カテゴリーアーカイブ:行政

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり

2013年10月8日   岡本全勝

西浦進著『昭和戦争史の証言―日本陸軍終焉の真実』(2013年、日経ビジネス文庫)が、勉強になりました。
著者は、1901年生まれ、陸軍士官学校を優等で卒業した(恩賜の銀時計)、エリート軍人です。この方の特徴は、その勤めの大半を、陸軍省軍務局軍事課で過ごしたことです。陸軍大学校を卒業してから(昭和6年、29歳)、戦地へ転出する(昭和19年、42歳)までの間、海外駐在の3年間を除き10年間を軍事課で勤め、最後は課長になっておられます。
今で言うと、係長から課長補佐、そして課長を勤めたということでしょう。東条英機陸軍大臣の秘書官も勤めています。軍務局は陸軍省の中枢、そして軍事課はその軍務局の中枢でした。国防の大綱、軍備と軍政、予算を所管していました。550万人の軍人を動かすのです(人事は人事局で別の課が所管していました)。戦場で活躍するのでなく、事務において活躍されたという意味で、軍事官僚(軍人官僚)と、呼ばせてもらいます。
この本の元になった原稿は、昭和22年、戦後間もないころに書かれました。陸軍省の中枢、それも中の中から見た(単に幹部から見たという意味でなく)、実録であり反省記と言えます。
表題は、『昭和戦争史の証言―日本陸軍終焉の真実』となっていますが、私は、官僚にとっての勉強の書として読みました。軍事官僚の仕事ぶりが、わかります。
もちろん、時代背景や組織内の気風も大きく異なります。武官と文官を一緒にしてはいけないのでしょうが、その違いを超えて、政策と組織を管理することは、官僚(特に組織を動かす職にある官僚)として同じです。そのような視点から読むと、どのように仕事をしたかについて、とても参考になりました。
「日本陸軍」といっても、単体でそのようなモノがあるのではなく、人の集まりです。その人も、超人でもありません。私たちと同様に生身の人間が、教育と訓練を受け、組織の規則と慣習に従い、そして本人の志や欲望で、判断したことです。日本陸軍というと、私たちにとっては歴史の話であり、失敗ばかりを聞かせられます。でも、つい先日、私たちの先輩が行ったことなのです。
例えば、仕事ぶりについて書かれた文章を紹介します。筆者が赴任直後、満州事変勃発当時の記述です。
・・私は編成班の末席に入って、宇垣一成陸相の当時の立案にかかる軍備整理と、政府からの要請による行政整理の仕事を担任させられた。かたがた、最新参者として局長の副官的仕事、軍事課の庶務将校も兼ねた(注:今で言う行革と、局長秘書と、庶務係長でしょう)。
後年専門の庶務将校ができたが、当時は一人三役で、しかも事変勃発直後とて毎日課内はゴッタ返しの忙しさ、昼食ももちろん仕事をしながら事務室でやり、夜は帰宅は9時頃より早いことはなかった・・(p34。う~ん、現在の官僚は、国会時期になると夜12時は当たり前になっています)。
次回以降、いくつか興味深い記述を紹介しましょう。

歴史の教訓、2

2013年10月7日   岡本全勝

『歴史の教訓』から、もう一つ考えたことを。
著者は、「第6章 予測」で、次のように書いています。
・・さらに避けてとおることのできない問題は、行政部門とホワイトハウスに関する問題である。ニクソンは、かつては省務と考えられていたいくつかの職務を、国家安全保障会議の専門職員に移管し、専門職員たちが情報を収集し、事件の評価を提出し、取るべき行動方針を分析することになった。このような機構改革の結果、あらゆる省・部局の権力や影響力がいちじるしく減退することになった。だから、未来を推測する時われわれは、次のような問いかけを行わなくてはならない。すなわち、こうした傾向が一時的現象でないなら、肥大化し複雑化した国家安全保障会議の専門職員は、国務省やCIAの場合と同じように、自らの機構の利益や機構内の紛争を今後助長させようとするのだろうか。もしそうなら、その利益や紛争はどのような形態のものになっていくのか・・p235
かつて韓国を訪れ、内務部や後に行政自治部(これが韓国の自治省に当たります)の幹部と話した際、内務部の職員と権限の一部が大統領府に移され、大統領府と内務部との間で仕事の進め方が難しくなっていると、聞きました。
アメリカや韓国は大統領制なので、日本とは少し事情が異なります。しかし、総理主導・官邸主導が多くなると、似たような問題は起きます。総理が担当大臣や担当省幹部を呼んで、相談し指示を出している分には、問題は起きません。総理が担当省でない人たちを使うようになると、問題が出てきます。総理と各大臣との役割分担をどうするか(組織論であるとともに政治権力論になります)、官邸で総理を支える職員や官僚でないスタッフと各省官僚との関係をどうするか(これは組織論です)。
もちろん、各省から官邸に出向している秘書官や参事官は、板挟みになることは、これまでにもありました。このほかに、内閣官房や内閣府に設けられる各種の改革本部も、他省の所管業務を改革することが多く、各省との利害対立が起き、本部に出向した官僚は、板挟みになります。その所管業務に詳しいのは、各所管省の職員です。彼らを排除して改革することも、難しいです。
民間の組織や市場ルールを改革する場合は、官対民の戦いになりますが、各省改革や各省の所管業務を改革する場合(それも各省の反対がある場合)は、政対政または官対官の戦いになるのです。政治が仕切ってくれれば、官の悩みは少なくなります。この点については、組織内改革・組織間改革をどう進めるかという観点から、別途書きましょう。

歴史の教訓

2013年10月5日   岡本全勝

アーネスト・メイ著『歴史の教訓―アメリカ外交はどう作られたか』(原著1973年、邦訳1977年。私が読んだのは、2004年、岩波現代文庫)を、紹介します。外交の古典とも言うべき本ですから、お読みになった方も多いでしょう。文庫本になって、読みやすくなりました。
この本の主旨は、外交政策形成者は、現在の問題を処理するときに、よく過去の事例からの類推を行う。しかし、その際に、しばしば間違って当てはめることです。第2次大戦、冷戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争を取り上げて、具体的に分析しています。それぞれ、アメリカ政府が、その参加(開始)、継続、終結に、決断を迫られました。
「なるほど、そのような別の選択肢もあったのか」と、考えさせられます。「歴史にifは無い」といわれます。たしかに、現時点からさかのぼると、ifはありません。時計の針を戻すことはできません。しかし、現時点で歴史を作っている責任者としては、別の選択肢(たくさんのif)を考えて、1つを選ぶ権限と責任があります。そこに、政治の重さ、政治家の責任(助言者の責任)があります。
詳しくは本を読んでいただくとして、本筋から離れますが、私が考えたことを書いておきます。
朝鮮戦争の場合です。第2次大戦後、南朝鮮を占領したアメリカですが、ソ連との関係で継続を主張する国務省に対して、陸軍は早期撤退を考えていました。シベリアや中国での作戦には、朝鮮半島を迂回し、直接に空爆をかければ、敵が半島を支配していても価値がないという説明です(p85)。
途中の経過を省略しますが、アメリカも同意して、国連で全占領軍の朝鮮からの撤退が採択されます。1949年6月には、アメリカ占領軍は朝鮮から撤退します。1950年5月時点で、ソ連が朝鮮を侵略する可能性があるとしても、アメリカは軍事力を用いないというのが政策でした。
しかし、6月24日に北朝鮮軍が南に侵攻したとき、アメリカは国連の決議を手に入れ(ソ連がたまたま欠席していました)、北朝鮮との戦闘に入ります(p98)。
有名なジョージ・ケナンは後に、国連が「形式的には内戦であったものを(国連の管轄事項として)承認したこと」に驚いています(ちなみに、彼は当時、国務省で3番目に重要な人物だったそうですが、電話のない農場で週末を過ごしていました)。
・・大体アメリカ政府が、国連安全保障理事会の取るべき行動をそこで提案する必要はかならずしもなかった。アメリカはもはや占領統治国ではなったのだから、朝鮮を守る特別の責任など持ってはいなかった・・(p106)
アメリカが事前の方針とは異なり、戦争に入ったことには、国際的に威信を示すことのほか、トルーマン大統領が選挙対策(支持率アップ)のために決断したという説もあります。ここは、本を読んでください。
事前の方針通りに進んだら、かなりの確率で朝鮮半島は北朝鮮の支配下に入ったでしょう。若いときに、先輩が言った言葉を、覚えています。「釜山まで赤旗が立ったら、日本の社会や政治は変わっただろう。戦争の放棄や非武装中立などを、お気楽に言っていられないだろう」。1990年代前半、初めて韓国を訪れたとき、ソウルの金浦空港ロビーに自動小銃を構えた兵士が立っていました。たぶん徴兵された若者でしょう。北と対峙している韓国を実感し、隣国なのに大きく違うことを学びました。
この本は、9月4日に「責任者は何と戦うか、その5。議会と世論」で引用しています。その後、書こうとして放ってありました。もっとも私の本業は公務員なので、この「日記兼副業」の怠慢は許しましょう。飲まなけりゃ、もっと書けるのに。
肝冷斎も、ぶつぶつ言う割には、毎日せっせと書き連ねています。しかも、もう一つページを書き続けているのです。

戦前の日本に戦争を選ばせた条件、現在の日本を戦争に進ませない条件

2013年9月29日   岡本全勝

9月22日の読売新聞「地球を読む」、北岡伸一先生の「安全保障議論。戦前と現代、同一視は不毛」から。
先生は、「昭和の戦前期、日本を戦争への道に進ませた諸条件を考えれば、今の日本に当てはまらないことは自明だからである」として、次の5つを上げておられます。
第1は「地理的膨張が国家の安全と繁栄を保証する」という観念。第2は「相手は弱い」という認識。第3は「国際社会は無力で、制裁する力はない」という判断。第4は「政治の軍に対する統制の弱さ」。第5は「言論の自由の欠如」です。それぞれの条件が、戦前の日本に戦争への道を進ませ、その条件が当てはまらない現在の日本は戦争を選ばないという主張です。説得力があります。
他方で先生は、この5条件が現在の中国に当てはまることも述べておられます。これも納得。原文をお読みください。

リーマン・ショック5年、第2の大恐慌を回避した政治

2013年9月29日   岡本全勝

9月29日の日経新聞「シリーズ検証。危機は去ったか。リーマン・ショック5年」は、当時の麻生太郎首相へのインタビューでした。リーマン・ブラザーズの破綻が9月15日、麻生内閣発足が9月24日、10月23日に北京で開かれたアジア欧州会議の際に日中首脳会談が開かれました。
・・日中首脳会談の席でリーマン破綻の影響、特に外貨準備の大半を占めるドルへの影響が議論になった。私からは「中国と日本は外貨準備のドル保有残高で世界1、2位だ。ドルを安定させることが重要である。それが日中両国の経済にとっても利益である」と慎重な対応が必要だと話した。
脳裏をよぎったのは、基軸通貨が揺らぎ、世界が通貨安と関税引き上げ競争に走った1930年代の再来だった。幸い、どの国も米国債の投げ売りに走ることはしなかった。結果的に基軸通貨の揺らぎを避けられたのは幸いだった。
胡主席とは中国経済についても議論した。「米景気の悪化で対米輸出が激減し、輸出を米国に依存する中国の景気も悪化するだろう。従って、中国は内需拡大に精力を投下し、インフラ投資に重点を置けばいいのでは」と私が話すと、胡主席はノートを取り出しメモを取っていた。
国際政治の首脳会談は事前の打ち合わせに沿って進む。ところがこの日、胡主席とは想定外に率直な意見交換ができた。11月に中国は4兆元(60兆円)の経済対策を決定した・・
サルコジ・フランス大統領、メルケル・ドイツ首相、ブッシュ・アメリカ大統領とのやりとりも紹介されています。また、11月のG20サミットの席で、日本が国際通貨基金(IMF)に1,000億ドルの融資を表明して世界をリードしたことも。続きは、原文をお読みください。
私は、リーマン・ショックへの対応は、政治と経済の関係、しかも国際経済と国際政治の関係や、政治の役割を考えさせる良い事例だと思います。もっとも、1930年代は失敗したことで大恐慌は歴史の教科書に大きく取り上げられ、今回はそれを回避できたことで歴史の教科書には大きく取り上げられません。