カテゴリーアーカイブ:社会の見方

日常生活での時間の意味

2011年5月29日   岡本全勝

夜、布団に入ってしばらく本を読むのが、長年の習慣で、楽しみです。しかし、この仕事に就いてからは、すぐにまぶたが閉じて、1冊の本をなかなか読み終えることができません。
そのような中でも最近読んだ、木村敏『時間と自己』(1982年、中公新書)に、次のような話が載っていて、なるほどと思いました。先生は著名な精神病理学者です。分裂病者やうつ病者にとっての「時間」から、時間の意味を分析した本です。

・・デジタル時計は、一目で時間が読みとれるから、アナログ時計に比べて格段に便利だろうというのが予想だった。ところが、何となく不便なのである。頭の中でしばらくその時間をぼんやり遊ばせておかないことには、時間の実感が生まれてこないのである。この独特の違和感の実質をよく考えてみると、そこから次のようなことがわかってくる。
われわれが日常、時計を用いて時間を読み取る場合、現在の正確な時刻それ自体を知りたいと思っているのではなくて、ある定められた時刻までに、まだどれだけの時間が残されているのか、あるいは逆にある定められた時刻から、もうどれだけの時間が過ぎたのかを知りたいのである。朝の出勤までにあと何分残っているか・・。
デジタル時計だと現在の時刻しか表示されないから、あらかじめ決められている時刻を示す数値のとのあいだで、引き算をしなくてはならない。アナログ時計の場合だと、二本の針によってそのつど作られる扇形の空間的な形状とその変化から、この「まだどれだけ」と「もうどれだけ」とを、いわば直感的に見て取ることができる。
この「まだどれだけ」と「もうどれだけ」の時間感覚は、二つの数値のあいだの演算によって与えられる時間の量にはけっして還元しつくされない、もっと生命的で切実な心の動きである。たとえば会社に遅刻しそうだとか・・

私の身の回りの時計は、すべてアナログです。出張してホテルで泊まった時、夜中に目が覚めてのベッドの近くの時計を見ると、デジタルの時は困りますね。あと何時間寝ることができるかを知りたいのに、寝ぼけた頭で引き算をしなければならないのです。
次のようなことも、書いておられます(これも要約してあります)。

・・目覚まし時計のような完全に私的な時計による現在時刻の告示でも、結局は学校や職場などの公共時間やそれに基づく統一的な行動に自己の時間や行動を統合するという目的をもっている。共同体の制度的な時間や行動よりも自己の固有の時間や行動を優先させる人にとっては、目覚まし時計の音は有害無益な騒音以外のなにものでもないだろう。しかしそのような人でも、旅行に出かけようと思えば時刻表に載っている列車の発車時刻やそれを知らせるベルの音を無視することはできない・・。
われわれの大多数が外出する時に時計を忘れずにもって出かけ、一日に何回となくそれに眼をやるということの意味も、もう一度考え直さなくてはいけなくなる。時計を見て、もうどれだけの時間が過ぎたとか、まだどれだけの時間が時間が残っているとかいうことが切実な問題になるのは、実は時計の示す時間が私的で個人的な時間であるよりも、公共的な共同体時間だからなのではないのか。われわれが時計を見なければならないのは、人間が社会的な動物であって、共同体の制度を内面化することによってしか、個人の生活をいとなむことができないからなのではあるまいか・・

政府を信じない、でも信じていた

2011年5月26日   岡本全勝

(政府を信じない、でも信じていた)
朝日新聞5月24日夕刊に、しりあがり寿さん(4コマ漫画、地球防衛家のヒトビトの作者)が、次のようなことを書いておられます。
・・その時、ボクは思いました。そうかボクたちはずいぶん大きな賭に負けたんだなあ・・絶対安全なんてこの世にないことはわかっちゃいるけど、危険を訴える人がいるのは知っていたけど、まさかあの原発がこんなことにはならない方に賭けていた。
政府や企業は都合の良いことしか言わないことはわかっていた。だけど多少のごまかしがあっても、自分たちの生活を脅かすほどのことはない方に賭けていた・・

日本の幹部教育の失敗。初中等教育への賞賛と、大学教育の凡庸さ

2011年5月25日   岡本全勝

4月20日の日経新聞経済教室に、苅谷剛彦オックスフォード大学教授が、「学歴インフレ脱却急げ」を書いておられました。
今回の大震災と原発事故に際し、社会の土台や現場を支える一般ないし中堅の人たちの、整然とした助け合いと献身的な救助活動と事故処理に比べ、指導力を発揮し責任を負うべき「幹部」たち(政治家、官僚、電力会社のトップ)の対応に疑問符がつけられたこと。予想を超えた緊急事態とはいえ、いや、まさにそういうときだからこそ、指導的立場にある人々の「底」が見えたことを指摘し、これは日本の教育の国際的な評価、すなわち初中等教育への賞賛と、大学教育の凡庸さという見方とも符合すると主張されます。そして、次のように述べておられます。
・・1998年以後、新卒就職者に占める4年制大学卒業者の割合が高卒者を抜き、学校を終え仕事に就く若者の主流が大卒者になった。ところが、大卒者の就職の仕組みは、実質的にはいまだに「大学教育無用論」と呼べる状態が続いている。大卒者の大半を占める文系就職の場合、大学で何を学んだかが就職の際に問われない。どの学部を出たのかもどんな成績を取ったかもである。他方で、大企業や有名企業への就職のチャンスは、実態としては今でも大学の偏差値ランクの影響を受ける。
こういう状態が続いてきたのには理由がある。90年代半ばまでは、長期雇用と長時間労働を前提とした、仕事に就いてからの職業訓練の仕組みが、良くも悪くも機能した・・
・・他の先進国で学歴インフレという場合、ある企業に就くために有利となる学歴が、学部卒から大学院修了と変化するように、より高い段階への学歴へのシフトを意味する。知識経済化の下では、教育年数といった量の増加だけではなく、そこで行われる教育内容の高度化の面からも、人的資本の向上が求められる。高学歴化の一層の進展はその反映といわれる。
それに対し、日本で生じている学歴インフレは(理工系を除き)、大学入学時の偏差値ランクの上昇による選抜基準の上方シフトという、ふるい分けの面での変化であり、教育内容の高度化や教育年数の増加を伴わない・・
・・様々な比較調査が示すように、国際的にみても日本の大学生は大学外での学習時間が相当に短い。授業に予習が課されることもほとんどない。それは選抜度の高い大学でも変わりない。たくさんの文献を読みこなし、自分の考えを論理的に表現することが求められるリポートを書き、議論の仕方を身につけ、良い成績を収めてされに大学院で専門教育を受けるー米国の有力大学や筆者が勤務する大学では当たり前に行われていることに比べると、日本の大学はアルバイトと就職活動のための期間に見えてしまう・・
詳しくは、原文をお読み下さい。

続、強い現場・弱い本部

2011年5月13日   岡本全勝

先日、藤本隆宏先生の「強い現場・弱い本部」を紹介しました(2011年5月19日の記事)。新聞切り抜きを整理していたら、3月29日の日経新聞経済教室に、先生が今回の大震災に関して、「現場重視を復興の起点に」を書いておられるのに気づきました。それにしても、長く放置してあったものです。ようやく、整理する時間ができました(反省)。重複する部分は省略するとして、いくつかを引用します。
・・こうした日本の組織は「緩慢に来る危機」には概して弱い。目標が定まらず、互いに見合って責任が曖昧になる。幕末の幕府、戦前・戦中の軍部ほか(丸山真男説)、バブル崩壊後の政府・金融界、等々。しかし「復興」局面には強い。目標が定まれば、互いの配慮と幅広い分業が協働効果をもたらすからだ・・
・・今は被災地の現場の復旧に関心が集中するが、より長期的には、日本に「良いものづくり現場」を残していくことが、経済社会の復活にとり必須だ。「広義のものづくり」はサービス業や農業も含むが、特に貿易財において「良い現場」を残すことが「強い日本の復興」の起点となる・・国内に良い現場を残すことは、もはや国家の経済安全保障上の重要事項である・・

日本がくしゃみをすると

2011年5月1日   岡本全勝

4月30日の日経新聞「世界景気、回復は続くか」に、次のような記述がありました。
・・みずほ証券リサーチ&コンサルティングの試算によれば、日本の名目経済成長率が1.5ポイント低下した場合、東南アジア諸国連合(ASEAN)の成長率を0.43ポイント押し下げる・・
かつて日本の経済がアメリカに依存していた頃、「アメリカがくしゃみをすると、日本が風邪を引く」といった表現がありました。確かに、日本経済の規模が大きくなり、海外との交易が多くなると、日本経済が世界経済に及ぼす影響も大きいのですね。
今回の大震災で、日本の部品メーカーが生産を中断することで、日本国内だけでなくアジアやアメリカの会社や工場が、部品が調達できず、減産に追い込まれた例も多かったとのことです。