カテゴリー別アーカイブ: 復興10年

被災地首長「創造的復興できた」7割

2月28日の朝日新聞に、被災地42首長のアンケートが載っていました。「創造的復興できた7割 まちの将来に不安8割」。
・・・東日本大震災で特に被害の大きかった岩手、宮城、福島の42市町村長にアンケートしたところ、7割がこの10年で「創造的復興」ができたと考えている一方で、8割が将来に不安を感じていることがわかった。不安の理由はハード・ソフトの両面にわたる。相反するような回答から、震災復興の難しさが浮かぶ・・・

・・・アンケートでは、創造的復興が「できた」「おおむねできた」と答えた首長は74%。「あまりできていない」「できていない」は19%だった。
具体的な事業で最も「できた」「おおむねできた」が多かったのは「宅地や道路など町のハード面の基盤整備」の90%。「あまりできていない」「できていない」が最も多かったのは「イノベーションを伴うなど新産業、研究機関の進出」の62%だった・・・
津波被災地は工事が終わりましたが、原発被災地はまだ立ち入り禁止の区域もあります。同一には論じることはできません。

・・・しかし、アンケートではまちの将来に不安を感じるか、との問いに首長の86%が「感じる」「やや感じる」と答えた。「あまり感じない」「感じない」と答えたのは、仙台市、山元町(宮城県)、飯舘村(福島県)の3首長だけだった。
特に不安を感じる点を複数回答で選んでもらうと、「少子高齢化がいっそう進む」(86%)、「インフラの維持管理が重荷になりそう」(50%)、「人口の転出に歯止めがかからない」(31%)が上位だった・・・
山元町と飯舘村は、地理的社会的条件が決して良い場所ではありません。両首長が不安をあまり感じていないのは、その条件の下で頑張って暮らしていこうということの認識だと推測します。

福島県民、復興の道筋ついた50%

2月24日の朝日新聞に、福島県民世論調査が載っていました。「東日本大震災10年 廃炉予定通り「期待できない」74% 福島県民世論調査

・・・原発事故から10年を経て、復興への道筋が「ついた」と答えた人は「大いに」3%、「ある程度」47%を合わせて50%だった。
復興への道筋が「ついた」は事故翌年の2012年調査では7%、16年は36%、県内の主な除染作業が完了した翌年の19年には52%まで増えたが、その後足踏みが続いている・・・

・・・原発事故を防げなかった責任が国にあると思うか尋ねると、「大いに」33%、「ある程度」51%を合わせて84%が責任が「ある」と答えた。事故に対する政府のこれまでの対応を「評価する」は28%、「評価しない」が50%。東電がこの10年間、事故に対する責任を「果たしてきた」は39%、「果たしてこなかった」は43%だった・・・

復興工事完了後の課題

2月24日の日経新聞に、陸前高田市の発災以来10年の変化が写真で載っていました。ウエッブサイトでは、動画で見ることができます。「移ろう景色、見つめた被災地の10年」。改めて、大工事だったことがわかります。

同日の日経新聞「インフラ一段落、次は心のケア 震災10年で2知事に聞く」。
村井嘉浩・宮城県知事「風化覚悟、自立の気概を」から。
・・・この10年間は被災者の生活再建を優先しようと思っていた。高台に宅地を造り、防潮堤や道路も整備してきた。10年でだいたいイメージした形にできたと思う。
課題としては心のケアや不登校の問題など、ソフト面がまだまだ追いついていない。阪神大震災の例を見ると、25年くらいかかってだいぶ落ち着いてきたので、もう少し息の長いスパンで対策を考える必要がある。
10年たつと相当風化が進む。阪神大震災、新潟県内の地震、熊本地震と大きな災害があったが、その地域だけを思い続けることは難しい。だから風化が進むことは覚悟しないといけない。言い換えれば、自分の力で立ち上がる自助・自立の気概を持たなければダメだ・・・

達増拓也・岩手県知事「コミュニティー作り課題」から。
・・・県内で1万3984戸用意した仮設住宅から、入居者が恒久住宅に移れた。中心市街地に大きな商業施設ができるなど、街も再建できた。暮らしにせよ仕事にせよ、震災前よりも大きな希望を持てるようになった。
一方でコミュニティーの形成支援や心のケアに加え、震災以降に起きた漁獲量の大幅減少、新型コロナウイルスの感染拡大などによる事業者の売り上げ減少といった課題がある。11年目を迎える復興の新しいステージの中で対応していく必要がある・・・

災害遺児の支援

2月17日の日経新聞「私見卓見」は、あしなが育英会職員八木俊介さんの「災害遺児のケア、社会全体で」でした。
・・・2011年の東日本大震災で親を失った遺児は2千人を超える。「お母さんは元気にしていますか。夢でいいからお母さんに会いたいです」「お父さんがいたらいまの自分はどうなっているのだろう」。震災10年を前につづった作文からも、子どもの心の傷が完全に癒えていないことがわかる・・・

あしなが育英会は、交通事故遺児の支援で有名ですが、震災孤児・遺児の支援もしてくださっています。
このホームページでも、紹介してきました。「レインボーハウス、震災遺児孤児の心のケア

復興政策、終わってからの教訓

復興事業の教訓」(4回)「日経新聞、大震災復興事業の検証」(3回)「復興事業の教訓、集落の集約」などに、成果と教訓について書いてきましたが、講演会での質問や記者からの質問を踏まえて、総括的なことを考えました。走りながら考えていたときは見えなかったことで、終わってから振り返ると見えてきたことです。ここでは、二つ書いておきます。

一つは、「走りながら考えた」ことについてです。
今回、避難所や仮設住宅での生活環境改善から始まり、国土の復旧から暮らしの再建に支援を広げました。しかしこれは、初めから考えていたことではありません。現場を見て「逃げることができず」、一つずつ支援策を作っていきました。それを整理し、政策の柱として、産業再開支援とコミュニティ再建支援と位置づけたのです。「復興がつくった新しい行政
このうち避難所での生活環境改善などは、既にその後の災害で標準になりました。しかし、大きく壊れた町の復旧については、次回の大災害の際に今回の経験がどのように活かされるかです。今回作り上げた思想と仕組みを前提として、それをどのように適応するか、改善するかです。

もう一つは、「人口減少下での復旧」についてです。
これについては当初から、復興構想会議でも議論され、マスコミも指摘していました。私も理解していたのですが、それが現場の各事業に反映されたかといういと、十分ではなかったと思います。
復興事業の教訓、過大な防潮堤批判」で触れたように、災害復旧事業は安全確保のために、壊れた施設を直ちに元に戻すという思想でできています。地域の人口減少を計算に入れる制度にはなっていません。今回が初めての、人口減少下での大災害でした。
上位概念に「人口減少下での復旧」という考えがあるのですが、現場での「各復旧事業」とをつなぐ、中間の仕組み(歯車のようなもの)がなかったのです。これをつくらないと、今後も「元に戻す復旧事業」が続くことになります。

その延長で、もう一つ述べておきます。「町を集約する」ということについてです。「復興事業の教訓、集落の集約」の続きにもなります。
多くの方々が、「南海トラフ地震など次の大災害では、町の縮小が必要になる。そのための事前復興計画を作っておくべきだ」とおっしゃいます。まことにその通りです。
しかし、実際はどうでしょうか。市町村長や県知事、議員たちが、そのような計画を事前に作ることができるでしょうか。かなり難しいでしょう。誰もが、大災害とその後の町の縮小を考えたくありません。
すると、私たちにできることは、東日本大震災からの復興において、よかった例とそうでなかった例を整理しておき、大災害が起きた際に、自治体と住民にその例の中から適切なものを選んでもらうことだと思います。