日本の幹部教育の失敗。初中等教育への賞賛と、大学教育の凡庸さ

4月20日の日経新聞経済教室に、苅谷剛彦オックスフォード大学教授が、「学歴インフレ脱却急げ」を書いておられました。
今回の大震災と原発事故に際し、社会の土台や現場を支える一般ないし中堅の人たちの、整然とした助け合いと献身的な救助活動と事故処理に比べ、指導力を発揮し責任を負うべき「幹部」たち(政治家、官僚、電力会社のトップ)の対応に疑問符がつけられたこと。予想を超えた緊急事態とはいえ、いや、まさにそういうときだからこそ、指導的立場にある人々の「底」が見えたことを指摘し、これは日本の教育の国際的な評価、すなわち初中等教育への賞賛と、大学教育の凡庸さという見方とも符合すると主張されます。そして、次のように述べておられます。
・・1998年以後、新卒就職者に占める4年制大学卒業者の割合が高卒者を抜き、学校を終え仕事に就く若者の主流が大卒者になった。ところが、大卒者の就職の仕組みは、実質的にはいまだに「大学教育無用論」と呼べる状態が続いている。大卒者の大半を占める文系就職の場合、大学で何を学んだかが就職の際に問われない。どの学部を出たのかもどんな成績を取ったかもである。他方で、大企業や有名企業への就職のチャンスは、実態としては今でも大学の偏差値ランクの影響を受ける。
こういう状態が続いてきたのには理由がある。90年代半ばまでは、長期雇用と長時間労働を前提とした、仕事に就いてからの職業訓練の仕組みが、良くも悪くも機能した・・
・・他の先進国で学歴インフレという場合、ある企業に就くために有利となる学歴が、学部卒から大学院修了と変化するように、より高い段階への学歴へのシフトを意味する。知識経済化の下では、教育年数といった量の増加だけではなく、そこで行われる教育内容の高度化の面からも、人的資本の向上が求められる。高学歴化の一層の進展はその反映といわれる。
それに対し、日本で生じている学歴インフレは(理工系を除き)、大学入学時の偏差値ランクの上昇による選抜基準の上方シフトという、ふるい分けの面での変化であり、教育内容の高度化や教育年数の増加を伴わない・・
・・様々な比較調査が示すように、国際的にみても日本の大学生は大学外での学習時間が相当に短い。授業に予習が課されることもほとんどない。それは選抜度の高い大学でも変わりない。たくさんの文献を読みこなし、自分の考えを論理的に表現することが求められるリポートを書き、議論の仕方を身につけ、良い成績を収めてされに大学院で専門教育を受けるー米国の有力大学や筆者が勤務する大学では当たり前に行われていることに比べると、日本の大学はアルバイトと就職活動のための期間に見えてしまう・・
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