めた本は、「こんな本も買ったのだ」とか「何が書いてあったかなあ」と、目次や気になるか所に目を通すので、時間がかかります。でも、私の読書遍歴(正確には購書遍歴)を思い出す、よい機会と思いましょう。時間をかけても良いでしょう。

書斎と廊下は作業途中で、引っ越しの荷物の片付けが終わっていないような状況にあります。それでも机の上は広くなり、資料を広げることができて、執筆作業がしやすくなりました。

文鎮いろいろ

文房具片付けの続きです。
机の上や本棚に、文鎮や小さな像がたくさん並んでいます。文鎮として使っているのですが、それなら2つか3つあれば十分です。たくさんあると、ほこりが溜まるのですよね。

旅行や展覧会で、記念にと買ってきたものです。スウェーデンのバイキング像、フランスのガーゴイルの怪物像、中国古代の青銅器・・・それぞれミニチュアです。

小石もあります。長径5センチほどの平べったい卵形で、すべすべです。片手で握るにはちょうど良い大きさです。拾った日と場所をマジックで書いてあります。
一つは2002年10月1日、フランス地中海沿岸(コートダジュール)の都市マントンです。もう一つは、20016年11月15日、岩手県釜石市の花露辺(けろべ)です。小さくて荷物にならないので、拾ってきました。
もっとあったはずですが、どこかに隠れん坊をしているようです。

文化、政治、経済の新しい古典

雑誌『中央公論』2025年11月号の特集は「令和の読書と知的生産術」です。
そこに、大澤聡・砂原庸介・安田洋祐さんの座談会「文化、政治、経済……いま読むべき本は平成以降の「新しい古典」を決めよう」が載っています。3人は、1978年と1980年生まれの研究者です。

これは勉強になります。3人が、それぞれの分野で10冊ずつ挙げておられます。
政治、経済、文化の「新古典」にはこのような本が選ばれるのだと、勉強になりました。どのような基準で選ぶか、難しいところです。

古典と言われる本は、概説書や教科書に載っていて、かつて読んだか読んでなくても知っていることが多いです。しかし、近年の研究でどのようなものが必須のものなのか、学者でないとわかりません。このような記事は、研究者でない者にとって貴重な資料です。
知らない本が多かったです。みなさんは、どうですか。

少し古本を処分7

少し古本を処分6」の続きです。「少し古本を処分5」の続きといった方が良いでしょう。今回は、買ったのに読まなかった本、読んだけど忘れていた本の「効用」についてです。片付けの方は、進んでいないのです(反省)。

本棚を片付けていると、「これも読んだよな」「これも買ったよな」という本が出てきます。その時々の私の好奇心と興味の広がりを示しています。読んだことも、買ったことも忘れているのですが、たぶん私の「知図」作りに、貢献したはずです。

専門家とは「何がわかっていないかを知っている人」という「定義」があります。私がいろんな分野の本を買い込んだのは、それぞれの分野の最先端の知識と、この「何がわかっていないか」を知りたかったのだと思います。全てを理解することはできませんが、おぼろげに理解していると、人と話をしたり、文章を書いたりしたりするときに、不安を持たなくて済みます。

もう一つは、私の発想を豊かにしてくれたはずです。
例えば『維新の構想と展開』(2002年、講談社。文庫に再録)は、歴史書に「構想と展開」という言葉を使うことに目を開かれました。歴史は、自然のように流れていくのではなく、人為で操作できる(限界もある)と再認識しました。
デザインという言葉が、美術や製品の形態だけでなく、組織や制度にも使われます。構想はこのデザインと同じです。designという英語は、日本語では意匠と訳されることが多いですが、中国語では「設計」です。

少し古本を処分6

少し古本を処分5」の続きです。今日は、本や書類の処分ではなく、小物類の話です。職場を引き払ったので、職場で使っていた小物類を自宅に持ち帰りました。

まず、文房具です。万年筆とインク、ボールペンと替え芯、レターオープナー、文鎮、用箋など、お気に入りのものを置いてあります。銀座の伊東屋などを覗いては、気に入ったものをそろえました。礼状を書く際の便せん、絵はがき、封筒、切手、落款印なども。かつて職員にメモを渡す際に署名代わりに押していた(『明るい公務員講座』83ページ)、笛吹き中年の絵のはんこ(このホームページの表紙の絵。)もあります。

ほかに、お香と香炉、オードトワレ、湯飲み(これは友人に頂いた名匠の器)とコーヒーカップ(これもお気に入り)、歯ブラシ、散歩の際の運動靴なども。机の上に置いて戒めにしていた広目天の写真(2018年5月31日の日経新聞「あすへの話題」に書きました)や、壁に掛けていた絵もあります。
これらは、職場を変わる度に運んでいたのです。なので、箱詰めも簡単にできました。自宅書斎にも同じようなものがあるので、重複します。時間をかけて整理しましょう。絵はどうしますかね。壁は、ほかの絵や写真で埋まっています。

フリーアドレス(社員の座席が決まっていない職場。先日「フリーアドレス制の欠点」を書きました)だと、どうするのでしょう。パソコンで全ての業務が完結し、紙を使わないのなら、これら文房具の多くは不要でしょうが。お礼状を書いたり、メモを取ったりはしないのでしょうか。お気に入りのマウスパッドは使わないのかな。しなければならない仕事を付箋に書いて、モニターに貼っていた人は、やめたかな。

このホームページの分類では、「こだわりのモノ」に入れておきます。