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生き様-体験談

故・竹下亘先生お別れ会

今日3月14日お昼に、故・竹下亘先生のお別れ会(東京プリンスホテル)に行ってきました。岸田総理をはじめ、大勢の政治家の方が来ておられました。

竹下先生は、復興大臣を務められました。私は統括官と事務次官としてお仕えしました。
大臣就任早々にお話があり、「復興事業の中でも、地元自治体負担を求めないと、公平ではないものがあるのではないか」との、お尋ねと指示でした。私も常々考えていたことなので、直ちに案を作りました。関係者と調整して、案を持って、大臣と一緒に自治体に説明に回りました。大臣自ら乗り出していただいたので、この難しい話が進みました。「次官就任

一般道を走る日本一長い路線バス

2月11日の朝日新聞1面子供用クイズ「しつもん!ドラえもん:なら編」は「奈良県と和歌山県を結ぶ一般道では日本一長い路線バスがあるよ。何時間かかるかな」でした。

答は、6時間半。「奈良県橿原市から和歌山県新宮市にかけての169・8キロを走る奈良交通の「八木新宮線」だよ。停留所は168カ所もあるんだ」

私はこの路線に、始点から終点まで乗ったことがあります。高校1年生の15歳の時、52年前のことです。高校総体のサッカー全国大会に、補欠で連れて行ってもらったのです。その帰りに、利用しました。2010年に「十津川村で講演」で書いたことがあります。
当時は、今より道路は悪路だったでしょう。山道にさしかかると、「頭上の棚の荷物を座席に降ろすように」と言われたことを覚えています。
路線図」の一番下の朱色です。「時刻表

通学と通勤の思い出4

通学と通勤の思い出3」の続きです。今回は勤めてからです。これも、さして面白い話はありません。記録のために書いておきます。

まずは、地方勤務時代について。
自治省に入って最初の赴任地は徳島県庁で、県庁から100メートルほどのアパートでした。二度目の地方勤務は鹿児島県庁で、天保山の宿舎からバスで通いました。3キロほどだったでしょうか。三度目の地方勤務は富山県庁で、この時は車がつきました。
福島復興再生総局勤めの時は、週の半分は福島勤務でした。毎週新幹線で通い、福島では事務所近くのホテル暮らしでした。この時は2時間かかりました。これが一番時間がかかったことになりますが、毎日ではなく新幹線で旅行気分でした。東北新幹線は揺れが少なく、混雑していないので、動く書斎でした。原稿書きや読書をしてました(東海道新幹線は揺れるので、最近はパソコンを使うと、車酔いになります)。

東京勤務の際の勤め先は、霞が関、永田町、虎ノ門、広尾でした。さほど遠くない宿舎や住宅から、地下鉄などで通いました。
職場で泊まり込んで、通勤時間なしの日々もありました。局長室の床で寝ていると、職員に起こされるので、遅刻することはありませんでした。
今の家も、キョーコさんが霞が関に通勤するのに便利な土地を探してくれました。地下鉄で25分です。もっとも、その後の勤め先は霞が関駅周辺でなく、一つ手前の国会議事堂前駅が多かったです。

消防大学校(三鷹市)と自治大学校(立川市)には、高円寺駅から中央線を使いました。高円寺は東京の西側にあるので、三鷹駅までは近く、立川駅までは中央線快速で30分ほどでした。市町村アカデミーが千葉市にあり、わが家から東京を横断していくので、時間がかかるのです。

勤務した場所については「建て替えられる建物」、住んだ家については「建て替えられる建物、3」。この項終わり。

通学と通勤の思い出3

通学と通勤の思い出2」の続き、その他の通学についてです。これは、さほど変わった話ではありません。

幼稚園と小学校は隣の集落にあり、歩いて通いました。地図で見ると、300メートルほどです。小学校の昼食は、走って帰って、家で食べました。
中学校は、隣町の八木中学校に通いました。当時の校舎は近鉄八木駅の隣にあって、バスで30分ほどでした。
高校は、先に書いたとおり。毎日が遠足です。

大学に入って、東大駒場寮に入りました。学校の敷地内にあるので、通学時間は零分です。高校時代と、両極端です。
ところが、目覚まし時計が鳴っても「もう少し寝ていても大丈夫」と思って起きません。2時間目の授業も同じ。で、しばしば授業を欠席しました。反省。本を読むことがうれしくって、夜更かしをしたことも原因です。知らない本や読みたい本が、たくさんありました。
高校時代にあれだけやせていたのに、大学に入ると1年で10キロも太りました。通学時間が減った、勉強時間が減った、寮生活で食生活が偏ったことなどによるのでしょう。まことに不健康な、だらしない2年でした。さらに反省。

法学部に進学し本郷に移ったときは、正門前に下宿しました。学校から100メートルも離れていませんでした。ただし、勉強しないと授業についていけない、公務員試験を受けるつもりだったので、授業にも出て勉強するようになりました。特に3年生は、岡義達先生のゼミに入り、1930年代の英語の本と格闘し、しばしば徹夜もしました。「思い出の本、原書講読
食事も気をつけました。4年生の春に伝染病にかかり、さらに健康に注意するようになりました。学校の周りを走ったり、プールで泳いだりも。で、それ以上は太りませんでした。
通った学校については「建て替えられる建物、2」。

通学と通勤の思い出2

通学と通勤の思い出」の続きです。
朝は学校まで1時間半かかりましたが、帰りはもっとかかりました。

朝のバスは、電車の時間にあわせてあったようなので、橿原神宮前駅での待ち時間は短かったです。西大寺駅から奈良駅までの電車や、市内循環バスも本数が多いので、待ち時間は短いです。
ところが帰りは、そうはいきません。西大寺駅に着いても橿原線の電車の本数は少なく、さらに橿原神宮前駅から岡までのバスは昼は1時間に1本で、夕方は2本あったでしょうか。接続していないので、駅で長時間待つことになります。学校から家まで、合計2時間近くかかる時もあります。

土曜は学校が昼に終わりますが、学校で時間をつぶすか、あまりに待ち時間が長い時は橿原神宮前駅から家に向かって歩きました。ほとんどの場合、村に向かう車やバイクの誰かが拾って、家まで送ってくれました。当時はヘルメット着用義務がなかったので、バイクの後ろに乗せてもらいました。当時は5キロと思い込んでいて遠く感じましたが、地図で見ると4キロほどですね。

部活でサッカーをしていたときは、帰りはヘトヘトになり、電車のつり革につかまって寝ていたようです。見かねた人が、席を譲ってくれたこともあります。
バスの最終便は早く、生徒会活動や学園祭の準備をしていると、帰りのバスに乗り遅れます。父が車で迎えに来てくれました。
しばしば、学校近くの友人の家に、泊めてもらいました。U君のお母さん、T君のお母さん、ありがとうございました。先生の家に、泊めてもらったこともあります。U君もT君も家から高校まで数百メートルで、徒歩通学です。私の通学定期券をうらやましがっていました。私は彼らを、うらやましく思いました。

毎日が遠足でした。それも理由の一つと思うのですが、高校3年間いくら食べても体重が増えず、やせていました。受験勉強で睡眠時間が短かったことも理由でしょう。
それに比べると、今の通勤は電車の本数が多くて便利、ほとんど座っていけるので、苦になりません。