「砂原庸介教授「行政学の国際化」」の続きです。それに触発されて、次のようなことを考えました。
連載している「公共を創る」は、昭和末から令和までの間に、官僚が高い評価から落ちる過程を、一官僚の目から考えているものです。一言で言うと、「追いつき形の行政が大成功だった。ところが、目的を達成して、次の目標を見つけていない」ということです。
そこでは、歴史的(時間の経過、社会の変化)に説明していますが、国際的な視点は十分には書けていません。私にそれだけの知見がないからです。
先進国は、お手本がない状態で、社会の課題を解決してきました。日本の行政は、その「態度」や「仕組み」を輸入しなかったのです。そして、先進国と「同じ土俵」に乗りませんでした。
それは、日本の行政学にも当てはまるでしょう。先進国の行政や行政理論を輸入したのですが、国際的な行政学(学界)には参加しなかったようです。輸入が主な仕事だったので、輸出をしませんでした。昨年秋に、日本の行政を英語で紹介する『Public Administration in Japan 』が発刊されましたが、1983年以来のことだそうです。
また、輸入に偏ったことで、日本の行政と行政機構の批判的分析もおろそかになったようです。砂原教授の「ブラック霞ヶ関」問題も、行政学者による取り上げは少ないようです。
国際協力機構(JICA)の依頼で、発展途上国政府幹部に日本の発展を話す機会が増えてきました。「なんで私が?」と思いましたが、適当な学者も、官僚も、書物もありません。ここでも指摘できるのは、日本の行政は先進国を見ていて、後発国を見ていなかったのです。日本の発展を教えることで、もっと後発国に貢献できたと思うのですが。
「日本の行政と官僚は世界一」なんてことを自慢していて、官僚も学者も「夜郎自大」に陥っていたのですね。