2月4日の日経新聞文化欄、東山彰良さんの「神様だって既読スルー」から。
・・・手を触れなくてもドアが開けばいいのに。ある日、誰かがそう考えた。おかげで自動ドアができた。階段上るのタリィな、階段のほうで勝手に動いてくれればいいのに。また誰かがそう思って、エスカレーターが発明された。電気、ガス、水道、エアコン、車、飛行機。誰かの夢想が、つぎつぎに現実になっていく。恋人と愛をささやき合いたいけれど、自宅の電話ではきまりが悪いし、相手の親に取り次いでもらうのも緊張する。
さあ、携帯電話の登場だ。世の中、どんどん便利になるぞ。頭で考えただけで、世界が思いどおりになる。手紙のやりとりをしていた時代は、相手の返事が届くまで一週間でも十日でも平気で待てた。だけど、またしても誰かがもっと早く返事を欲しがった。それでeメールが開発された。おかげで文章のやりとりが格段に速く、便利になった。それでも飽き足らず、瞬時に返事を欲しがる奴が出てきた。だから、LINEが普及した・・・
・・・人生なんてままならないことだらけだ。それでも、どうにか耐えていくしかない。なのに、スマホのせいで私たちはますますこらえ性がなくなっている。私がケータイを持たないのはなにも精神鍛錬のためではないが、スマホの反対語は「我慢」なのではないかと思うのだ・・・
カテゴリー別アーカイブ: 生き方
生き様-生き方
紀田順一郎『蔵書一代』
紀田順一郎著『蔵書一代』(2017年、松籟社)を読みました。このホームページでも、何度か、増えた蔵書に困っている話、その先達の話を紹介しました。
紀田さんの場合は、3万冊です。さぞや、悲しかったことと想像します。去年、100冊整理しただけで騒いでいる私は、比較も出来ません。私の場合は、蔵書家、愛書家ではなく、ただ単に「捨てられない」だけです。
しかし、本書は、想像していた内容とは、少し違います。序章と第1章は、蔵書を整理し別れる話なのですが、第2章からは、日本の戦前戦後の古本や蔵書家から見た「世相史」なのです。
なぜ円本が売れたか、その後売れなくなったか。和書の盛衰。日本文学全集、世界文学全集などの全集ものの盛衰。さらに、日本文学の盛衰。蔵書家の変化など。
古書の流通から見た、日本社会史であり、社会の分析です。
戦前戦後の庶民や大衆が、どのように活字文化を消費したか。多くの全集や百科事典は、お客に見せる「調度品」だったことも多いでしょう。そのような「使用例」も含めて、大衆文化の一面を表しています。
歴史書は、政治や経済の出来事、それも中央政治を中心に記述しますが、他方で大衆の文化はなおざりにされがちです。
「思想」についてもです。ヨーロッパの哲学や思想は輸入され、研究者が本を書きますが、それを消費するのはごく一部の国民です。大衆は、それとは違った世界で生きています。
それは、書物だけでなく、映画、スポーツ、芸能、娯楽、飲食、旅行なども同じです。
日本の大衆文化研究は、欧米の研究より一段下とみられているのでしょうか。それとも、外国の学問を輸入する方が、日本の社会を分析するより労力が少なくてすむからでしょうか。
目次をつけておきます。
序章 “永訣の朝”
第1章 文化的変容と個人蔵書の受難
第2章 日本人の蔵書志向
第3章 蔵書を守った人々
第4章 蔵書維持の困難性
烏頭尾精先生
烏頭尾精先生は、日本画家です。
私の絵の先生でした。先生は、私の生家の近くにお住まいです。私が小学生の時、日曜日に子供たちを集めて、絵を教えてくださっていたのです。町内の集会所に行って、思い思いに絵を描きました。
こんな著名な先生に習っていながら、私にはその方の才能はありませんでした。今はもっぱら見るだけです。
先生は当時は、軍鶏を飼っておられて、その絵を描いておられたと記憶しています。その後、大和、飛鳥の風景を「印象的に」書かれるようになりました。
先日、先生の画集を送っていただき、子どもの頃を思い出しました。ご夫婦で、明日香村でご健在です。
砂原庸介教授、大佛次郎論壇賞受賞
昨日1月31日は、砂原庸介教授が大佛次郎論壇賞を受賞されたので、授賞式とパーティーに行ってきました。朝日賞と一緒の式です。
作家・僧侶の瀬戸内寂聴さん、トポロジーの理論物理学者の甲元真人さん、睡眠を司るオレキシンを発見した睡眠科学者の柳沢正史さん、100メートルで9秒98の日本新記録を出した桐生祥秀さん・・・。様々な分野の方がおられ、挨拶も面白かったです。
柳澤先生は、座右の銘を2つ紹介されました。その一つ「真実は仮説より奇なり」は、記事にも載っています。もう一つは、「良い問を見出すことは、問を解くことよりも難しい」です。納得しました。
違う分野の話を聞くのは、勉強になります。関西から政治学、行政学の先生方がたくさん来ておられました。ゆっくりと話したかったのですが、別件があったので途中退席しました。もったいなかったです。
「ところで、全勝さんと砂原教授とは、どんな関係ですか」と質問されます。このようないきさつです。
残された時間をどう使うか
かつて、定年後に残された時間をどう使うかについて、書いたことがあります。「熟年に残された使い切れない時間」(2007年4月6日)。気になって、再度調べてみました。
まず、定年後の自由時間です。一日24時間のうち家事や睡眠に10時間使うとすると、残る時間は14時間。1年間では、14時間×365日=5,110時間。65歳で退職するとして80歳までの15年では、76,650時間。
次に、労働時間です。1年間では、8時間×250日=2,000時間(休日と祝日を除く。残業と年休を無視します)。22歳で就職して60歳まで38年間働くと、総労働時間は、2,000時間×38年=76,000時間。ほぼ同じです。
約40年間働き続けたのと同じくらいの時間がある。これは困ったことです。
次に、学校に行った時間と比べてみます。小学校から大学までに受けた授業時間は、標準で12,000時間程度です(それぞれ一定の想定を置いて、試算してもらいました)。
小学校、4,756時間。
中学校、2,747時間。
高校、2,685時間。
大学、1,395時間。
16年間の授業時間の6倍もの時間です。
ところで、年間総時間は、24時間×365日=8,760時間。労働時間は2,000時間と、4分の1もないのです。
かつて同僚と「災害って、休みの日か寝てるときに起きるねえ」と言ったことがありますが、勤務中に起きる確率は4分の1なのですね。
さらに、老後の時間をどう使うかを悩む前に、今現在の自由時間をどう使うかを考えるべきでした。これまで、飲み屋で費やした時間は仕方ないとして、毎日の放課後と土日をどうするか。寝ているのも、勉強するのも、運動するのも、同じ1時間です。