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行政-再チャレンジ

子どもや若者にとっての居場所の重要性2

子どもや若者にとっての居場所の重要性」の続きです。「「孤立」が子どもや若者を苦しめる。だから私たちは「居場所」をつくる 下」(7月13日掲載)から。

・・・私たちが2011年に「たまり場」を作ったのは、(1)学校や社会の「階層格差によって作られたトラック」で競争に耐えられなくなった子どもたちが一時的にでも避難や休息ができ、他者からの視線に耐える力を育てること、(2)異なる価値観をもつ人が集う場で人間の連帯を体験し、社会で協働の機会を得る「場」を創設することが、多様な価値観が交錯する社会で生きていく上で必要だと考えたからである。
(3)居場所に多様な若者たちが集まり、交流することで受容し合える力を若者たちに育てなければならないとも考えた。さらに、(4)外国人の若者が日本の同世代の若者と最初に交流できる場にもなっていた。様々な目的で日本にやってきて、不安の中で暮らす外国人の若者たちが日本語の習得や仲間づくりに利用できる場になっていた・・・

・・・さいたまユースが運営する居場所は、学校や家族の中で孤立し、仕事や学校で躓いた若者たちが利用している。中には精神疾患や障がいで悩んでいる若者も少なくない。
「学校は勉強ができるか、運動がうまい人のためにある」と話した「ルーム」に通う若者がいたが、この言葉を否定する説得力のある言葉を私たちはもっていない。
また「ぼくはみんなと違う。同じようには生きられない……」。この言葉も今の若者を象徴する言葉だ。多くの学校も職場も「みんな同じでなければならない」という同調圧力の中にある。日本の若者たちは日々、この空気の中でプレッシャーを受けながら生きている。
「たまり場」や「ルーム」は、支援する側・される側に拘わらず、日本社会で生きにくさを抱えた人々の社会的居場所となっている。利用者の多くは、生活保護や障がい者支援制度の枠から外れた若者がほとんどだ。「たまり場」と「ルーム」はそんな若者たちが生きがいや社会での役割を見つけ、生きる意欲を探す場所として機能してきた。

若者たちに居場所が求められる背景に、学校での競争がさらに低年齢化し、緊張と不安の中で子ども世界の歪みが大きくなっていること、そして子ども世界のいじめも社会的にも大きな話題になり、教員たちが懸命に対応しても一向に収束する気配はないことがある。
「競争教育」の深刻化と貧困と格差の拡大が進み、子どもや若者たちの社会(他者)に対する信頼感が失われていく中で起きている現象なのである。教育の市場化が進行し、勝者のない、しかも社会的弱者が切り捨てられる状況を目の当たりにしながら、子どもや若者たちの中に社会への信頼や他者への信頼など生まれるはずがないのである。努力しても報われないとあきらめの中で若者たちは社会への関心を失っていく。しかし、人間は他者の存在なくして生きてはいけないこともまた事実であり、そのはざまで若者たちは居場所を求め続ける・・・
連載「公共を創る」で孤立問題を取り上げているので、現実を知ってもらうために、紹介します。

子どもや若者にとっての居場所の重要性

朝日新聞のウエッブ論座に、青砥 恭・さいたまユースサポートネット代表の「「孤立」が子どもや若者を苦しめる。だから私たちは「居場所」をつくる」(7月12日掲載)が載っています。

・・・北海道内の貧困対策の学習支援団体の調査では、利用する子どもの親の約2割が仕事が減るか、なくなったという。低所得家庭では生活費が減り、給食もなくなり、子どもにどう食事を与えるかという親たちの不安が高まっている。2020年の小中高校生の自殺者数は過去最多となる479人だった(文部科学省)。
大学は対面での授業がなくなり、入学以来、友だちが一人もできないと訴える大学生は多い。昨年春に入学して以来、実習以外は大学に行くこともなく過ごした、私たちと共に活動する学生ボランティアもいる。
オンライン上で知人の顔を見つけると、最初に出てくる言葉は「会いたいね!」である。身体性抜きのSNS上の関係だけでは人は満足できないのである。子どもはなおさらだ・・・

・・・学校が休校の間は、ほとんどの生徒は自宅で過ごしていたが、保護者の中には精神疾患を持ち、食事や学習など子どもの生活に関われない家庭もあり、昼夜逆転になっていたり、学校の課題を全く取り組めていなかったりする生徒も多かった。学校での給食がなく、この3か月間で体重がへったという子どもたちも少なくなかった。

ほぼ半数の生徒や親からは、Wi-Fiやタブレット、パソコンがなく、学校から連絡があった「オンライン授業」への不安の声も出ていた。私たちの学習支援の対象である貧困世帯では、半数を超える生徒たちが電話と手紙しか、連絡方法がないのである。「親の経済力は子どもの学力と健康に大きな影響がある」ことはここからも見えた。
2020年2月27日の「休校要請」で、ほぼ全国的に休校になった3月2日から登校が再開された6月7日まで3か月の間、子どもたちは学校という「学習」「友だちづくり」「運動」のためのかけがえのない居場所を失った。

ある小学校低学年の子どもを持つ親は、自分は生活のために働かざるを得ず、1日中、子どもを家の中に置いたままにすることへの不安を訴えていた。子どもも3か月間ひとりで家の中にいたのである。親も子もストレスを増大させながら過ごしてきたことになる。
DVや虐待も報告されている。小中学校の子どもたちは全国で約1千万人である。文科省の2月28日の通達では障がいを持った子どもは、登校させてもやむをえない、という措置をとった。障がいを持つ子どもたちだけでなく、すべての子どもと親たちにとって学校を閉じることで発生した孤立によるストレスが何をもたらしたのか、これから検証が行われなくてはならない・・・
この項続く

変わるドヤ街。労働者の街から福祉の街へ

朝日新聞ウエブサイト「貧困を見せ物に? 炎上した釜ケ崎のPR、背景には何が」(7月8日掲載)から。参考「ドヤ街

・・・6月上旬、大阪市南部の新今宮駅。構内の階段を下りて駅の南側に出ると、雨にぬれた釜ケ崎の街があった。
身一つでやって来ても、日雇いの仕事があり、簡易宿泊所で安く寝泊まりができる。様々な事情を抱えてたどり着く人たちも懐深く受け入れてきた街だ。1966年、行政によって「あいりん地区」と呼ばれるようになった一方で、釜ケ崎という通称も使われ続けている。
白波瀬准教授が釜ケ崎の現地調査を始めたのは、2003年。当時の新今宮駅前には「野宿者が暮らすブルーシートの小屋が、びっしりと立ち並んでいました」と振りかえる。
バブル崩壊後、建設現場での日雇いの仕事が激減。90年代後半には、野宿者があいりん地区だけで千人に達したというが、いまは小ぎれいなホテルなどが建ち、駅前に当時の面影はない。
厚生労働省が2000年代に2度の通知を出し、生活保護を受けられるようになった野宿者の多くが、簡易宿泊所を転用した福祉アパートなどに移っていったのだという・・・

・・・白波瀬准教授は「釜ケ崎は高度成長期からバブル期まで、日本経済に欠かせない労働力の供給地でした。大阪万博の会場や瀬戸大橋の建設で活躍したのも、日雇い労働者たちです。ただ、労働力を送り出す役割は以前に比べると小さくなっています」と説明する。
同センターによると、日雇い(現金)求人の年間累計は、バブル期の89年にはピークの約187万人を記録したが、90年代後半には100万人を割り込むようになり、19年には約25万人にまで減少した。
背景には求人方法の多様化や、労働者たちの高齢化があるという。

センターを出て釜ケ崎の中心部を歩くと、「福祉の方歓迎します」といった看板を掲げたアパートが目に入る。高齢化で生活保護を受給する労働者が増加。それを受けて、労働者向けの簡易宿泊所を、生活保護受給者向けのアパートに転用する例が目立つという。
白波瀬准教授は「かつては日雇いの仕事を求めて来る人が目立ちましたが、いまは主に支援を要する人たちが街に流入しています。釜ケ崎は『労働者の街』から『福祉の街』に変わったとも言われます」。
生活保護の受給(保護)率は、西成区が23・00%(19年度平均)。そのうち、あいりん地区は約40%に達する。全国平均の1・64%、大阪市の4・95%(いずれも20年3月)と比べて高い水準が続く・・・

移民の文化

7月13日の日経新聞文化欄に、細川多美子・サンパウロ人文科学研究所理事の「ブラジルに根づいた「カイカン」を訪ねて 400超の日系団体、地域に溶け込む活動を調査」が載っていました。

ブラジル各地に日系団体(アソシアソン・ジャポネザ)があります。「カイカン」の名で親しまれ、その数400以上だそうです。「会館」の意味でしょうね。戦前から同国に渡った移民が創設した日系文化・体育協会などの組織の総称です。その実態を調査しました。
ブラジルは、最初の移民上陸から100年以上がたち、いまや世界最大の日系社会が形成されました。
それらの団体は、日系人だけで固まることなく、コミュニティに溶け込む活動が多いのだそうです。運動会など、市や州の公式カレンダーにも取り上げられます。

それ自体喜ばしいことですが、ひるがえって、日本に定住している外国人たちの文化やコミュニティはどのような状態に置かれているのか、変化しているのか。それが心配になります。

外国人への扱い

7月7日の朝日新聞オピニオン欄「入管は変われるか」、鈴木雅子弁護士の発言から。

・・・「外国人」という呼び方が象徴するように、日本社会は日本国籍を持たない人たちを「外側」に置き、社会の構成員ではない、と遠ざけてきた面があると思います。なかでも在留資格がなかったり、難民申請中だったりする人だと、何が起きようと政治イシューにもならない。今のような入管行政を温存してきたのは、こうした日本社会の無意識の「容認」だと感じます。
こうした入管行政を法的に支えてきたのが、1978年に最高裁大法廷が出した「マクリーン事件」の判決です。

ベトナム反戦デモに参加したことを理由に在留期間の延長を却下された米国人の英語教師が訴えた裁判の上告審で、最高裁は「外国人の基本的人権保障は在留制度の枠内で与えられているにすぎない」と断じました。
出入国管理法(入管法)を憲法の上に位置づけるとも言える内容で、これが「在留資格のない外国人には人権はない」かのように用いられ、在留資格を失った外国人が恣意的に収容されたり、仮放免で社会に出ても就労して生計を立てることが許されなかったりする状況にお墨付きを与えてきました。

実際には、国際社会は自由権規約や子どもの権利条約などを通じて外国人の人権保障への考え方を発展させ、実践してきています。マクリーン判決は、日本がこうした国際人権条約に入っていなかった時代に出されたものですが、日本の入管と司法は、この40年以上前の判決の思考からいまだに抜け出していません・・・