カテゴリーアーカイブ:行政

佐伯啓思先生「国を守るとは何を守ることなのか」

2022年7月12日   岡本全勝

7月1日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「普遍的価値を問い直す」から。

・・・ かなりラフなスケッチではあるものの、これが今日の世界の近似だとすれば、不安定な世界にあって、日本はどのように国を守ればよいのか。いや、そもそも何を守るのであろうか。
政府も多くのメディアも、日米同盟の強化によって日本も「国際社会」を守れという。現実に着地すれば、確かに日米同盟の強化しかないだろう。だがもしも、本当にこの戦争を専制主義から自由・民主主義を守る戦いだとみなし、「自由、民主主義、人権、法の支配」こそ人類の至上の価値だというのなら、それを守るためにも、その敵対者と対決するだけの軍事力を持たねばならないであろう。

実は憲法前文も次のように謳っている。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。……われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって……」
まさしく、「自国のことのみに専念」するわけにはいかないとすれば、国際社会のためにも専制や圧迫と闘わねばならない。世界平和のためにも悪と戦う必要がある。安倍晋三元首相は、それを「積極的平和主義」と呼んだのであった。

だが多くの人はいうだろう。闘うとは命を賭す覚悟を決めることである。われわれは、自由や民主主義のために死ねるだろうか。国際社会のために死ねるだろうか。無理であろう。では、われわれは何を守ろうというのであろうか。
これは難しい問いである。ウクライナの多くの市民は、自由や民主主義のために戦っているわけではない。生命、財産のために戦っているわけでもあるまい。戦争の背景に何があるにせよ、眼前に出現した自国への理不尽な侵略、自国の文化や己の生活の理由なき破壊に対して命を賭けようとしているのだろう。そこにあるのは、理不尽な暴力に屈することをよしとしない矜持であろう。福沢諭吉的にいえば「独立自尊」である。

今日、世界の構造は著しく不安定化している。日本の憲法9条の平和主義は事実上条件付きのものである、なぜなら、9条の武力放棄は、前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」を受けているからだ。だが今日の世界ではもはやこの条件は成立していない。
何かのきっかけで日本もいつ他国の侵攻を受けるかわからない。その時、己の矜持や尊厳が試される。そういう時代なのである。とすれば、「9条を守れ」というより前に、「国を守る」という事態に直面する。その時、「国を守るとは何を守ることなのか」という問いを己に向けなければならない・・・

事業成果の水増し?

2022年7月11日   岡本全勝

日経新聞連載「国費解剖」、6月25日は「スポーツ貢献実績を水増し 対象外も含め「1300万人恩恵」」でした。

・・・19年6月、日本の著名ミュージシャンがバングラデシュの難民キャンプを訪れ、サッカーボール126個を贈った。スポーツ庁と外務省による国際貢献事業「スポーツ・フォー・トゥモロー(SFT)」の一環だ。発表によると、12万人が恩恵を受けたという。
ボール1個を約1千人で使う計算だ。外務省人物交流室に根拠を問うと、寄贈直後に使用状況を聞き取り、数カ月間同じ頻度で使われた想定で、かけ算したという。つまり延べ人数の推計だ。実績の過大計上ではないか。同室は「可能な範囲で実態に即した実績把握に努めた」とするが、推計を検証していない。

東京に聖火が届くまでに、スポーツの喜びを100カ国・1千万人に届ける――。SFTは13年の国際オリンピック委員会(IOC)総会で当時の安倍晋三首相が掲げた国際公約で、スポーツを通じた国際協力や人材育成が柱。政府資料によると、事業で恩恵を受けた人数(受益者数)は19年に目標を前倒しで達成し、21年9月時点は1319万人。行政事業レビューシートでSFT向けと明記した予算は15~21年度の累計で80億円だった。

国は別予算をスポーツ貢献事業に充てたり、スポーツと無関係の事業の実績をSFTの実績に算入したりしている。国費の使い方や成果の測り方はずさんだ。日本経済新聞がSFT事務局を担った独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)への情報公開請求で入手した資料を調べると、ボール寄贈のような受益者の過大計上とみられる事例が相次ぎ見つかった・・・

官僚捜査案件の見送り

2022年7月8日   岡本全勝

6月25日の朝日新聞夕刊「惜別」、元編集委員・村山治さんによる、熊崎勝彦・元東京地検特捜部長の追悼記事から。

・・・ 1980年代から90年代にかけて東京地検特捜部に通算11年余り在籍した。副部長として金丸信・元自民党副総裁の脱税事件やゼネコン汚職事件を手がけ、特捜部長として旧大蔵省(現・財務省)の接待汚職事件を摘発した。事件の根っこには戦後日本を支えた護送船団システムの劣化があった。そこに切り込んだ特捜検察は、国民の支持を受け、輝いていた・・・

・・・「許せないことがある。10年たったら明らかにする」。熊さんが一度だけ、ぶぜんとした表情で私に語ったことがある。
大物大蔵キャリア官僚が捜査対象に上ったとき、法務・検察の幹部は「官僚システムが壊れる。立件すべきでない」と、現場に圧力をかけた。摘発は見送られ、熊さんはまもなく富山地検検事正に「栄転」した。
不祥事情報をちらつかせて捜査をつぶしたのか、と見当をつけたが、熊さんは何も語らず世を去った。「まあ、いいじゃないか」。梅雨空から熊さんの明るい声が聞こえた気がした・・・

女性支援新法

2022年7月7日   岡本全勝

6月20日の朝日新聞オピニオン欄、大久保真紀・編集委員の「女性支援法、生かすには 暴力・貧困…困難に応じ丁寧な対応を」から

・・・この法律(「困難な問題を抱える女性支援法」女性支援新法)は、暴力や貧困など様々な困難を抱える女性に対する公的支援のあり方を定めるもので、本人の意思を尊重しながら最適な支援を目指す福祉の視点を打ち出した。女性支援の理念の大転換と言える。
これまでの公的支援である「婦人保護事業」の根拠法は、女性を取り締まりや管理・指導の対象とする売春防止法(売防法)だった。1956年に制定された売防法は「売春を行うおそれのある女子(要保護女子)」の補導処分と保護更生によって売春を防止することがそもそもの目的だ。勧誘罪で執行猶予となった女性を婦人補導院に収容することのほか、各都道府県に設置された婦人相談所の判断で、女性を一時保護所や婦人保護施設に入れて生活や自立を支えることを規定していた。

時代とともにニーズが多様化し、婦人保護事業の対象者が家庭関係の破綻や生活困窮などの問題を抱える女性に拡大した。2001年にはDV防止法が制定されてDV被害者が、また04年からは人身取引被害者、13年からはストーカー被害者も対象になった。

だが、DV被害者が増加すると、加害者からの追跡を阻止するために一時保護所や婦人保護施設の場所を秘匿する必要が生じ、ただ居場所が必要な一般の利用者の需要には必ずしも応えられない状況が生まれていた。
虐待や貧困で居場所がなく、街をさまよう若い女性たちが、やっとの思いで自治体の窓口や婦人相談所に支援団体とともに相談に行っても、公的支援にはなかなかつながらないのが実情だ。婦人保護施設の利用には、まず一時保護所に入ることが前提になっている上、一時保護所は携帯電話の持ち込みができず、外出もできない。ルールが多く監視されるような施設に入るなら、虐待があっても家や路上の方がましだとして、施設を敬遠する女性たちは少なくない。
その結果、婦人保護施設は利用されない施設となりつつあった。入所者数は年々減少し、19年度の充足率は21・7%だった・・・

原発事故と政府の役割

2022年7月5日   岡本全勝

6月18日の朝日新聞、小熊英二慶大教授の「責任あいまい、問い続けて」から。
・・・今回の判決で、電力会社の責任が重くなったともいえます。国の監督責任を狭く解釈した判決と考えられますから、電力会社にしてみれば、国に言われなくても災害を予測して安全対策を施す責任は事業者にあると宣告されたようなものです。電力会社が原発を運転するハードルが上がったとも言えるでしょう。
そもそも原発とは、核を扱うものです。過酷事故がおきたら民間企業が負担しきれない可能性がある。そのため米国では事業者の賠償責任額に上限があり、それを超えたら大統領が議会に補償計画を提出することになっています。つまり最後は国が補償する。最終責任は国にあるわけです。
ところが日本では、国の責任が明確でなかった。

1961年制定の原子力損害賠償法によれば、原発事故の賠償は事業者が負担します。でも現実には事業者の手にあまる事故が発生する可能性はあります。そこで賠償が一定額を超えた場合は、国が事業者を「援助」すると定められています。国と事業者のどちらに最終責任があるのか不明確といえます。米国と同じく国が最終責任を負う制度も検討されたのですが、省庁の反対で実現しなかった。
この例が示すように、日本の原発は、誰が最終的な責任を負うのか、あいまいなまま運転されてきた。その結果として生じたのが、過酷事故は起こらないという「安全神話」だったと考えられます。事故が起きたら誰が責任を負うのか不明確なのであれば、「事故は起きないはずだ」としておくのが無難だからです。
しかし東京電力福島第一原発の事故が起き、責任の所在が現実の問題になりました。それはまず、事故対応に現れました・・・

・・・それでも原発を運転するなら、事故が起きないように対応する責任が誰にあるのか、過酷事故の時に誰が最後に対応するのか、誰が巨額の賠償を最終的に負担するのか、責任の所在を明確にすることが必要です。
こうした問題が未解決なことを明確に示したのが今回の訴訟の意義でしょう。今後の社会には、責任の所在を問い続けることが求められます。事故は現実に起きました。安全神話に頼る状態にはもう戻れません・・・

個人や民間では負いきれない責任を、必要な場合に肩代わりするのが保険の仕組みであり、さらには政府の役割です。企業にだけ責任を負わせると、企業はリスクのある事業に手を出すことを控えるでしょう。