カテゴリー別アーカイブ: 生き方

生き様-生き方

二種類の「がんばる」

8月10日の朝日新聞文化欄「荒井裕樹の生きていく言葉」「「がんばる」には二つある」から。

その時々の社会状況に応じて、どんなふうに使われるかを観察し続けている言葉がある。「がんばる(がんばれ)」だ。
二〇一一年の東日本大震災の時、被災者の心中を慮ってか、多くの人がこの言葉を自粛したように記憶している。対して、コロナ禍ではむしろ積極的に使われてきた節がある。がんばる医療従事者、がんばる飲食業界、がんばる観光業者、といった具合に。

私見では「がんばる」には「はつらつ系」と「忍耐系」がある。前者は、当人が好きなことや望ましいことに打ち込む様子を肯定的に捉える際に使われる。後者は、当人が不幸な出来事に巻き込まれた際、くじけそうな気持ちを鼓舞するために使われる。
もちろん、両者の区別は曖昧で、普段は意識されることもない。だが、私はこの違いに自覚的でいたい。でないと、本当に必要な区別が付かなくなってしまうように思うのだ。

「ちゃんと勉強しないとこういう鉄工所で働かなあかんようになりますよ」2

先日書いた「ちゃんと勉強しないとこういう鉄工所で働かなあかんようになりますよ」に、読者から反応がありました。
「『ちゃんと勉強しないとこういう鉄工所で』の記事を読んで驚きました。高岡の小さな鋳物工場から急成長した錫製品メーカー「能作」社長の能作克治氏からまったく同じ話を聞いたことがあったからです。
能作氏も、工場案内をしたときにある母親が子どもに言った「「よく見なさい。ちゃんと勉強しないと、あのおじさんみたいになるわよ」という言葉が成長の契機になったと言っておられます。」

これは、ウエッブ「ダイアモンド」の2019年9月12日の記事「カンブリア宮殿に出演!「能作」社長が初告白!」です。
・・・そんなある日、めずらしく「工場見学をしたい」という電話があった。小学校高学年の息子とその母親だった。工場を案内すると、その母親は、信じられないひと言を放った。
「よく見なさい。ちゃんと勉強しないと、あのおじさんみたいになるわよ」
その瞬間、能作は凍りついた。全身から悔しさがこみ上げてきた。同時に、「鋳物職人の地位を絶対に取り戻す」と誓った。そこからの能作はすごかった・・・

日本社会の、汗を流すこと(工場労働や農業など)への忌避、事務職への憧れという通念がこの背景にあるようです。
経済成長期に、農村を離れ勤め人になるという大移動が起こりました。そしてさらに、工場などで働くブルーワーカーより、事務室で働くホワイトカラーへのあこがれが強くなりました。現在でも、工場労働や農業、介護職などは人手不足ですが、事務職は求職者がたくさんいます。給料などの差もありますが、それだけでなく通念が影響していると思われます。
とはいえ、私も事務職を選びました。

「ちゃんと勉強しないとこういう鉄工所で働かなあかんようになりますよ」

朝日新聞ウエッブニュース「「3K」鉄工所を変えた引率教諭の一言 「ちゃんと勉強しないと…」」(2022年6月21日)から。

大阪府南部、岸和田市の「廣野鐵工所」。1945年創業の農機具部品メーカーで、社員は約150人。クボタのトラクターの部品などを製造している。
3年前、民間団体が選ぶ「日本で一番大切にしたい会社」の審査委員会特別賞を受賞。その翌年には中小企業庁の「はばたく中小企業300社」に選ばれた。
企業理念の最初に掲げるのは「社員の成長と幸せづくり」。決して大げさには聞こえない。

社長の廣野幸誠(ゆきせい)さん(65)に尋ねた。「なぜ、社員のためにそこまでできるのでしょう」
2006年に社長に就いた廣野さん。「実はですね……」。決して忘れることのない約40年前の出来事を語った。
当時の廣野鐵工所は大阪府泉大津市にあった。ある日、近くの小学生が工場見学に訪れた。入社間もない廣野さんが出迎えた。地元の子どもたちに会社のことを知ってもらうチャンス。作業工程をわかりやすく説明し、お土産にノートやペンを手渡した。
工場見学の最後に、引率していた若い女性教諭が言った。「さあ、お礼を言いましょう」
「ありがとうございました!」
子どもたちの元気な声に廣野さんはホッとした。だが、教諭の次の一言に耳を疑った。
「みなさん、いいですか。ちゃんと勉強しないとこういう鉄工所で働かなあかんようになりますよ」
驚きと怒りに全身が震えた。でも、言い返すのは子どもたちの手前、我慢した。教育委員会には「二度と工場見学は受けない」と伝えた。
ただ一方で、「たしかにそうかもな」と教諭の言葉を受け入れる感情が、徐々に芽生えた。

会社の工場は当時、「きつい」「汚い」「危険」と、3Kそのものだった。
溶接の油のにおいが充満し、あちこちから立ち上る油煙で工場の向こう半分は見えなかった。小さな扇風機しかなく、夏は作業服を脱いでランニングシャツ1枚で働く作業員が多かった。
このままではあかん、会社を変えなくては――。当時社長だった廣野さんの父元吉さんと改革を始めた。
最新の機械を導入し、若手社員でも短期間で戦力になれるようにした。若手社員はどうすれば定着してくれるのか、社員の満足度はどうやったら上がるのかを考え続けてきた。たどり着いたのは、会社に社員の居場所を作る、社員のがんばりを会社が認めることだった。

40年前の女性教諭の一言が、会社を変えるきっかけになった。「今ではあの先生に感謝しています」。心からそう思っている。

堀田力さん、敵は後ろにも

先日紹介した読売新聞連載の堀田力さんの回顧録。4月18日と19日は、ロッキード事件の捜査過程で、アメリカの司法当局から資料をもらう話でした。初めてのことですが、堀田さんはそれに成功します。
資料には、日本側の政府高官の名前が含まれています。資料は捜査に使うためで、起訴までは政府高官の名前の公表しないことが条件です。起訴しない場合は、名前が出ると名誉毀損になります。

ところが、野党とともに三木首相や大平財務大臣も、その名前を知らせろと迫ります。三木首相にも大平財務大臣にも、それを要求する法的根拠がありました。しかし、堀田さんは官邸での総理の要求に抵抗します。心臓が止まったでしょうね。

私たちの仕事、組織でする仕事、相手や関係者がいる仕事には、しばしば前の敵のほかに、後ろにも敵がいます。そして、こちらの方がやっかいなのです。それを外部に言うわけにもいかず。
部下をそのような立場に追い込まないことが、良い上司の資格でしょう。このようなことは、一般の指導者論には書かれていないのですよね。
上司は気がついていない、あるいは気づいていても言わない。部下は他の人にも言えず、一人で悩むのです。反抗すると、左遷やクビが用意されている場合もあります。

岡本行夫さんを偲ぶ会

今日は、岡本行夫さんを偲ぶ会に、キョーコさんと行ってきました。
行夫さんの活躍と交遊の広さを語るように、各界から大勢の方が参加されました。森元総理、小泉元総理、岸田総理、外務省幹部、財界などなど。
交遊の広さだけでなく、あの熱血に惚れた人が多かったからでしょう。政治家でも官僚でも、これだけの人を集めることができるのは、そうはおられません。内政が主な仕事の私と妻も参加するのですから。

別室に、行夫さんの子どもの時からの写真と、行夫さんが撮られた海の写真が飾られていました。ここに行夫さんがおられれば、楽しい会だったのですが。
遺言とも言うべき『危機の外交 岡本行夫自伝』(2022年、新潮社)が出版されました。
ご冥福を祈ります。「追悼、岡本行夫さん