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行政

反・忖度の元祖、和気清麻呂2

反・忖度の元祖、和気清麻呂」の続きです。
1 これを読んだ読者から、「ならば、和気清麻呂像は皇居の外れにおかず、首相官邸の前に移してはどうですか」という意見がありました。

2 中国古典に詳しい肝冷斎に、良い例がないか聞いてみました。以下、その返事の要約です。

「論語」等に出てくる「直言す」(はっきりいう)というコトバが近いでしょうか。しかし、和気清麻呂のような人については、「孟子」公孫丑篇上に出て来る孔子の言葉がぴったりくるのでは。

むかし、(わたし孟子の先生の先生であり、孔子の高弟である)曾子が(魯の有力者である)子襄に対して言ったそうです。
―わたしはかつて夫子(孔子)に、大いなる勇気(「大勇」)について訊いたことがあります。先生はこうおっしゃった、
「自ら反りて縮(なおか)らずんば、褐寛博(かつかんぱく)といえども吾おそれざらんや。自ら反りて縮(なお)ければ千万人といえども吾往かん」と。
「縮」は「直」なり、と注があります。
「自分で反省してみて正しくないと思えば、相手が粗末な服を着た庶民であっても、わたしはおそれおののかざるを得ない。自分で反省してみて正しいと思えば、相手が千万人いても、わたしは立ち向かうだろう。」

「大日本史」以来の清麻呂像を前提にすれば、中国歴代の諫官の伝統(例えば、漢の成帝に諌言して、退出を命じても宮廷の欄干につかまって離れようとせず、ついに欄干を折ってしまって「折檻」の語源になった朱雲、唐の太宗皇帝にたびたび直諫した魏徴)に沿って、清麻呂はまさに、「千万人といえども吾往かん」の人といえましょう。

大局観失う報道機関2

1月14日の朝日新聞ウエッブ、砂原庸介・神戸大学教授の「「正しいこと」が難しい、大局観失うメディア 選挙で一喜一憂しない」の続きです。

―最近の政治や選挙に民主主義の危機を感じることは?

もちろん、あります。
民主主義の基盤として「他者への信頼」のようなものが重要です。他者への信頼を損なうかたちで意思決定が行われていくと、長い目でみれば民主主義を壊す可能性がある。
斎藤氏を支持したとされる立花孝志氏の手法にはその危険性があると思うし、選挙の勝者である知事がその関係についてあいまいなままにしておく判断が望ましいようには思えません。
でも、選挙だけが信頼を壊す原因ではない。マスメディアがやってきたことも含め、社会の基盤が徐々に損なわれていって、それを再構築するのが難しくなっていると感じます。

―「正しいことをする」が難しくなっている?

他の国と比べると、日本社会で少なくとも、ひとりひとりが自分の持ち場で「Right thing」を行おうとすることは、私はまだ維持されているように思います。
でも、他人の正しい行動にただ乗りするような行動が目立つようになると、「正しいことをすると損する」というように思う感覚が強まりかねない。それは望ましいことではありません。みんながそれなりに正しいことをしていることを前提に、自分だけ好きなことをしてメリットを得る人が目立つと、前提の方が揺らいでしまう。
「Do the right thing」は、一般の人よりも、責任と一定の権限を持っている人や集団ほど重要で、なぜそれが正しいのか、説明する責任があります。
その説明は、「唯一の正解」でなくても良いはずです。それぞれが正しいと考えていることを行ったり、説明したりしたうえで、定期的に社会として正しいとされることが行われているかを検証する。その機会が選挙であったり、メディアの相互検証だったりするのです。

難しくなっていると感じるのは、インターネットなどで主張が「言いっぱなし」になる、つまり適切な検証が行われなかったり、検証されてもそれが広く共有されなかったりしやすくなっていることがあります。
同時に、ひとたび検証が必要だとなると、「唯一の正解」が出るまで延々と説明を求めることも問題だと思います。実際そんなものがあるわけではないので、なるべく説明をしないでやり過ごそうと考える人も出てきます。
「正しいこと」には一定の幅があって、人によって異なる判断はありうるわけですが、そういうあいまいさを含む「正しさ」を維持するのが難しくなってきたように感じます。それが、民主主義の基盤を損なうことにつながっているのではないでしょうか。

――選挙結果を報道したり、分析したり、それをどうそれぞれが受け止めるのか。必要なこととは?

メディアの人もそうですが、一部の人が政治を好きすぎる、つまり政治に期待しすぎているのではないでしょうか。もちろん政治は人々の期待に応えて動くべきですが、それは誰か特定の個人の期待に応えるということにはなりにくい。
民主主義は、みなで決めることなので、少しずつしか変わっていかない。なので、一喜一憂するスタンスは、私は良くないと考えています。
トランプ次期米大統領が再選を果たした時、絶望的だと悲嘆する人も少なくなかったようですが、自分が投票した候補が負けたことで全てを失うわけではない。そんな熱量だと、報道のボルテージも上がる。変な盛り上がり方もする。
ポピュリズムの脅威を甘くみるのは良くない、という考え方は分からなくもない。ですが、自分と異なる投票行動を持った人たちはみな一枚岩ではないことを前提に冷静に結果を受け取る。そして日常では、それぞれが「Do the right thing」を心のどこかに留めることが大切なのではないでしょうか。
メディアは、SNS社会を背景とした分断がある時代だからこそ、期間中と結果で盛り上げるばかりではなく、普段からの政治報道こそ、きちんと考えるべきだと思いますし、個人的にはそれに期待したいです。

反・忖度の元祖、和気清麻呂

数年前、官僚の行動を批判して、「忖度」という言葉が流行りました。忖度は、他人の心情を推測すること、また、それによって相手に配慮することです。安倍官邸に対する官僚の行動に関連して使われるようになりました。2017年には「新語・流行語大賞」の年間大賞に選ばれたそうです。

忖度という言葉は、かつてはあまり使われることなく、「配慮する」という表現が使われたと思います。忖度が使われたのは、配慮以上の行動をする、それも筋を曲げてまで行ったのではないかと考えられたからでしょう。そのような行為を「阿る(おもねる)」とも表現します。
「曲学阿世」という言葉もあります。中国古典の「史記」に出てくる言葉で、学問上の真理をまげて、世間や権力者の気に入るような言動をすることです。敗戦後、全面講和論を掲げた南原繁東大総長に対し、吉田茂首相は単独講和の立場から「曲学阿世の徒」と批判したことが有名でです。

皇居の東北、大手門の近く大手濠緑地に、和気清麻呂像が立っています。和気清麻呂は、ご存じの通り、奈良時代に天皇とそのお気に入りの弓削道鏡の意向に反して、正義を貫いた官僚です。
宇佐八幡宮から称徳天皇に対して「弓削道鏡が皇位に就くべし」との神託があり、和気清麻呂が宇佐八幡宮へ赴き、神託を確認することになりました。そして、道鏡が皇位に就くことに反対する神託を持ち帰り奏上します。清麻呂は左遷され、名前もひどいものに改名され、大隅国に配流させられます。後に道鏡が失脚すると、復権を果たします。
その2」に続く。

モノから関係へ、行政の役割変化

拙著『新地方自治入門』(2003年、時事通信社)で、行政のこれまでとこれからを論じました。そのあとがきに、「モノとサービスの20世紀から、関係と参加の21世紀へ変わることが必要」と書きました。
発展期の行政は、モノとサービスの提供を増やすことが役割でしたが、豊かな社会を達成すると、課題は人と人との関係や役所からの提供ではなく、住民が参加することが重要になるという主張です。この時点では、孤独と孤立問題の重要性に気がついていませんでした。

その後、孤独と孤立が問題になりました。阪神・淡路大震災、東日本大震災でも、孤独と孤立は問題になり、対策を打ちました。しかし、この問題は被災地だけでなく、日常生活に広がっています。
連載「公共を創る」で説明しているように、自由な社会は、どこで暮らすか、どのような職業を選ぶか、結婚するかどうかといった自由を実現しましたが、他方で孤独も連れてきたのです。他者とのつながりは、行政や企業が一方的に提供できるものではなく、本人の参加が必要となります。

この変化の一つの例が、住宅政策です。当初の住宅政策は、不足する住宅の提供、安価で質のよい住宅の提供でした。しかし、住宅は余り、空き家が増えています。他方で、孤立や孤独死が問題になっています。モノとサービスの提供から、関係と参加の確保が課題なのです。土木部ではなく福祉部・住民部の仕事に移っています。

臣民、顧客、市民

政府と国民の関係を表す際に「被治者、利用者、統治者」と分類して考えるとわかりやすいです。
1 被治者(臣民)は、民主主義でない政府があり(専政政治など)、国民は被治者の立場にあります。
2 利用者(顧客)は、民主政治はできているのですが、国民が十分に政治に参加せず、政府活動の利用者または消費者の立場にあります。
3 統治者(市民)は、国民が主権者としての役割を果たします。

1と2では、政府は「彼ら」であり、3では、政府は「われわれ」です。1と2では、税金は取られるものであり、3では、税金はわれわれにサービスが還元される原資です。